今帰仁城は、北山王の居城として栄えた沖縄屈指のグスクだ。標高約100mの石灰岩丘陵に築かれ、屏風状に連なる石垣と複雑な縄張を今に残している。御内原や大庭からは伊江島や東シナ海を望む景観も魅力だ。このページでは、今帰仁城の歴史や特徴、整備状況を豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
今帰仁城の歴史・見どころ
今帰仁城は、沖縄本島北部の本部半島に築かれた北山王の居城であり、沖縄を代表するグスクのひとつとして知られる。築城年代は明確ではないが、12〜13世紀頃には成立していたと考えられており、14世紀には北山王統の拠点として大規模な整備が進められた。
城は標高約100mの石灰岩丘陵上に築かれ、北部一帯と伊是名・伊平屋など周辺離島を支配した北山勢力の政治・軍事・祭祀の中心であった。中国の『明実録』には、北山王怕尼芝(はにじ)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)が明へ使者を派遣し、朝貢を行っていた記録が残る。14世紀後半から15世紀初頭にかけての琉球は、北山・中山・南山の三勢力が並び立つ「三山時代」にあり、今帰仁城はその北山王国を象徴する存在だった。
なかでも攀安知の時代、今帰仁城は最大規模へと発展したとされる。しかし、中山の尚巴志による統一事業が進むなか、北山は次第に劣勢となっていく。北山滅亡の年代については、永楽14年にあたる1416年説と、永楽20年にあたる1422年説があり、『中山世鑑』『中山世譜』などの記録に違いがみられる。近年では和田久徳による1422年説も提示されている。
伝承では、尚巴志率いる中山連合軍は三千余の兵で今帰仁城を包囲したが、険しい地形と堅固な防御によって正攻法では攻略できなかったという。そこで巴志は、攀安知の家臣・本部平原を調略し、東北側の険阻な地点から城内へ侵入したと伝わる。激戦の末、攀安知は守護神として崇めていた霊石を斬りつけて自害し、北山は滅亡したとされる。こうした逸話は『琉球史料叢書』などにも記録され、今帰仁城の歴史を象徴する伝説として語り継がれてきた。
北山滅亡後、今帰仁城には中山によって「北山監守」が置かれた。1422年(永楽20年)に尚巴志の次男・尚忠が監守となり、その後も王族が派遣され、北部支配の拠点として機能した。首里城を中心とする首里へ諸按司を集住させた尚真王の時代にも、北山監守だけは今帰仁城に置かれ続けたことから、この城の戦略的重要性がうかがえる。
慶長14年(1609)の薩摩軍侵攻では、城内の建物が焼失したと伝わる。その後も監守は置かれていたが、寛文5年(1665)に七代目監守従憲のとき監守が首里へ引き上げ、今帰仁城は廃城となった。その後、城は具志川家(地元のノロ)の所有となり、以後は祭祀の場として受け継がれ、御内原やカナヒヤブなどは信仰の対象として現在も大切にされている。
また今帰仁城は、『おもろさうし』にも数多く詠まれている。「百曲がり積み上げて」と歌われた城壁の姿は、当時すでに壮大な名城として広く認識されていたことを物語っている。単なる軍事拠点にとどまらず、北山の権威と精神文化を象徴する存在だったといえる。
今帰仁城の特徴と構造
今帰仁城は、沖縄本島北部の石灰岩丘陵上に築かれた大規模な山城で、南側は連山、東側は志慶真川沿いの断崖に守られた天然の要害である。城域は約180m×350mに及び、沖縄のグスクの中でも最大級の規模を誇る。
縄張は連郭式で、西の平郎門から東へ向かって徐々に高くなり、大庭、御内原、一の郭、志慶真郭へと複雑に展開する。城壁は石灰岩を用いた曲線的な石積みで構成され、その屏風状に連なる姿は今帰仁城最大の特徴といえる。高さ6〜10mに達する石垣は、沖縄屈指の壮観さを誇る。
大庭には南殿・北殿跡があり、北殿には現在も礎石が残る。一の郭は城内最高所に位置する中心区画で、正殿跡や「北山今帰仁城監守来歴碑」が建つ。また、御内原は女性神官が居住した神聖な空間で、男子禁制の場所だったと伝わる。カナヒヤブと呼ばれる拝所も残り、今帰仁城が政治だけでなく祭祀の中心でもあったことがうかがえる。
東側の志慶真郭は、台所や倉庫が置かれた区画とされる。発掘調査では掘立柱建物跡や炉跡が確認され、中国・朝鮮・東南アジア(タイ・ベトナム)由来の陶磁器も多数出土した。これらは、今帰仁城が東アジア交易と深く結びついていたことを示している。
今帰仁城の整備状況
今帰仁城跡では、昭和30年(1955)の文化財指定以降、段階的に保存整備が進められてきた。琉球政府文化財保護委員会による記念物指定を皮切りに、昭和37年(1962)から40年にかけては平郎門や大隅の城壁修復が実施された。
昭和52年(1977)には国の補助を受けて「今帰仁城跡保存管理計画策定」事業が始まり、昭和55年(1980)からは「史跡 今帰仁城跡保存修理事業」として整備が進められ、現在も環境整備事業が進められている。
発掘調査では、志慶真郭や一の郭で掘立柱建物跡、炉跡、翼廊付基壇跡などが確認されたほか、中国・朝鮮・東南アジアとの交易を示す大量の陶磁器片も出土した。これらの成果を踏まえながら、石垣修復や遺構保護が段階的に進められている。
また、石垣の復元では、新旧の境界が分かるようマーキングを施し、伝統技術を継承する石工によって年次的に修復が行われている点も特徴である。昭和47年(1972)には国の史跡に指定され、昭和54年(1979)には大隅の西方などの追加指定区域も含めた保護が進められた。
平成12年(2000)には、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成資産として世界文化遺産に登録された。現在も周辺環境を含めた保存が進められており、北山の歴史と景観を未来へ継承する取り組みが続けられている。
参考文献:
- 『日本城郭大系1』(新人物往来社)
- 『グスク探訪ガイド 沖縄・奄美の歴史文化遺産〈城〉』(有限会社ボーダーインク2002)
- Webサイト「今帰仁城跡・修理されるグスク」(今帰仁村)
今帰仁城の撮影スポット・絶景ポイント
今帰仁城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、今帰仁城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。
今帰仁城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:沖縄県国頭郡今帰仁村字今泊4874 [地図を見る]
県別一覧:[沖縄県の城]
電話:0980-56-5767(今帰仁村社会教育課 歴史文化センター)
アクセス
飛行機利用
那覇空港から高速バス「名護バスターミナル」まで1時間45分、名護バスセンターからバス「今帰仁城址入口」降車、徒歩20分。
レンタカー利用
無料駐車場(20台)有り。
地図
今帰仁城:城ファンの知見と記録
今帰仁城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全3件)。
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首里城は首里城なりに、中城城はこれがまたおすすめ。
記録:よーすけ 1998
今帰仁城「なきじんぐすく」と読みます。海洋博記念公園の近く(といっても車でないと)にあります。勝連城はあたりがひらけた高台にありますが、こちらは草むらにうもれていて、「城跡」という感じが強いです。周囲の石垣が一周、ほぼ完全に残っているので、(首里城とは違った意味で)「琉球の城」の感じがわかることと思います。
記録:よーすけ 1998
沖縄本島北部一帯を支配した北山王の居城。14世紀頃の築城。やゆるやかにカーブをしながら続く城壁が美しい。
記録:又兵衛 1998