写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン
八戸城の歴史と見どころ
八戸城(はちのへじょう)は、青森県八戸市の中心部に位置し、太平洋に面した海岸段丘の北端を利用して築かれた。古くは「柏崎」と呼ばれたこの地は、馬淵川と新井田川の形成した低地帯と丘陵地の境にあり、自然の地形を活かした要害であった。
その始まりは、南部師行の系統に連なる根城南部氏の時代にさかのぼる。南部政長の三男・信助が根城の支城として「中館」を築き、代々中館氏がこれを守ったのが起源とされる。その後、寛永4年(1627)に根城南部氏が遠野へ転封されると、当地は三戸南部氏の直轄地となり、慶安年間(1648〜52)に南部利直が地勢の利を見て柏崎に館を構え、城下整備に着手した。
寛文4年(1664)、盛岡藩主南部重直が嗣子なく没すると、幕府は領地を分割し、弟・直房に八戸二万石を与えて八戸藩が成立する。これにより、八戸城の本格的な築城と城下町の形成が進んだ。直房は到着後、家臣団の編成と町割を進め、三日町・十三日町などの市街を整備して藩政の基盤を築いた。
二代直政の時代には、藩制の整備と産業の奨励が進み、八戸は経済的にも発展した。八代信真の治世には国家老・野村軍記が改革を進め、城地の整備も行われて城下の景観は一新した。以後、八戸城は藩の中心として栄え、南部氏十二代の居城として二百年あまり続いた。天保9年(1838)には城主格として認められたが、天守建設の計画は果たされぬまま、明治4年(1871)の廃藩置県で廃城となった。
八戸城の特徴と構造
八戸城は、平地に築かれた館形式の城で、本丸・二の丸・外郭の三郭から構成されていた。本丸は城地北端にあり、約150m×200mの規模をもつ。四周を土塁と水堀で囲み、北方の高所には物見台や庭園があったと伝わる。現在、三八城神社付近が御殿跡にあたる。大手門は南側にあり「綱御門」と称されたが、現存する旧南部子爵邸表門(八戸市指定文化財)はその遺構を伝える。
二の丸は本丸東方に位置し、藩主一族や重臣の屋敷が並んだ。外郭は市街を取り巻く形で設けられ、要所に見附や番所、桝形柵を備えた。とくに西南方面の防備が重視され、上組町南端には桝形柵、根城方面への口には総門が設けられた。こうした構造は、城というより政治的中枢としての館の性格が強く、のちに「御屋敷」と呼ばれるようになった。現在、土塁や旧表門の復元工事により往時の面影をわずかにとどめている。
- 『日本城郭大系2』(新人物往来社)
八戸城の移築城門
八戸城の移築城門は2基ある。旧八戸城東門は根城の入城門として使用されている。また、角御殿表門は、八戸城址の西側すぐ県道23号線沿いにある南部会館表門となっている。
八戸城の撮影スポット
八戸城(三八城公園)の移築城門、角御殿表門は西向きなので午後の撮影が適している。
八戸城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、八戸城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。八戸城の周辺史跡を訪ねて
八戸城まで来たら、根城とセットでどうぞ。
八戸城の周辺おすすめ名物料理
八戸城(現・三八城公園・みやぎじょうこうえん)周辺は市庁舎や文化施設が多く、飲食店はやや離れた六日町・十三日町エリア(徒歩約15〜20分)に集中している。
八戸城の観光情報・アクセス
所在地
住所:青森県八戸市内丸1丁目1 [MAP] 県別一覧[青森県]
電話:0178-43-9141(八戸市公園緑地課)
※八戸城は、三八城公園(みやぎじょうこうえん)となっており散策自由。
アクセス
鉄道利用
JR八戸線、本八戸駅下車、南へ徒歩すぐ。駅前の兵陵が八戸城址。
マイカー利用
八戸自動車道、八戸ICから北へ5.5km(約13分)。または、八戸北ICから7km(約15分)。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。
八戸城:城ファンたちの記憶
実際に八戸城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全4件)。




八戸城址は現在、三八城公園となっているが、これは「みやぎじょうこうえん」と読み、三戸郡八戸を略したネーミングとなっている。50年ほど前は、八戸城址の麓は田んぼが拡がっており、本八戸駅前の通りは堀だった。このあたりは空襲を受けたため古い町並みは無いらしい。
( shirofan)
南部師行は延元3年(1338)の「堺浦の戦い」で戦死する。大阪府堺市石津のその場所には南部師行の供養塔がある。また、八戸博物館前には、南部師行の騎馬像がある。
( 北のまほろば)
津軽独立は八甲田山で目が届かなかった。城門は移築されているが2門現存している。また、本丸には土塁が残る。三戸が歴史が古く、そのため八戸よりプライドを持っているようです。このあたりの地名は、アイヌの言葉が入っているため、「世増(よまさり)」など読めない地名があります。
( 北のまほろば)
昔は「土地」「屋敷」と持てば格式があった。中でも「門」を持てば格式が特に上がった。これは武家以外は門を持つことが許されていなかったためで、明治以降、それが許され移築城門を持つ家が出てくることになる。
( shirofan)