写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン
川手城の歴史と見どころ
川手城は別名を革手城といい、岐阜市南部の荒田川と境川にはさまれた低地に位置した。境川は美濃と尾張の境を示す川で、かつて木曽川はたびたび流路を変え、平島・東中島などの地名が示すように、この一帯は河川の動きに大きく左右された地域であった。長森城が境川上流に築かれていたが、のちに土岐氏は守護領支配の中心を川手へ移している。
築城は、土岐頼康が美濃・尾張・伊勢三か国の守護となった時期とされる。頼康は康永元年(興国3・1342)に叔父頼遠が誅殺されたのち、将軍の命により土岐氏惣領となり、文和2年(正平8・1353)の光厳上皇小島行幸の功によって昇殿を許され、のち尾張守護も兼任した。延文3年(正平13・1358)に出家して善忠と号したが、翌年から仁木義長と争い、さらに伊勢をも領して三か国守護として勢力を確立した。その際、頼康は川手城を本拠とし、長森城に弟直氏を、揖斐城には弟頼雄を配して支配網を構えた。
頼康没後、家督は頼雄の子康行が継いだが、島田満貞との対立から明徳2年(元中8・1391)に小島城へ逃れ、のち赦免されたものの、美濃守護は西池田の土岐頼忠に移った。以後、宗家は頼忠の系統が継承し、康行は守護地喪失への不満から討たれ、家督は頼益に移る。頼益は幕府七頭の一人として重用され、応永の乱では大内方の諸勢を討ち、勢威を高めた。
応永21年(1414)には持益が家督を継ぎ、関東地方へ出兵して伊勢北畠氏の乱・南朝勢力・鎌倉公方足利持氏の動乱を鎮圧するなど活躍した。この持益の守護代であった斎藤利永は、文安2年(1445)に川手城防御の要害として沓井(のち加納城本丸)に新たな居城を築き、小守護代石丸光利は茜部(あかなべ)に船田城を構えた。この三城は美濃支配の重要拠点となった。
やがて土岐氏内部の継嗣争いから守護代斎藤氏と石丸氏が対立し、いわゆる「文明美濃の乱」(船田合戦)が起こる。以後、川手城は守護家動乱の舞台となったが、現在は女子高校の敷地となり、公園に標柱が立つのみで、南門・西屋敷などの地名が往時をしのばせる。
川手城の特徴と構造
川手城は、荒田川と境川にはさまれた沖積低地に築かれた平城である。周辺は木曽川の旧流路に近く、湿地と河川の交わる要衝で、外郭・屋敷地・馬場などの地名にかつての城域の広がりが認められる。詳細な縄張は伝わらないものの、守護土岐氏の本拠として政治的機能が重視された城で、のちに斎藤利永が沓井に築いた居城(加納城の前身)と連携し、美濃支配網の中心を形成した。現在は遺構を失っているが、位置関係と周辺地名にその構造の一端が残る。
参考文献:
- 『日本日本城郭大系9』(新人物往来社)
川手城の周辺史跡を訪ねて
この地域だと、美濃支配の拠点となった沓井城(加納城)、船田城を訪れるのも良い。川手城を含むこの3城は驚くほど近い。
川手城の観光情報・アクセス
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。




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