写真:岡 泰行

加納城の歴史と見どころ

かつて東海道の要衝を押さえた要地に、威容を誇った平城があった。加納城である。関ヶ原の戦い直後、徳川家康は旧岐阜城の役目を終わらせ、新たな城をこの地に築かせた。その城こそが、加納十万石の中心となる加納城であった。築城は天下普請で行われ、本多忠勝ら名だたる武将が普請奉行を務めた。堀と土塁、そして石垣に囲まれた広大な郭は、江戸幕府の威信を体現するものであり、のちの譜代大名たちの居城として幕末まで存続した。今もその一部が町の静けさの中に残り、往時を偲ぶ手がかりとなっている。

加納城の歴史

加納城の起源は、文安2年(1445)にさかのぼる。美濃国守護・土岐将益の家臣である斎藤利永が、長良川の支流沿いに築いた「沓井城」が前身であった。この城は川手城の支城として機能していたが、斎藤氏本宗(土岐氏の重臣)が断絶するとともに廃され、長く歴史の表舞台から姿を消すこととなる。

再びこの地に城が築かれたのは、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの直後である。徳川家康は、戦後の西国支配の拠点として、旧岐阜城の代替となる城を加納の地に築かせた。築城には本多忠勝らが関与し、岐阜城からの建材移築も行われた。慶長7年(1602)に着工し、翌慶長8年(1603)には完成する。初代加納藩主には、家康の娘・亀姫を正室に持つ奥平信昌が任じられた。

以降、城主は奥平氏、大久保氏、戸田氏(松平家)、安藤氏、そして永井氏と代々譜代大名が交代しながら加納藩を治めた。なかでも永井氏は幕末まで居城とし、加納は政治・軍事の要衝として機能し続けた。

明治4年(1871)に廃城となり、建物は解体され、堀も埋め立てられた。現在、往時の姿を今に伝える遺構が静かに残されている。本丸跡は「加納公園」として整備され、石垣の一部や土塁が復元保存されている。また、かつての堀の痕跡は北側・東側にわずかに認められ、清水川沿いの地形にもその名残が見られる。二の丸跡では、御三階櫓が建っていた位置を示す表示と模型等により規模が紹介されている。城下町の町割りも一部に残り、道筋や地名に城下の記憶をとどめているのが印象的である。

戦後、高度経済成長期には、旧城域にも都市開発の波が押し寄せた。周辺は宅地化・工業化が進み、一時は遺構の保存が危ぶまれる状況もあったが、昭和30年代から40年代にかけての埋蔵文化財調査によって、加納城跡の価値が再評価され、発掘調査が本格化した。これを受けて昭和58年(1983)には国の史跡に指定され、本丸跡を中心に保存整備が進められた。

とりわけ注目されたのが、戦後の発掘調査において確認された堀の複数時期の構造である。初期築城時の幅広い外堀に加え、後年に障子堀や土塁の築き直しが行われていたことが確認され、江戸期を通じた改修の痕跡が発見された。こうした成果は、単に加納城の歴史を明らかにするのみならず、近世城郭における都市防衛と治政拠点としての変遷をも照らすものであった。

現代では、本丸周辺が静かな公園として親しまれ、加納小学校や加納西公民館に隣接する一角には、遺構保存の一環として礎石建物の表示もなされている。過去と現在が地続きに残る場所として、加納城跡は今もなお、多くの人々に歴史の重みと時の流れを感じさせる空間となっている。

加納城の特徴と構造

加納城は、長良川水系の支流に囲まれた微高地に築かれた平城である。三重に設けられた堀と、巧みに配置された曲輪群が特徴で、徳川政権下の初期城郭にふさわしい防御性と格式を備えていた。中核をなすのは、本丸・二の丸・三の丸の三郭であり、特に二の丸に置かれた御三階櫓は、天守に準じる存在感を示していた。これらを囲う堀は、戦国期の障子堀の要素を取り入れつつ、江戸前期には改修が加えられていたことが発掘により明らかとなっている。

現在は多くの建築遺構が失われたが、以下のような遺構が今も確認でき、訪れる者に城の記憶を手渡している。

本丸跡

加納城の中心であった本丸は、現在「加納公園」として整備されている。広場の一角には城跡碑や解説板が建ち、東側には石垣の一部が残る。また、土塁の一部も復元されており、かつての輪郭が目に浮かぶ。この本丸の周囲では、発掘調査によって三時期に分かれる堀構造が確認され、初期には堀障子を備えていたことが実証されている。

二の丸跡と御三階櫓

二の丸には、天守の代用として御三階櫓が建てられていた。この櫓は、岐阜城から移築されたとの伝承があり、三重四階の層塔型であったという。享保13年(1728)に落雷で焼失し、以後は再建されなかった。現在、建物そのものは残されていないが、櫓が建っていたとされる位置には案内板が立ち、図面や模型等を通じて当時の姿が紹介されている。

石垣と土塁

本丸南西隅を中心に、加納城の石垣が現在も確認できる。角部を直角に折る「隅櫓」配置の構造が見て取れ、城の輪郭を今に伝えている。また、土塁についても、発掘調査によって複数の改修段階が判明しており、本丸北側や西側では盛土の積層が観察された。現在、公園整備により一部が視認可能な状態で復元されている。

堀跡と堀障子

外堀・内堀の大半は近代以降に埋め立てられたが、北側や東側にはその痕跡がわずかに残る。特に清水川に沿う地形は、往時の堀のラインと一致し、堀として機能していた可能性が高いとされる。また、発掘調査では本丸を囲う内堀において、堀障子とみられる畝状構造が複数検出されており、初期築城時の防御思想を明確に示している。

参考文献:

  • 『加納城跡』資料(2025岐阜市歴史まちづくり課)
  • 『加納城跡[かのうじょうあと]』資料(2023岐阜県文化伝承課)
  • 『加納城跡の発掘 調査22年の成果』調査報告書(2010岐阜市教育文化振興事業団)
  • 加納城跡 現地説明会資料(2004岐阜市教育委員会)
  • 加納城跡 文化遺産オンライン
  • Wikipedia「加納城」

加納城の学びに役立つ本と資料

岐阜城の麓、岐阜公園内の歴史博物館に、城全域の復元模型が展示されている。

加納城周辺の史跡を訪ねて

加納天満宮・岐阜城・盛徳寺・光国寺・革手城(川手城)。革手城は、今は、女子高になっています。 JR岐阜駅・名鉄新岐阜駅下車、バス「下川手」または岐南町方面行き「加納付属小学校前」降車。また、加納天満宮のそばの盛徳寺・光国寺には、城主、奥平昌信夫婦の墓もあります。
[厚見朝臣義昌・半兵衛 (2005.1.23)]
[近藤嗣治 (2011.03.27)]

加納城周辺のおすすめ名物料理

岐阜市加納本町2丁目に佇む老舗うなぎ料理店「二文字屋(にもんじや)」は、1620年(元和6年)創業と伝わる、400年以上の歴史を誇る名店。江戸時代の中山道・加納宿の面影を残す趣深い佇まいが、外観からも感じられる。歴史ある風情ある雰囲気で、じっくり鰻を味わいたい方におすすめ。

加納城のアクセス・所在地

所在地

住所:岐阜県岐阜市加納丸之内 [MAP] 県別一覧[岐阜県]

鉄道利用

JR東海道本線、岐阜駅下車、バス10分「加納附属小学校前」降車、徒歩3分。または、名鉄名古屋本線、加納駅下車、徒歩10分。

マイカー利用

東海北陸道、岐阜各務原ICから国道22号線を北へ。無料駐車場(20台)有り。岐阜大学付属小・中学校のそば。

加納城に寄せて:訪れた人の声

これまでに届いた声:全10件

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    「お城」とはある意味で「非日常」なものですが、その日はボーイスカウトの皆さんの集合場所になっていて、たくさんの子どもであふれかえっていました。「おいおい君たちが走りまわっているのは、それ虎口だよ!」と言ってもわかってもらえるわけもなく(そりゃそうだ)、ただ春の日が過ぎていく、といった風情でした。この「お城」は「日常」に溶け込み、今を生きているんだなぁと感じました。

    ( せんべい)さんより

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    本丸の石垣、濠のあと、土塁、二の丸の石垣等が残っています。岐阜城の天守閣を二の丸櫓と移築した平城だったそうです。規模はあまり大きくなく、徳川家康が、娘婿のために造ったそうです。でも、内心は、織田氏の名残りを廃絶したかったのでしょう。本丸の石垣や土塁は結構綺麗に残っていますが、建築物は一切残っていません。

    ( 一鉄)さんより

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    岐阜城廃城後、その天守が隅櫓に使われたそうです。岐阜の城主になった人は必ず滅んでますよね、なんでもその原因が、天守にあるそうで、道三時代、築城時に城のヒミツを知っている大工を生き埋めにしたそうです。その大工が代々たたってやる〜と言い残したそうで、加納にうつされてからも、その軒下?をくぐった人は、なんらかの形で死ぬと言われていたそうです。この加納から岐阜城の復興天守が見えますが、なにやら変わった光景です。

    ( 半兵衛)さんより

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    「加納」という地名の由来は、新たに開発され寄進された荘園に由来するのでさないかと思われるが定かでない。

    ( 一鉄)さんより

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    本丸跡は元々は陸軍の連隊が使用していたが、その後、自衛隊の敷地となり、現在のように城跡公園となりました。隣接の気象台は二の丸跡(例の岐阜城の天守閣が隅櫓としてあった)、小学校には、遊び場と化した土塁があります。

    ( 稲葉白兎)さんより

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    隣を流れる川(荒田川?)が、加納城の東のはて。当時はいわゆる東の水堀だったわけです。川にかかった橋から城跡を眺めると、何となく城郭の面影がイメージできます。

    ( 稲葉白兎)さんより

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    関ヶ原の後、家康がじきじきに築城を命ぜられ、本多忠勝が指揮、岐阜城の天守(池田氏時代に建造された物)を二の丸に移した。しかし、後に享保13(1728)火事で焼失(時の城主老中安藤信友)。残念!初代城主は家康の娘亀姫(あの悲劇の武将信康の同母妹)の夫 奥平信昌、元長篠城城主である。妻亀姫は母に似て気性が激しかったようで、彼女の雷の犠牲になった侍女たちの墓が近くにある。

    ( 厚見朝臣義昌)さんより

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    見所は石垣ぐらいでしょうか。チャート製の石垣はそうないと思います。石垣は本丸・二の丸の一部(北辺・気象庁の南)三の丸の一部(稲荷神社があった。現在幼稚園と小学校の間にある。家紋が彫られた石があるらしい)のみ。現在気象庁のやぐらがあるところが岐阜城天守を移して御三階と呼ばれた二の丸隅櫓のあった場所です。城の北には亀姫に殺された侍女12人の墓(十二相神)があります。

    ( 厚見朝臣義昌)さんより

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    近くを散策してみると、外堀の水源になっていた荒田川が流れています。また、この加納という地名のあとには加納○○町という地名になっており20種類ほどは数えられます。特に加納西丸町や大手町などは城の一角であったことを思わせる地名になっておりますし、加納永井町や加納奥平町などは、知る人ぞ知る歴代の城主になった人の地名です。加納竜興町なんて地名もあります。地名だけを見ても面白いですよね。

    ( とおる)さんより

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    お城の跡は、石垣と土塁だけです。でも、付近には小、中学校、聾学校、幼稚園、測候所などの ほとんどが城跡だと思います。今思うと、とても広い敷地だったんだとちょっと感慨深い気持ちです。

    ( 近藤嗣治)さんより

城の情報

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