写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン
加納城の歴史と見どころ
加納は岐阜市南部に位置し、中山道の鵜沼宿と河渡宿の間にあった宿駅を母体とする城下町だ。古名は沓井・吉田といったが、『新撰美濃志』は織田信長が岐阜城へ入った後に加納と改めたと記す。一方、『東大寺文書』大治元年(1126)には「平田荘加納」とあり、地名の古さがうかがえるといえる。
加納城は二度築かれている。初期の築城は、美濃守護で長森城主、土岐頼遠が康永元年(興国3年、1342)に誅されたのち、兄頼清の子頼康が美濃・伊勢・尾張三国の守護となり革手城を築いたことに始まる。七代持益の時代、守護代斎藤利永が革手城北方の沓井に防備の要害として築いたのが加納城で、位置は現本丸付近とされる。利永は康正2年(1456)に八代土岐成頼を迎えた。応仁元年(1467)に応仁の乱が起こり、成頼が在京していた間は子の妙椿が美濃を統率した。
妙椿没後、利国と石丸利光の勢力争い、成頼後継問題が交錯し、文明美濃の乱へ発展した。明応4年(1495)に元頼・利光が敗れ、翌明応5年(1496)に自刃し乱は収束した。しかし政頼・頼芸兄弟の抗争が続き、この間に斎藤道三が台頭した。天文7年(1538)に道三が斎藤宗家に入った時、加納城は廃された。
再築城は慶長6年(1601)で、徳川家康が本多忠勝に命じて岐阜城を移した際、3年をかけて築いたのが現遺構の基盤だ。同年、家康は奥平信昌を加納10万石に封じ、信昌・忠政・家昌の三代が続いたが、寛永9年(1632)に忠隆が嗣子なく没して奥平氏は断絶した。以後、大久保忠興、戸田光重・光永・光熙、安藤信友、永井直陳らが城主となり、明治維新を迎えた。
明治2年(1869)以後、城は破却され、本丸石垣・筋金門・鉄門跡、天守跡などが旧状を物語っている。
加納城の特徴と構造
加納城は、長良川水系の支流に囲まれた微高地に築かれた平城だ。本丸・二の丸・三の丸を中心に外堀・石垣・土塁を備える。
現存遺構の骨格は慶長6年(1601)の再築によるものだ。本丸は城内最高所に位置し、西北隅に天守跡が残る。周囲には埋門・筋金門・鉄門の跡が確認でき、加納城中枢の構造を示す景観がある。
昭和10年調査時、本丸周囲の堀は水田化していたが、現在は市街化が進む。二の丸・三の丸は公共施設として利用され、厩曲輪・外堀・土手はところどころ旧状をとどめるのみだ。加納城跡は、昭和58年(1983)、国指定史跡となり、石垣の旧態は比較的良好に伝わっているといえる。
本丸跡
加納城の中心であった本丸は、現在「加納公園」として整備されている。広場の一角には城跡碑や解説板が建ち、石垣と内側塁壁(土塁)が残る。本丸の東側では、平成16年(2004)の発掘調査で、障子堀が確認されている。

本丸跡・内側塁壁は土塁。写真奥は天守台跡となる。

本丸の東には枡形虎口の遺構が残る(写真は二ノ門付近)。このほか、本丸の城門は加納公園の南側入口となっている臆病門跡、北側入口となっている埋門跡があるが、いずれもその痕跡は残されていない。
天守台跡
本丸北西隅に、最も高い場所がある。江戸時代に描かれた幾枚かの絵図に「天守台」と記されているが、天守そのものが描かれた絵図はなく、実在したかは不明とされている。城外側から天守台を見ると隅部の石垣が残っているのが分かる。

天守台石垣。隅部の石垣が残る。
二の丸跡と御三階櫓
二の丸には、天守の代用として御三階櫓が建てられていた。城内唯一の三重櫓で、岐阜城の天守を移築した伝承がある。享保13年(1728)に落雷で焼失し、以後は再建されなかった。
参考文献:
- 『日本日本城郭大系9』(新人物往来社)
- 『加納城跡の発掘 平成22年3月』(岐阜市教育文化振興事業団)
加納城の学びに役立つ本と資料
岐阜城の麓、岐阜公園内の歴史博物館に、城全域の復元模型が展示されている。
加納城の撮影スポット
加納城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、加納城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。加納城の周辺史跡を訪ねて
加納城の周辺おすすめ名物料理
岐阜市加納本町2丁目に佇む老舗うなぎ料理店「二文字屋(にもんじや)」は、1620年(元和6年)創業と伝わる、400年以上の歴史を誇る名店。江戸時代の中山道・加納宿の面影を残す趣深い佇まいが、外観からも感じられる。歴史ある風情ある雰囲気で、じっくり鰻を味わいたい方におすすめ。
加納城の観光情報・アクセス
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。
加納城:城ファンたちの記憶
実際に加納城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全10件)。




お城の跡は、石垣と土塁だけです。でも、付近には小、中学校、聾学校、幼稚園、測候所などの ほとんどが城跡だと思います。今思うと、とても広い敷地だったんだとちょっと感慨深い気持ちです。
( 近藤嗣治)
近くを散策してみると、外堀の水源になっていた荒田川が流れています。また、この加納という地名のあとには加納○○町という地名になっており20種類ほどは数えられます。特に加納西丸町や大手町などは城の一角であったことを思わせる地名になっておりますし、加納永井町や加納奥平町などは、知る人ぞ知る歴代の城主になった人の地名です。加納竜興町なんて地名もあります。地名だけを見ても面白いですよね。
( とおる)
見所は石垣ぐらいでしょうか。チャート製の石垣はそうないと思います。石垣は本丸・二の丸の一部(北辺・気象庁の南)三の丸の一部(稲荷神社があった。現在幼稚園と小学校の間にある。家紋が彫られた石があるらしい)のみ。現在気象庁のやぐらがあるところが岐阜城天守を移して御三階と呼ばれた二の丸隅櫓のあった場所です。城の北には亀姫に殺された侍女12人の墓(十二相神)があります。
( 厚見朝臣義昌)
関ヶ原の後、家康がじきじきに築城を命ぜられ、本多忠勝が指揮、岐阜城の天守(池田氏時代に建造された物)を二の丸に移した。しかし、後に享保13(1728)火事で焼失(時の城主老中安藤信友)。残念!初代城主は家康の娘亀姫(あの悲劇の武将信康の同母妹)の夫 奥平信昌、元長篠城城主である。妻亀姫は母に似て気性が激しかったようで、彼女の雷の犠牲になった侍女たちの墓が近くにある。
( 厚見朝臣義昌)
隣を流れる川(荒田川?)が、加納城の東のはて。当時はいわゆる東の水堀だったわけです。川にかかった橋から城跡を眺めると、何となく城郭の面影がイメージできます。
( 稲葉白兎)
本丸跡は元々は陸軍の連隊が使用していたが、その後、自衛隊の敷地となり、現在のように城跡公園となりました。隣接の気象台は二の丸跡(例の岐阜城の天守閣が隅櫓としてあった)、小学校には、遊び場と化した土塁があります。
( 稲葉白兎)
「加納」という地名の由来は、新たに開発され寄進された荘園に由来するのでさないかと思われるが定かでない。
( 一鉄)
岐阜城廃城後、その天守が隅櫓に使われたそうです。岐阜の城主になった人は必ず滅んでますよね、なんでもその原因が、天守にあるそうで、道三時代、築城時に城のヒミツを知っている大工を生き埋めにしたそうです。その大工が代々たたってやる〜と言い残したそうで、加納にうつされてからも、その軒下?をくぐった人は、なんらかの形で死ぬと言われていたそうです。この加納から岐阜城の復興天守が見えますが、なにやら変わった光景です。
( 半兵衛)
本丸の石垣、濠のあと、土塁、二の丸の石垣等が残っています。岐阜城の天守閣を二の丸櫓と移築した平城だったそうです。規模はあまり大きくなく、徳川家康が、娘婿のために造ったそうです。でも、内心は、織田氏の名残りを廃絶したかったのでしょう。本丸の石垣や土塁は結構綺麗に残っていますが、建築物は一切残っていません。
( 一鉄)
「お城」とはある意味で「非日常」なものですが、その日はボーイスカウトの皆さんの集合場所になっていて、たくさんの子どもであふれかえっていました。「おいおい君たちが走りまわっているのは、それ虎口だよ!」と言ってもわかってもらえるわけもなく(そりゃそうだ)、ただ春の日が過ぎていく、といった風情でした。この「お城」は「日常」に溶け込み、今を生きているんだなぁと感じました。
( せんべい)