2021.05.09   /   城の歴史旅   /  

シリーズ『城の歴史旅』

城ファンが一期一会で出会ってきた城や情報─。
シリーズ『城の歴史旅』は、記憶に残したい見聞を強者たちが紡ぐコラムです。

[File.012] 本荘良智

シリーズ城の歴史旅:
『日本三大山城を歩く・大和高取城 Part3』

松の門趾を抜けると相変わらず登りはキツいですが直ぐに宇陀門趾があります。宇陀は高取から東方向にその地名も残っています。この地は神武天皇が大和国を攻め橿原で即位するまでの拠点となった地で門名由来があるのでしょうがその辺りはわかりません。
高取城 宇陀門址(本荘良智)
(宇陀門址)

先に進むと門と門の間隔は狭くなりますが石垣は大きくなっていきます。次は千早門趾、やっと高取城主要部分に到達です。右手に城代屋敷趾見ながら平坦部に出ます。ココは大手筋・吉野口・壷坂口そして高取城心臓部入口に当たる大手門が在る交差点。そのまま大手門に突入したいところですが、まだまだ早いのです。大手門手前左手に降りていくと三の丸、そのまま東へ進むと吉野口へとなります。今号ではそちらの魅力に迫ります。

高取城 大手筋・吉野口・壷坂口・大手門の交差点(本荘良智)
(大手筋・吉野口・壷坂口・大手門の交差点)

三の丸には幾つかの井戸と郭の北側奥へ進むと備中松山城の大池より規模は小さいですが石垣で囲んだ5m×3m角の溜池が存在します。この溜池はこの先吉野口郭にも存在します。確実な用途は分かりませんが飲水は井戸から、他生活用水は溜池の水を使用していたのではないでしょうか。
高取城 石垣で囲われている溜池(本荘良智)
(石垣で囲われている溜池。奥には水が満杯の際、谷底へ流す為の切り欠きも在る)

更に東へ向かいましょう。左側は自然の谷となり右側は本丸北腰郭の石垣が「ここから上には行かせません」と言う位の圧迫感が伝わってきます。すると食違いの土塁に出くわします。往時は石が積まれていたのか若干の石も転がり小さな門が在ったのかもしれません。ココから左手は段状に低い石垣も在る吉野口郭、三の丸より明らかに広い面積を持ち、おそらく侍屋敷も沢山あったのではと想像がつきます。その吉野口郭を北方向奥へ、地面は杉の枝打ちした枝が一面に敷き詰まっていますので注意しながら郭先端に向かうと石垣の下に堀切、斜面にそのまま落ちています。堀底から上の石垣を臨むとかなりの深さが有るのが分かります。
高取城 堀底からの吉野口郭石垣(本荘良智)
(堀底からの吉野口郭石垣)

堀切を這い上がり城道に戻り弧を描く様に南に向かうと吉野口門址になります。ここが主要城域最南端の出入り口になり堀切と土橋で守られています。三の丸方向から来ると気付かないのですが土橋を渡り振り返ると、なんとこの吉野口門は登り石垣の間に設けて在ったのです。土橋の下はかなりの急斜面、しかも前日の雨で足元は濡れている。二の足を踏むも下から観てみたい欲望にかられ木の根等につかまりながら何とか下へ。攻め上がる足軽の気持ちになって見上げるとこれはもう「無理」の一言。
高取城 振り返って見た吉野口門址と土橋(本荘良智)
(振り返って見た吉野口門址と土橋)

高取城 登り石垣を下から見上げる(本荘良智)
(登り石垣を下から見上げる)

またもや堀切を這い上がり城道を南に進みます。右手には本丸南東角に繋がる尾根を大堀切で断ち切っていますが、横目で見ながら先へ。この先は防御施設として石垣で固められた堀切が2条在ります。一番外側には名が付けられ「弥勒堀切」と呼ばれています。
さてこの「弥勒」の意味ですが、仏教用語で「慈しみ」他に弥勒菩薩の事を指し、この菩薩は未来に仏として現れ人々を救済すると云われているそうです。
高取城 弥勒堀切(本荘良智)
高取城 弥勒堀切(本荘良智)
(弥勒堀切)

(文・写真=本荘良智)

シリーズ『城の歴史旅』

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