写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン
土浦城の歴史と見どころ
土浦城(つちうらじょう)は、桜川の河口近く、かつて迎ケ浦(むかえがうら)と呼ばれた水辺に築かれた平城だ。伝承では平将門が砦を築いたともいうが、史料上に現れるのは室町時代の永享年間(1429〜1441)で、若泉三郎(今泉三郎)が築城したのが始まりとされる。若泉は長禄3年(1459)から3年がかりで桜川の流路を現在の河道に付け替えるなど、土浦の基礎を築いた人物だった。
戦国期に入ると、永正13年(1516)頃に小田氏の家臣・菅谷氏が城主となり、小田氏十四代政治・十五代氏治(うじはる)を支えた。氏治は小田城が敵に落ちるたび土浦城へ逃れ勢力回復を図ったが、永禄12年(1569)の手這坂(てばいざか)の戦いで真壁軍の鉄砲隊に大敗し、帰城途中に城を奪われ、以後、再び小田城を取り戻すことはできなかった。氏治は土浦城や木田余城で抵抗を続けたが、天正11年(1583)に佐竹氏に降伏し、土浦の小田氏時代は終焉を迎える。
天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐後、関東は徳川家康の支配下に入り、土浦城は家康の次男・結城秀康の所領となった。秀康は慶長6年(1601)に越前北庄(福井城)へ移るまでの約11年間、検地や土浦小判の鋳造などを行い町の整備を進めた。
その後、松平・西尾・朽木(くつき)氏と領主が交替した。朽木氏時代の明暦2年(1656)頃に、城主の朽木稙綱が本丸の表門を太鼓櫓門へ改築し、現在もその姿を残している。寛文9年(1669)には老中・土屋数直が4万5千石で入城し、馬出しや新郭を設けるなど近世城郭としての姿を整えた。のちに老中・土屋政直の時代には六万五千石で再入封し、三度の加増を経て九万五千石に達し、藩政・文教ともに充実をみた。以後、土屋家は幕末まで続く。最後の藩主は水戸斉昭の十七男である挙直(たかなお)で、九代藩主の寅直(とらなお)は天狗党騒動の多難な時期に藩政改革を行った名君の一人として知られている。
明治維新により廃藩置県を迎えると、土浦藩の歴史は閉じ、本丸跡は県庁・郡役所が置かれた。昭和9年(1934)、市川之推(これのり)設計のもと本丸・二の丸跡が亀城公園として整備され、現在にその姿をとどめている。
土浦城の特徴と構造
土浦城は、桜川の水を引き五重の堀をめぐらせた平城で、水城の要素も持っていた。その姿が水上に浮かぶように見えたことから「亀城」とも呼ばれた。城の規模は東西約400m×南北約800mで、本丸を中心に二の丸・巽郭・西郭・端郭などが連なり、輪郭式と梯郭式を折衷した構造をもつ。
本丸は東西約90m×南北約50mの変形の楕円形で、周囲には土塁がめぐらされ、南面に現存する櫓門(太鼓門) を、東北に霞門(かすみもん)を設けていた。土塁上には白漆喰塀がめぐり、東西に二層櫓が建てられていたが、天守は存在しない。城内では、重臣の屋敷は巽郭・西郭に並び、外郭へと軽輩の屋敷が配されていた。城の東側には水戸街道が通り、城下町が整然と展開した。現在、太鼓門(櫓門)と霞門、旧前川口門が往時の姿を伝え、太鼓門は県指定文化財として保存されている。
参考文献:
- 『日本城郭大系6』(新人物往来社)
- 「亀城公園(旧土浦城跡)」土浦市Webサイト
土浦城東櫓
土浦城の東櫓は、土浦市立博物館付属展示館。土浦城の歴史や土塁の土層断面、城下町平面図などが見られる。そのほか、「上高津貝塚ふるさと歴史の広場・考古資料館」土浦城の復元模型、関係資料がある。土浦駅下車、西口から徒歩15分。AM9:00〜PM4:30まで。休館日は、毎週月曜日、国民の祝日は翌日、年末年始。
城内の見どころリスト
- 前川口門
- 櫓門(太鼓門)
- 東櫓(展示館)
- 霞門
- 西櫓
- 櫓門の礎石(土浦市立博物館前に屋外展示)
土浦城の学びに役立つ本と資料
土浦城パンフレットは2種必ずGETを
土浦城西櫓のすぐ西側に隣接する「土浦市立博物館」にて、土浦家の刀の展示や歴史解説があるほか、次のパンフレットが手に入る。『土浦城』のパンフレット(無料)と、『色川三中史跡めぐりガイドマップ』(B3版・50円)。後者は、現代の地図に土浦城の縄張図の重ね合わせ図が大きく掲載されているのがずばり良い。
土浦城の撮影スポット
メインとなる櫓門は西向き。午後の訪問が良いぞ。
土浦城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、土浦城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。土浦城の周辺史跡を訪ねて
土浦城の観光情報・アクセス
所在地
住所:茨城県土浦市中央1丁目13 [MAP] 県別一覧[茨城県]
電話:029-824-2810(亀城公園受付または観光協会)
アクセス
鉄道利用
JR常磐線、土浦駅下車、北へ徒歩15分。
マイカー利用
常磐自動車道、土浦北ICから東へ4.5km(約9分)。土浦市立博物館の駐車場を利用する。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。
土浦城:城ファンたちの記憶
実際に土浦城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全5件)。




櫓門の礎石(6個)が、土浦城のすぐ西にある土浦市立博物館の前に屋外展示されています。昭和62年の解体修理の時に発掘されたもので創建当時のものと推定されているのだとか。
( shirofan)
本丸表門と裏門が現存し東櫓と西櫓が在来工法により復元されるなど、非常に建造物に恵まれた城です。東櫓脇に存在した鐘楼の鐘も城下のお寺に現存しています。また西櫓の復元は保存していた旧材を用いておこなわれたので半分現存といえるものです。平成17年には表門と東櫓の間の土塀が文献、発掘調査などを元に復元されました。この恵まれた環境を生かして本丸御殿も復元してもらえればと思います。
( 氏綱)
2000年11月から2001年1月まで本丸土塁の発掘調査をしていました。絵図にある塀跡などが発見されています。1月21日に開催された現地説明会資料については同市の「上高津貝塚ふるさと歴史の広場・考古資料館」に問い合わせください。
( 地元関係者)
完成した復元櫓を見てきました。残存する縄張りから見て(平城)、土塁の高さと言い、大手と搦手の位置の奇妙さといい、防御施設としては、極めて貧弱で、縦横に流れている運河で仕切ったのみの城と言うより、館の様な居住空間で、シンボル的なものでした。復元はしっかりしたもので、案内してくれたオジサンも自慢してました。帯曲輪の一部がプールになってたり、掘の一部も埋め立てたりされていて、残念。
( Joe Shohsetsu)
本丸北側の土塁は、当時のものではないそうだ。なんでも本丸内にあった役所を移動するのに、北東側の土塁を崩し堀を埋め立て移動したとのこと。その稜線も現在の直線的なものではなく、絵図では、少し屈折しているそうだ。また、東櫓と西櫓。両櫓の礎石の間隔には差があり、建てた時期が異なるのではないかという説があるそうで、東櫓の方が古く結城秀康のものかもしれないとのこと。
( shirofan)