福井城は、徳川家康の次男・結城秀康が築いた越前68万石の居城。四重五重の水堀をめぐらせた大規模な平城で、現在も本丸の内堀や笏谷石の石垣、天守台が残る。このページでは福井城の歴史や見どころ、笏谷石の採石場、撮影スポット、周辺観光、アクセスを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
福井城の歴史・見どころ
福井城の歴史
福井城の前身は、柴田勝家が築いた北ノ庄城にさかのぼる。天正11年(1583)に北ノ庄城が焼失したのち、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長5年(1600)、次男の結城秀康に越前国68万石を与えた。
秀康は翌慶長6年(1601)から北ノ庄城を拡張・修築し、新たな城と城下町の建設に着手する。工事は全国の大名を動員した天下普請で行われ、6年をかけて慶長11年(1606)頃に完成した。徳川家康自身が縄張に関わったとも伝えられている。
築城された北ノ庄城は、本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸を配し、その外側を侍屋敷や町屋が取り巻く大規模な城郭であった。本丸北西隅には高さ約30m、4層5階の天守がそびえ、城下には126町、5131軒、人口2万5331人を数えたとする記録も残る。秀康は城下全体を囲む総郭化も進めたが、慶長12年(1607)に34歳で没したため、加賀口付近などを除いて未完に終わった。
秀康の跡を継いだ忠直は、寛永元年(1624)に豊後へ移され、弟の忠昌が越後高田城から入封した。この忠昌の時代に「北庄」は「福居」と改められ、その後「福井」と表記されるようになった。以後、越前松平家の居城として受け継がれ、幕末には16代藩主・松平慶永(春嶽)が藩政改革を進め、幕政にも大きな影響を与えた。
城は万治2年(1659)と寛文9年(1669)の大火に見舞われ、とりわけ寛文9年(1669)4月の大火では、天守をはじめ多くの櫓や城門が焼失した。幕府から5万両を借り受けて復旧が進められ、櫓や城門は再建されたものの、天守が再び建てられることはなかった。その後は本丸南西の坤櫓と南東の巽櫓などが天守に代わる城の象徴となったが、明治初期に取り壊された。外郭の水堀も次第に埋められ、現在は本丸を囲む内堀や石垣、天守台などが、越前68万石の大城郭であった往時の姿を伝えている。
福井城の特徴と構造
福井城は、九頭竜川水系によって形成された福井平野の南東部、足羽川流域に築かれた大規模な平城だ。足羽川を天然の外堀とし、吉野川(荒川)の旧流路を東側の百間堀として利用した。本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸を配し、さらに外郭を巡らせた環郭式の縄張で、四重五重の水堀によって城域を防御していた。最大の百間堀は幅約100mに及び、現在残る内堀も幅約30mを測る。
本丸の石垣には、足羽山周辺で産出する笏谷石が多く使われ、天守台や大手門、櫓台などの重要部分には精緻な切込接が用いられている。沖積平野の軟弱な地盤に築くため、松丸太を打ち、その上に丸太を井桁状に組む筏地業を施すなど、石垣の基礎にも工夫が凝らされた。石材には400種余りの刻印が残り、天下普請による築城の様子を伝える。現在は本丸の内堀と石垣、天守台、「福の井」が残るほか、復元された山里口御門や御廊下橋によって、本丸西側の城郭構造を現地でたどることができる。
本丸
福井城の本丸は城郭の中心に置かれ、周囲を内堀と高石垣で囲んでいる。内堀は幅約30m、高石垣は高さ約7mを測る。
石垣には、福井市の足羽山周辺で産出する笏谷石が多く用いられた。天守台や大手門、櫓台などの重要部分には、石材を精密に加工して隙間なく積む切込接が用いられ、その他には打込接による布積が見られる。また、天下普請によって築かれた福井城らしく、石垣には工事の担当や石材の識別などに関わるとみられる400種余りの刻印が残されている。



本丸の内側には、石垣上へ上るための石段「雁木」が塁壁に沿って連続してめぐらされている。こうした雁木は徳川大坂城など、徳川氏が築いた城郭の中枢部にも見られる構造で、慶長6年(1601)から結城秀康によって築かれた福井城の特徴の一つとなっている。
天守台
本丸北西隅には天守台が残る。築城当時、その上には高さ約30m、4重5階の天守が建ち、天守台を含めた高さは約37mに達したとされる。天守は寛文9年(1669)の大火で焼失し、その後は再建されなかった。現在も天守の柱を支えた礎石が残り、往時の規模を伝えている。



天守台に隣接する小天守台には、昭和23年(1948)の福井地震による被害も残されている。石垣の一部が大きく崩れ、歪んだ状態となっているが、修復して元の形に戻すのではなく、地震の爪痕を伝える震災遺構として保存されている。
福の井
天守台には「福の井」と呼ばれる井戸がある。築城当時から存在したとされ、安永4年(1775)の絵図にも「福井」と記された井戸が描かれている。井戸の深さは約5m、水深は約2mとなっている。

昭和23年(1948)の福井地震では崩壊を免れたものの、井戸の形が大きく歪み、震災後に井戸枠が造り替えられた。平成29年(2017)の整備では、井戸の石組や井戸枠を震災前の状態に戻すとともに、上屋や釣瓶も復元され、城内の井戸らしい景観がよみがえった。なお、「福の井」を福井の地名の由来とする説もあるが、確証はなく、忠昌による「福居」への改称を経て「福井」となったとする説が有力とされる。
山里口御門
山里口御門は、本丸西側を守る門で、「天守台下門」とも呼ばれた。天守台近くの高石垣に挟まれた場所にあり、櫓門と棟門、枡形石垣、その上に建つ土塀によって構成される枡形門となっている。城内へ進入した敵を枡形の内部に誘い込み、周囲から攻撃できる防御性の高い構造を備えていた。


寛文9年(1669)の大火で焼失したのち再建されたが、明治期に失われた。現在の門は古写真や古絵図、発掘調査の成果などをもとに平成30年(2018)に復元されたもの。櫓門2階では山里口御門の歴史や復元過程を紹介する展示を見ることができる。屋根には笏谷石の石瓦が用いられ、福井城ならではの特徴も再現されている。
御廊下橋
御廊下橋は、本丸西側の内堀に架かる屋根付きの橋となっている。5代藩主・松平昌親の時代に藩主の居住施設である御座所が西三ノ丸へ移されると、藩主は御座所からこの橋を渡り、山里口御門を通って本丸へ登城した。

現在の御廊下橋は、明治初期に撮影された古写真などをもとに、福井城築城400年記念事業の一環として平成20年(2008)に復元された。内堀、高石垣、山里口御門とともに、本丸西側における藩主の登城経路を現在もたどることができる。
舎人門
舎人門(とねりもん)は、福井城北側の外堀に面して設けられていた城門で、城内に四十数か所あった門の一つ。福井市立郷土歴史博物館の建設に先立つ発掘調査によって、堀跡や石垣、土居、門の礎石などが確認された。

発掘成果や絵図をもとに、平成16年(2004)に木造瓦葺の高麗門として復原された。高さ約6m、幅約10mで、両脇に屋根を備える。屋根には江戸時代から越前で生産された「越前赤瓦」が復原され、発掘された笏谷石の礎石も現地で見ることができる。
坤櫓
坤櫓は本丸南西角に建てられていた櫓で、南東角の巽櫓とともに福井城を代表する櫓であった。寛文9年(1669)の大火で焼失したのち再建され、高さ約16m、3重5階建の大規模な櫓となった。城下の物見に用いられたほか、書物や証文の保管場所でもあり、天守が再建されなかった福井城では、巽櫓とともに代用天守としての役割を担ったと考えられている。
明治初期に取り壊されたが、福井県では令和5年度(2023)から約39億6千万円をかけ復元事業を進めている。古写真や絵図などをもとに木造で復元し、高さ約16m、外観3重5階の姿を再現する計画で、本丸西側には長さ約106mの土塀も復元される。令和11年度(2029)の完成を目指している。
町中に残る遺構
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百間堀の当時の位置を示すライン
JR福井駅から福井城までの道路上に、百間堀の当時の位置を示すラインが笏谷石で2本示されている(写真はそのうち1本)。百間堀の幅が実感できる。
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二の丸石垣の刻印石
福井市役所前には二の丸石垣の刻印石と多数の石材が屋外展示されている。
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百間堀の石垣
福井城内内堀公園の向かいに、百間堀の石垣が屋外展示されている。
福井城を支えた笏谷石
福井城の石垣にふんだんに使われている笏谷石。その石が切り出された採石場の一つが、福井城の南西、足羽山の一部にあたる加茂山周辺に残っている。現在、料亭「丹巌洞」となっている一帯もかつての採石場で、許可を得て庭園と坑道を見学した。
丹巌洞は弘化3年(1846)、福井藩医・山本瑞庵が別荘として建てた草庵に始まる。舟遊びを兼ねて藩主・松平春嶽をはじめ、横井小楠、橋本左内、中根雪江らも訪れ、幕末には密議の場ともなった。現在は料亭として使われ、敷地内には笏谷石の敷石や石橋が随所に見られる。




庭園に広がる池も笏谷石を採石した跡で、その奥には坑道の入口が残る。坑道内へ入ると、岩盤には石を切り出したノミ跡のほか、「尺六」と呼ばれる寸法で石材を切り出した痕跡や、その大きさを示すラインを確認できる。ここで切り出された笏谷石は三国湊へ運ばれ、北前船によって各地へ送り出された。
丹巌洞はその後、山本家から笏谷の石材商・宮崎又作へと引き継がれ、料亭となった。現在の料亭のご主人によれば、庭園が整えられる以前は苔もなく、採石場そのものといった風景が広がっていたという。また、料亭の建物下にも深さ約30mに及ぶ坑道が残されているとのこと。
笏谷石は福井城だけでなく、一乗谷朝倉氏遺跡や北ノ庄城、丸岡城でも用いられており、越前の城や城下にその痕跡を見ることができる。
笏谷石は平成11年(1999)に採掘が全面休止され、現在は新たな採掘が行われていない。福井城の石垣や石瓦を形づくった笏谷石。その採石場を実際に訪ね、岩盤に刻まれたノミ跡や切り出しの痕跡を見ると、福井城を支えた石材がどのように切り出されていたのかを知ることができる。


福井城の整備状況
福井城址では、残された本丸石垣や内堀を生かしながら、往時の城郭景観を取り戻す整備が進められている。平成20年(2008)には藩主が御座所から本丸へ登城する際に利用した屋根付きの「御廊下橋」、平成29年(2017)には天守台の井戸「福の井」、平成30年(2018)には櫓門・棟門・枡形石垣などからなる「山里口御門」が復元・整備された。
さらに令和5年度(2023)から、本丸南西角にあった坤櫓と本丸西側土塀の復元プロジェクトが進められている。坤櫓は木造で高さ約16m、外観3重5階の姿を再現し、西側土塀は長さ約106mを計画する。令和7年度(2025)は埋蔵文化財調査や石垣補強工事などが進められており、令和11年度(2029)の完成を目指している。
参考文献:
- 『日本城郭大系11』(新人物往来社)
- 『福井城下歴史手帳』(福井県未来創造部交通まちづくり課)
福井城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット
『福井城下歴史手帳』
福井県未来創造部交通まちづくり課が発行する、福井城と城下を歩くための公式ガイドブック。福井城址をはじめ、養浩館庭園、福井神社、北庄城址など周辺14か所の歴史や見どころを紹介し、ガイドや学芸員が考案したモデルコースも掲載されている。
江戸時代後期の福井城下と現在を比較できる地図も収録され、城下町を歩きながら往時の位置関係を知るのにも便利。各スポットにはメモやスタンプなどに使えるフリースペースが設けられ、A5サイズで現地へ携行しやすいのも特徴となっている。福井県のWebサイトからPDF版をダウンロードできるため、福井城を訪れる前に目を通しておきたい一冊。
福井城の撮影スポット・絶景ポイント
福井城は、撮影する場所によって光の向きが大きく変わるため、午前と午後を使い分けたい。本丸石垣を撮るなら早朝がおすすめ。東側から狙うと朝の光が石垣に入り、内堀と高石垣を組み合わせた福井城らしい風景を撮影しやすい。
一方、復元された山里口御門は西向きで、天守台も入口が南向きとなるため、午後にも訪れたい。午前中に本丸東側の石垣を撮影し、午後から山里口御門や天守台へ回ると効率がよい。
本丸から少し離れた舎人門は北向きのため、正面には直射光が入りにくい。曇天など光がやわらかな時間帯も撮影しやすいだろう。養浩館庭園は西向きのため、建物を庭園側から撮影するなら午後の光を意識したい。福井城址だけでなく周辺まで巡るなら、太陽の向きを考えながら撮影順を組み立てるのがおすすめ。
桜の季節にもぜひ足を運びたい。城内は桜が咲き誇り、石垣や内堀を包むように春の色彩が広がる。なかでも瓦御門跡や天守台付近の桜が美しく、筆者もおすすめしたい桜の城の一つ。石垣や天守台と桜を組み合わせれば、春ならではの福井城を写すことができる。
福井城の写真(城写真ARCHIVE)
城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、福井城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。
福井城周辺の観光スポット・史跡めぐり
養浩館庭園
養浩館庭園は、福井城の北東に位置する越前松平家の別邸跡。3代藩主・忠昌の時代に城下を流れる芝原上水を引き込んで池を造り、「御泉水屋敷」としたのが始まりと考えられている。現在につながる姿へ整えられたのは、7代藩主・吉品の時代とされる。

昭和20年(1945)の福井空襲によって建物は焼失したものの、庭園は良好な状態で残り、昭和57年(1982)に国の名勝に指定された。その後、発掘調査や史料をもとに庭園の修復と数寄屋造りの建物の復原が進められ、平成5年(1993)に完成。大きな池を中心に建物と庭園が一体となった景観から、福井藩主の別邸文化を伝えている。
瑞源寺
足羽山の北西麓にある瑞源寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、5代藩主・松平昌親の菩提寺。ここには福井城本丸御殿から移築された建物が残り、失われた福井城の建築を知るうえで貴重な遺構となっている。
本堂は14代藩主・松平斉承が天保元年(1830)に造営した本丸御殿の「御小座敷」を、万延元年(1860)に移築したもの。書院も本丸御殿の「大奥御座の間」を移築した建物で、造作材や建具などに御殿時代の部材が残る。福井城の建物がほとんど失われたなか、本堂と書院は、現存する唯一の福井城の建築遺構だ。
福井神社
福井神社は、幕末の福井藩主・松平慶永(春嶽)を祀る神社で、昭和18年(1943)に創建された。当初の社殿は総檜造りであったが、昭和20年(1945)の福井空襲で焼失。昭和32年(1957)から昭和41年(1966)にかけて拝殿、本殿、大鳥居などが再建された。
現在の社殿は、神明造りの伝統的な意匠を鉄筋コンクリートによって表現したモダニズム建築。境内には松平春嶽像が建ち、摂社の恒道神社には、春嶽を支えた中根雪江、橋本左内、鈴木主税が祀られている。福井城址に隣接し、幕末福井藩の歴史をたどるうえであわせて訪れたい場所となっている。
永平寺
大本山永平寺は、寛元2年(1244)に道元禅師によって開かれた曹洞宗の大本山。戦国時代には越前の争乱にも巻き込まれ、天正2年(1574)の越前一向一揆では、中立の立場を保っていたものの一揆勢によって焼き討ちされ、一時北ノ庄へ寺基を移した。現在も七堂伽藍を中心に多くの堂宇が並び、曹洞宗の修行道場としてその歴史を伝えている。
山あいの境内には、七堂伽藍を中心に大小70余りの建物が並び、現在も多くの修行僧が禅の修行に励んでいる。長い回廊で結ばれた伽藍を巡れば、山門や仏殿、法堂など、それぞれに異なる建築と空間を見ることができる。福井城や一乗谷朝倉氏遺跡とは異なる、中世から続く越前の歴史と文化に触れられる場所として、福井の旅に組み込みたい。
北ノ庄城・柴田神社
北ノ庄城は、織田信長から越前を与えられた柴田勝家が天正3年(1575)から築いた城で、後の福井城へと続く福井城下の歴史を語るうえで欠かせない城だ。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた勝家は北ノ庄城へ退き、妻のお市の方とともに自害し、城も焼失した。
現在、城跡の一角には勝家とお市の方を祀る柴田神社が鎮座する。平成5年(1993)から行われた発掘調査では、石垣や堀跡、日向門、土居などの遺構が確認され、境内一帯は「北庄城址」として整備されている。
興味深いのは、北ノ庄城と、その後に築かれた福井城の遺構が重なって残っていること。下層には北ノ庄城の遺構、上層には福井城の舟山門礎石や虎口跡を見ることができる。現地での簡単な見分け方としては、石垣が福井城、地表に並ぶ石列が北ノ庄城の遺構となる。二つの城の痕跡を同じ場所で見比べられるのも、この城跡の見どころ。
境内には勝家像、お市の方像、茶々・初・江の三姉妹像が建つほか、北の庄城址資料館では発掘された遺物などを見ることができる。
福井城周辺グルメ・名物料理
福井を訪れたなら味わってみたいのが、日本三大珍味の一つに数えられる越前雲丹。なかでも「天たつ」は、江戸時代に越前福井藩松平家の御用商として越前雲丹を取りまとめてきた歴史を持つ老舗で、現在まで11代にわたってその味を受け継いでいる。100個以上のバフンウニからできる汐雲丹はわずか100gほど。濃厚な旨みが凝縮された、越前を代表する珍味。
城好きとして目を引かれたのが、商品を入れる紙袋。百間堀をはじめ、往時の福井城の縄張を描いた「福井城御図」があしらわれている。現在の福井城址では失われた堀や曲輪も多いだけに、紙袋いっぱいに広がる城郭の姿を眺めていると、かつての福井城の大きさが見えてくるようで興味深い。「天たつ」本店は福井市順化2丁目にあり、JR福井駅にも店舗がある。
もう一つ、福井の味として知られるのが「へしこ」。鯖などの魚を塩漬けにしたのち、糠に漬け込んで熟成させる保存食で、福井県の若狭地方を中心に受け継がれてきた。薄く切ったへしこをそのまま味わうほか、炙ったり、お茶漬けやへしこ粥にしたりと楽しみ方もさまざま。城めぐりのあとに、土地に根づいた発酵の味を楽しんでみたい。
福井城周辺ホテル・宿泊情報
福井城を起点に城めぐりを楽しむなら、福井駅周辺を宿泊拠点にするのがおすすめ。駅周辺にはビジネスホテルを中心に宿泊施設が多く、福井城へも徒歩で向かうことができる。
福井市周辺には一乗谷朝倉氏遺跡があり、さらに足を延ばせば丸岡城など、福井を代表する城にも事欠かない。福井駅をベースキャンプにして連泊すれば、福井城とあわせて近郊の城をめぐる旅程も組みやすい。
福井城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:福井県福井市大手3丁目 [地図を見る]
県別一覧:[福井県の城]
電話:0776-20-0252(福井県財産活用課)
見学時間・料金
福井城址:見学自由・無料
山里口御門:7:00〜18:00・無料
アクセス
鉄道利用
- 各線「福井駅」から徒歩約5分。
- 福井鉄道「福井城址大名町駅」から徒歩約5分。
マイカー利用
北陸自動車道「福井IC」から約15分。福井城址に専用駐車場はなく、周辺に有料駐車場あり。
地図
掲載写真・記事は、現地調査・撮影・記録をもとに作成しています。
福井城:城ファンの知見と記録
福井城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全12件)。
福井城でのひとときを、そっと記録に残す










福井駅から歩いてすぐ。駅から城址へ向かう途中には、かつての百間堀の位置を示す笏谷石のラインが道路上にあり、現在の市街地の中でも往時の城域の広さを感じられる。本丸跡に県庁が建つ城だが、実際に巡ると石垣と水堀が思いのほか見応えがあり、まずは堀沿いを一周してみたい。とくに印象に残ったのが、復元された御廊下橋と山里口御門。屋根付きの橋を渡り、枡形門を抜けて本丸へ入る流れは、かつての登城経路をたどるようで面白かった。天守台にある福の井では、名水で淹れたお茶が振る舞われていたので一服。城めぐりの途中で土地の水を味わえるのも、旅ならではの楽しみである。現在は本丸南西角にあった坤櫓の復元も進められている。完成すれば水堀と石垣の上に三重の櫓が加わり、福井城の景観も大きく変わる。完成した頃に、もう一度訪ねてみたい城である。
記録:安国寺AK 2026
2017年春の山里口御門復元を目指し、御廊下橋付近の石垣の積み直しが行われていたが、これが2016年5月完了した。櫓門を築く土台になる石垣のゆがみを直すのが目的。ちなみに福井城の石は、地元の足羽山で採掘されていた「笏谷石(しゃくだにいし)」を使っているが、破損した箇所には兵庫県の竜山石をはめ込んだらしい。
記録:城好きの匿名希望 2016
2015年10月現在、山里口御門を復元中。完成は平成28年の予定。御門が完成すれば、御廊下橋〜御門が一体となり、往時の姿の再現となる。
※現在は石垣の分解調査中。堀の一部も水抜きされている。
記録:元福井県民 2015
すぐ近くの柴田神社(北ノ庄城跡)にも訪れてみよう。福井城の舟山門礎石やその虎口跡、百間堀の発掘された石垣などを見ることができる。
記録:shirofan 2004
福井城は石垣の内側を、東側では土塁を用い、西側では石段としているが、この石段と壁の接点になる部分にある縦に通すかたちの石の土台(塀と石垣の接合部)が残る。当時の御所院のしきり塀を固定するためのものだろう。
記録:shirofan 2004
「笏谷石」は、凝灰岩のことで加工がしやすい石。このあたりでは、福井市にある足羽山(あすわやま)笏谷の石切場が有名なため「笏谷石」と呼ばれている。狭間石、棟石、屋根瓦、石垣、階段、井戸枠、敷石、鉢、石仏など多様に用いられており、福井城では石垣をはじめ、天守・櫓等の建物で多く使用されていたらしい。天守台石垣は笏谷石を方形の切石とし切り込みハギによる布積みで使用している。
記録:shirofan 2004
福井県庁建設の際に、一部の発掘調査が行われたらしいが、天守台下で検出された井戸は、天守脇に現在も残る井戸「福の井」に向かって切石で組んだ人ひとりが通れる穴が空けられていたらしい。その井戸跡は確認することができなかった。
記録:shirofan 2004
天守台のそばに福井の名の発祥「福の井」がある。井戸の北側は、福井地震で崩れた石垣が崩れたままの状態で保存されている。
記録:shirofan 2004
柴田勝家が築いた北の庄城を取り囲む形で拡充した福井城。68万石の規模。家康の縄張りで改築したらしく、名前も北ノ庄は「北」が敗北に通じることから松平忠昌が「福井」と改称したらしい。幕末の松平春嶽でも有名。
記録:半兵衛 2004
銅像チェック!福井城の南側にある堀端のちょっとしたスペースは内堀公園と呼ばれ、福井藩の財政改革で活躍した福由利公正、横井小楠の彫像がある。また城内には、結城秀康の石像があるがこれはやや漫画チックな印象を受ける。その他、福井神社には松平春嶽の像、福井城の前にある中央公園には由利公正の像がある。
記録:半兵衛 2004
結城秀康は、慶長6年(1601)より城の改修を始め、北陸の諸大名にも築城御手伝が命じられた。天下普請の城で石垣には刻印が見られる。なお、福井市役所前の生け垣背後の石墨は二の丸から出土した刻印された石垣を集め使用している。
記録:半兵衛 2004
残っているのは本丸だけで、中には県庁がある。城内に現存建造物はないが、旧本丸御殿の小座敷・御座之間が、市内瑞源寺に移築され、本堂・書院に使用されているので、ぜひ行くべし。
記録:中川桂 2003