高田城は、徳川家康の六男・松平忠輝が慶長19年(1614)に天下普請で築いた平城。石垣をほとんど用いず、土塁と広大な水堀をめぐらせた構造が特徴となっている。現在は本丸土塁や内堀が残り、三重櫓や極楽橋が建つ。このページでは高田城の歴史や見どころ、アクセス、駐車場情報を豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
高田城の歴史・見どころ
高田城の歴史
高田城は、徳川家康の六男・松平忠輝の居城として、慶長19年(1614)に築かれた。慶長15年(1610)、福島城を築いた堀氏が改易されると、忠輝が信濃国川中島(海津城)から越後へ入封した。徳川氏と豊臣氏の緊張が高まるなか、越後は加賀の前田氏を牽制し、江戸の背後を固めるうえでも重要な位置にあった。忠輝は福島城から高田へ本拠を移し、新たな城と城下町の建設に着手した。
築城地となったのは、高田平野の中央よりやや西に位置する菩提ヶ原と呼ばれた土地だった。関川の自然堤防上にあたり、周囲を蛇行する河川を外堀として利用できる地形を備えていた。築城は幕府の命による天下普請として行われ、上杉景勝や前田利常ら13大名が動員され、忠輝の舅にあたる仙台藩主・伊達政宗が普請総裁を務めた。慶長19年(1614)3月15日に着工し、7月上旬には一応の完成をみたとされる。外堀を含め60haを超える大城郭が約4か月で築かれた背景には、大坂の陣を目前に控えた幕府の軍事的事情があった。
しかし、忠輝の治世は長く続かなかった。元和2年(1616)、忠輝が改易されると、酒井家次、松平忠昌が城主となり、寛永元年(1624)には松平光長が入城した。光長は57年にわたって高田を治め、この時代に城郭と城下町の整備が進んだ。寛文5年(1665)の高田地震では城と城下町が大きな被害を受け、幕府から5万両を借りて復興が進められた。築城当初は二重だった本丸南西隅の櫓も、この復興に際して三重櫓へと改められた。
松平光長は越後騒動と呼ばれる御家騒動によって延宝9年(1681)に改易された。その後は在番時代を経て、稲葉正通、戸田忠真、松平定重ら譜代大名が相次いで入城し、寛保元年(1741)からは榊原家が幕末まで高田を治めた。この間にも宝暦元年(1751)の地震や弘化4年(1847)の善光寺地震などに見舞われ、城と城下町はたびたび被害を受けた。享和2年(1802)には火災によって門と櫓を除く城内の建物を焼失したが、その後再建されている。
明治3年(1870)、高田城は再び火災に遭い、主要な建物を焼失した。このときは再建されず、残った建物や石材も明治時代に払い下げられた。さらに明治41年(1908)には陸軍第13師団の施設が設けられ、二の丸・三の丸の土塁が撤去されるなど、城域は大きく姿を変えた。一方、本丸を囲む大規模な土塁や内堀は現在まで残り、慶長19年(1614)に築かれた高田城の姿を伝える貴重な遺構となっている。
高田城の特徴と構造
高田城は、高田平野の中央よりやや西、関川の自然堤防上に築かれた平城で、外堀を含む城域は60haを超える。北と南から北国街道(奥州道・信濃道)、西から北陸道(加賀街道)が城下へ入り、交通の要衝を押さえる立地となっていた。石垣をほとんど用いず、土塁と広大な水堀によって城郭を構成し、天守を設けなかったことが大きな特徴となっている。
本丸は東西約215m、南北約238mで、周囲には高さ約10mに達する土塁が築かれた。虎口は南・東・北の3か所にあり、大手となる南口は極楽橋を渡り、極楽門から枡形を経て本城御門へ至る構成だった。東口の東木戸門にも枡形が設けられ、北口の北不開門は入口を鉤形としていた。本丸南西隅の土塁上には城の象徴となる櫓が置かれ、寛文5年(1665)の高田地震後に三重櫓へと改められた。
本丸を囲む内堀は薬研堀で、幅は広いところで約58mに及ぶ。その外側に二の丸、三の丸を配し、さらに関川や矢代川などの旧流路を利用した外堀が城域を囲んでいた。近代に二の丸・三の丸の土塁は失われたものの、本丸の土塁と内堀は現在もよく残り、石垣に頼らず築かれた高田城の縄張と規模を伝えている。
高田城の整備状況
高田城跡は現在、高田城址公園として整備され、本丸を囲む土塁や内堀が残されている。高田城跡は昭和29年(1954)に新潟県指定史跡となり、近代に二の丸・三の丸の土塁が撤去された一方、本丸土塁は築城当時の城郭構造を伝える主要な遺構となっている。
本丸南西隅には、上越市発足20周年記念事業として平成5年(1993)に高田城三重櫓が建設された。県指定史跡であることから、絵図や古文書の検討、発掘調査などを行い、規模は稲葉正通時代の「高田城図間尺」、外観は松平光長時代の「本丸御殿絵図」を参考としている。1・2階は高田城に関する展示室、3階は展望室として公開されている。
また、本丸大手口には平成14年(2002)に極楽橋が再建された。城跡一帯では三重櫓や極楽橋とともに本丸土塁、内堀などを巡ることができ、平成29年(2017)には公益財団法人日本城郭協会の「続日本100名城」に選定されている。
参考文献:
- 『日本城郭大系7』(新人物往来社)
- Webサイト「高田城の歴史」(上越市立歴史博物館)
高田城の撮影スポット・絶景ポイント
高田城の写真(城写真ARCHIVE)
城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、高田城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。
高田城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:新潟県上越市本城町6-1 [地図を見る]
県別一覧:[新潟県の城]
電話:025-526-5111(上越市)
アクセス
鉄道・路線バス利用
北陸新幹線「上越妙高駅」から、えちごトキめき鉄道 妙高はねうまラインに乗り換え「高田駅」下車、徒歩約20分。「高田駅前案内所」から路線バスで約5分、「高田城址公園」下車、徒歩約5分。
マイカー利用
北陸自動車道「上越IC」から国道18号を経由し、鴨島立体交差点を右折して約15分。上信越自動車道「上越高田IC」から約10分。
公園内には第1~第8駐車場があり、合計約850台駐車可能。なお、「高田城址公園観桜会」などのイベント期間中は、周辺道路の交通規制や公園内駐車場の利用制限、臨時駐車場の開設、シャトルバスの運行などが行われるため、事前に最新の交通情報をご確認ください。
地図
掲載写真・記事は、現地調査・撮影・記録をもとに作成しています。
高田城:城ファンの知見と記録
高田城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全7件)。
高田城でのひとときを、そっと記録に残す







休館は月曜日。その他、年末年始や冬期臨時休館もあるので要チェック。
記録:反米 2002
二の丸、三の丸の大部分は公園・公共施設用地になっていて、北東部分は市街地化されており、半分強残された堀のみが遺構です。
記録:Takashi 2001
本丸については土塁が案外形状をとどめています。内部は中学校用地になっていますが、一角で礎石の展示、三層櫓が公開されています。
記録:Takashi 2001
徳川系の城で、城域は結構大きく、石塁が一切ない総土塁の城です。
記録:Takashi 2001
建物は復元された三層櫓(天守はもともとなく、代用櫓です)のみです。
記録:Takashi 2001
春は観桜会で、お堀沿いに出店が並び、期間中は、大名行列などの催しなどがあってとても賑やかです。特にライトアップされたお城と夜桜の組み合わせはとてもきれいです。その他にも、冬の雪や秋の紅葉、夏に咲く蓮と、各季節による見所もあり、黒鳥の子育て中に行けば、かわいい雛に会えるかも。
記録:tomo 1999
隣に大きなスポーツ公園があるので、駐車場は心配なし!お城は小さいが、怪しいMUSICで入場者を迎えてくれるところがGOOD!少し前まで、場内展示室に、家康が幼少の頃に書いたとされる、紙に書いた落書きなるものがあって笑えたが、あれは本物なのだろうか……。
記録:kendori 1999