写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン
小山城の歴史と見どころ
小山城(こやまじょう)は、牧之原台地の掌状に分岐する枝尾根の最東端、大井川の三角洲に張り出した舌状台地先端を利用して築かれた平山城だ。城地は台地の末端に位置し、大井川流域を押さえる要衝にあった。
当城の前身は、室町時代から戦国時代にかけて今川氏によって築かれた城砦と考えられている。その規模は明らかではないが、『今川分限帳』には城主として井伊肥後守一万五千石の名が見え、一定の軍事的拠点であったことがうかがえる。
今川氏没落後、大井川を境として西を徳川氏、東を武田氏が領有する情勢となった。武田軍は大井川を越えて小山城に入り、これに対し徳川家康は松平(大給)左近真乗に小山周辺の知行地を与えた。両勢力の攻防の結果、元亀元年(1570)には小山城は松平氏の領有となったが、翌元亀2年(1571)、武田方二万五千の兵が攻め寄せ、城は再び武田氏の手に奪還された。
この奪還以後、小山城は本格的な築城が行われた。武田信玄は馬場美濃守信房(信春)を奉行として修築にあたらせ、堀を掘り、土塁を築いて城の形態を整えた。守将には大熊備前守長秀が置かれた。その後、武田氏は遠江において徳川氏と対峙を続けたが、天正10年(1582)2月、織田信長の甲州討伐軍進発の報を受け、小山城の城兵は退去した。同年2月16日、徳川軍が入城し、小山城は占領された。永禄12年から天正10年までの間、小山城は今川・武田・徳川三氏が領有を争った堅固な城であった。
小山城の特徴と構造
小山城は舌状台地の先端部を利用した平山城で、城域はおおよそ200m×150m、標高約30m、比高約20mを測る。
一の曲輪は東西約95m、南北25〜65mの規模を持ち、北・東・南側は台地崩落により旧状を失っている。西側には高さ約4mの土塁が半分ほど残る。一の曲輪西端中央付近に木戸口があったと考えられ、『甲陽軍艦』所収の古図には、その外側に馬出し曲輪と三日月堀が描かれている。

主郭西側に設けられた三日月掘。曲輪の外側に付属した馬出と連動する防御施設で、曲線を描く堀の形状が現在も明瞭に残る。

展望台から望む三日月掘と主郭空堀。高所から堀の配置と地形の関係を一望でき、小山城の縄張りを立体的に把握できる見どころのひとつ。
二の曲輪は南北に長く、南北二段構成である。上段の南側曲輪は一段高く、古図によれば南端崖縁に空堀が付属していたが、現在は整地により失われている。

三の曲輪は幅11〜18m、長さ約130mの帯状で、前面には三重堀(写真)が構えられていた。内堀(幅7m)・中堀(幅9m)・外堀(幅10m)が扇状に配置され、地続きとなる台地側に対して特に厳重な防備が施されている。この三重堀構造は、舌状台地先端という立地条件から不可欠なものであり、小山城防御の最大の特徴といえる。

小山城展望台には、発掘調査と古地図をもとに本丸付近を復元した1/150の模型がある。
小山城の整備状況
小山城跡は現在、能満寺山公園として整備されている。史跡としての小山城跡には、戦国期の遺構である土塁や三日月堀と土橋、三重堀、井戸跡(伝・勘助井戸)が公園内に残り、往時の防備のありようを偲ばせる。また、模擬天守「展望台小山城」が設けられ、武田氏ゆかりの資料が展示されている。
参考文献:
- 『日本城郭大系9』(新人物往来社)
- 「展望台小山城」吉田町Webサイト
小山城の学びに役立つ本と資料
書籍『遠州小山城史考』はお奨め。著者は、吉田町史編さん主任も務めた桐田幸昭氏。縄張り図も掲載されている。駐車場にある売店でGETできる(有馬 05.01.02)。
小山城の撮影スポット
小山城の模擬天守「展望台小山城」は北側の城内から撮影すると、どうしても逆光となる。できればまだ光がまわる可能性がある午前中に訪れたい。また、近年、展望台小山城の南側の木々が伐採され、麓の駐車場から天守の眺めが良くなっている。
小山城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、小山城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。小山城の周辺史跡を訪ねて
大熊備前守屋敷跡
大熊備前守長秀が武田信玄の命で、小山城主となった際の居館跡。現在、茶畑が広がるが、東に谷があり、空堀の一部が残る。小山城の出城の役割もあったとされている(静岡県榛原郡吉田町神戸2646−2)。
近郊の城
小山城の周辺おすすめ名物料理
この地は「うなぎ」が有名。県内外から食べにくるのだとか。大井川の伏流水で育てた国産鰻でこれが、イベント開催時は、公園駐車場にて丸榛吉田うなぎ漁業協同組合の生産者直売で食べることができる。同組合さんの話によると営業は、基本は毎週日曜で、2月・4月は第1日曜のみとのこと。
小山城の観光情報・アクセス
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。
小山城:城ファンたちの記憶
実際に小山城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全8件)。







初めて小山城を訪れたのは、牧之原台地の縁を車で走り、能満寺山公園の駐車場に車を停めてからだった。台地の先端に向かって歩き出すと、城が「川を押さえる場所」に築かれていることが、自然と体感できる。
まず目に入るのは展望台小山城だ。模擬天守ではあるが、ここに上ることで城域全体の把握が一気に進む。天守から見下ろすと、三日月掘と主郭空掘の位置関係がよくわかり、地形を削り込んで防御線を築いた意図がはっきり見えてくる。
下に降りて三日月掘へ向かう。写真では何度も見ていたが、実際に堀縁に立つと、曲線を描く掘の深さと幅が予想以上で、馬出と連動した構えであったことが理解できる。ここは立ち止まって見ておきたい場所だ。
さらに東側へ回り込むと、三重堀が現れる。舌状台地で地続きになる方向に、三重に重ねた堀が連なり、小山城の防御の要がここにあったことが実感できる。縄張りの意図が自然と頭に入ってくる。小山城は、派手な遺構が残る城ではない。しかし、歩いて、見下ろして、堀を辿ることで、地形と構造が結びつく城だと感じた。写真を撮るにも、展望台からの俯瞰と堀沿いの低い目線、その両方が欠かせない城だった。
( 城あるき父さん)
天守閣のような建物が目立ちますが、あれは観光のために犬山城のまねっこで作った「展望台」です。実際にあんなものがたっていたわけではないので、当時の山城はこんなものかと勘違いしないでくださいね。
とはいえ、上から眺める景色は良いので、なぜこの場所に城を築いたのかを考えるのに良いかもしれませんね。
( Ban)
模擬天守閣前の空堀と三日月堀は、茶畑になって埋められていたものを、古図に基づいて復元したものだそうだ。
( 静岡観光おすすめ隊)
能満寺山公園として整備されている。三の丸跡に昭和62年に復興された「吉田町展望台小山城」の模擬天守は、愛知の犬山城がモデル。
( 静岡観光おすすめ隊)
台地の尾根の突端が大井川に突き出ていた、いわゆる舌状台地の端に築城されたお城。大井川は現在、さらに東を流れているがその昔は、小山城のすぐ東側を流れていたから、天然の要害となる。防御が手薄となる西側は三重の堀を設けていて、これが今も残る。
( shirofan)
三重の三日月堀という珍しい遺構がある。このお城の見るべきポイントなり。三重堀北西側の堀(大手門付近)には「勘助井戸」と呼ばれる井戸があるので、見ておきたい。
( 有馬)
いかにも舌状台地の先端と言うべき丘陵に小山城の模擬天守が見えてくる。駐車場付近の売店で「遠州小山城史考」と言う本を購入。お寺を越えて女坂・男坂と言う階段を登るとそこが二の丸跡。脇には立派な模擬天守がある。この二の曲輪には発掘で発見されたと言う丸馬出しと三日月堀があった(これは発掘しないで絵図に基づいて作ったと言う説もあるそうだ)本丸は狭い感じがする。両端の崖には公園としての危険防止策で変な土盛りがある。二曲輪と三曲輪の間には堀がある。ここまでの遺構はどうも公園化した時にいかにも奇麗に作ったような印象が残る。さて、三重三日月堀へ。これは凄い!見た感じでは三重三日月堀の間にある細い馬出し部分は一人がやっと通過出来る幅であるのでこの堀の意味はあくまで鉄砲対策もしくは山中城のような畝堀としての機能ではなかろうか。三重堀の左右には大手門を挟んで大胆な堀切に見張台らしき出曲輪、また東側は馬出しが残る。素晴らしい。次に模擬天守に入る。形そのものは悪くない。中には小山城の模型がありこれも必見。
( 潮風)
三日月堀は発掘により発見されています。これはもう代表的な丸馬出しです。模擬天守から見れば、右に本曲輪、左に3の曲輪で、この丸馬出しは2の曲輪にあります。そして3の曲輪の前には三重の三日月堀があることが小山城の知名度を上げています。三重の三日月堀に守られている巨大な丸馬出しへの変貌とでも言いましょうか。小山城が1571年 諏訪原城が1573年が有力で1569年の説もあるものの、双方位置的に近く三日月堀と丸馬出しの合体形ですね。
( shino2)