写真:関
逆井城の歴史と見どころ
逆井城(さかさいじょう)は、下野国の守護家・小山義政の五男・逆井常宗が享徳年間(1458-1460)ごろ、下総国猿島郡逆井の地を領して「逆井氏」を称し、城を築いたと伝えられている。
当初は小規模な居城であったが、時代が進むとともに要害性を増した。孫にあたる逆井常繁は古河公方に仕えていたが、天文5年(1536)3月3日、大道寺盛昌率いる軍勢の攻撃を受け、逆井城は落城した。
その後、北条氏は支配下に置いたこの地を「飯沼城」とも呼び、天正5年(1577)には玉縄城主・北条氏繁が大鋸引き職人を藤沢から呼び寄せて大改修を行い、北関東方面への軍事的前線基地として整備を加えた。
しかし、天正18年(1590)に小田原の役で北条氏が滅びると、逆井城もその役割を終えて廃城となった。こうして、逆井城は中世・戦国期を通じて、逆井氏→北条氏へと主従が変遷しつつ、北関東の境界線上で生き延びた城郭として歴史にその名を刻んでいる。
逆井城の特徴と構造
逆井城の立地は、西仁連川(用水)を北方に控え、北側と西側をかつての「飯沼」と称された広大な沼地帯が取り囲む台地の先端である。この地形により、自然の要害性が確保されていた。築城の際、城域は本丸を北崖側に配置し、南側に複数の曲輪が連なって守りを固める構成となっており、大軍を収容出来る規模を有していた。遺構としては、主郭を取り囲む大規模な空堀、二重土塁が残存しており、北条氏流の築城技術を色濃く示している。
現在は、発掘調査を元に二層櫓・井楼矢倉・関宿城から移築の薬医門などが復元され、戦国末期の城郭の趣を旅と写真の好みにあわせて楽しむことができる。
逆井城の学びに役立つ本と資料
茨城県猿島町城址調査委員会報告書etc(教育委員会)(関 1999.03.05)
逆井城の撮影スポット
城跡本郭、二の郭跡から旧飯沼(現田んぼ)を狙うと良しです。また、春は城跡に生える桜が満開になり大変きれいです。春にはお城祭りが行われます(関 1999.03.05)。
逆井城の周辺史跡を訪ねて
隣町の千葉県関宿町には関宿城跡(戦国時代の簗田氏城跡)、古河市の鴻巣屋形跡(古河公方)、小山市の祇園城・鷲城ets(小山氏)、結城市の結城城(結城氏)など戦国時代の北関東と後北条氏にかかわる歴史スポットは大変多いです(関 1999.03.05)。
逆井城観光のおすすめホテル
昔ながらの田園地帯(田舎)のため、特にありません。しかし、それがまた中世城郭跡を観察するには大変良いとも思います(関 1999.03.05)。
逆井城の観光情報・アクセス
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本の城郭をめぐる旅をライフワークとする。長年にわたる豊富な経験と、城郭写真家としての専門的な視点から、当サイトの記事を監修。その写真と知見は、数々の書籍やメディアでも高く評価されている。
逆井城:城ファンたちの記憶
実際に逆井城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全3件)。




逆井城のグッズは特に無し。お城(復原した中世櫓、屋形、橋、堀など)が名物でしょう。
( 関)
天正5年(1577)、玉縄城主北条氏繁が築城。戦国末期、後北条氏の下野・常陸侵攻の最前線基地であった。天正18年豊臣英吉の関東出兵により廃城となる。後北条氏以前は、この地の豪族 小山氏一族逆井氏の城(館)があったところである。旧飯沼に面した要害・フウコウメイビな城であった。
( 関)
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、中世城郭を再現した戦国時代(後北条氏)のお城跡です。着到層、物見やぐら、太鼓層、板塀、御殿、水堀、空堀、比高二重土塁etcなどが再現された城跡公園です。中世城郭を勉強する方には大変勉強になるお城跡です。
( 関)