写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン

世田谷城の歴史と見どころ

世田谷城(せたがやじょう)は、東京23区内に築かれた中世の城館の中では、現存する数少ない遺構があることで知られる。清和源氏系の吉良氏が貞治5年(1366)に世田谷郷を拠点とし、応永〜室町期に居館を整備、戦国期には城郭として機能した。天正18年(1590)の小田原征伐で廃城となった後、その姿を歴史から消したが、土塁や空堀といった地形的な構造は良好に残り、現在は城址公園として整備されている。

世田谷城の歴史

世田谷城は、初代城主・吉良治家が貞治5年(1366)に世田谷郷を賜ったことに始まると伝えられている。ただし、築城の正確な年代については記録が乏しく明らかでない。永和2年(1376)以前にはすでに吉良氏の所領となっていたことが「鶴岡八幡宮文書」から確認されており、この地における拠点の形成は14世紀後半には始まっていたと考えらている。

吉良氏は、清和源氏流・足利氏の一族だ。室町時代を通じて世田谷を支配し、応永年間(1394〜1426)には居館が整えられた。やがて防御性を高めた構造へと発展し、戦国時代には後北条氏と姻戚関係を結び、その庇護のもとで地域の政治・軍事の要地として重きをなすようになった。

しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏が滅亡すると、吉良氏もその余波を受けて上総国生実(現在の千葉市)へ移封された。これにより、世田谷城は廃城となった。

城の石材が江戸城の改修に転用されたという伝承もあるが、それを裏づける史料は確認されていない。

城跡の主要な地形や構造は失われることなく残されてきた。昭和15年(1940)には東京市が城址を公園として整備し、昭和25年(1950)以降は世田谷区が管理を引き継いだ。現在は東京都指定旧跡として保護され、土塁や空堀など中世城館の遺構が良好に保存されている。

考古学的な調査も継続的に行われてきた。豪徳寺の前身とされる弘徳院の跡地や城の中心部では、掘立柱建物、井戸、地下式のくぼみなどが確認されている。とくに2000〜2001年に実施された第2次・第3次発掘調査では、陶器や板碑が出土し、居館としての性格を具体的に示している。また、2006年に行われた第7次調査では、本郭とみられる区域において建築跡や排水施設の痕跡が確認された。調査後、遺構は地下に埋め戻され、保護されている。

吉良氏八代、約二百年にわたって世田谷に根を下ろしたこの城は、典型的な戦国の城とは趣を異にする。居館としての佇まいを色濃く残しながら、地形に寄り添い、歴史の舞台となってきた。静かな城址を歩けば、かつての暮らしの気配が、柔らかな風に溶けて伝わってくる。

世田谷城の特徴と構造

世田谷城は、標高およそ30〜40mの舌状台地の上に築かれている。周囲を烏山川が三方から巡り、自然の地形を巧みに取り入れた平山城である。その構造は、戦闘に特化した堅固な城というよりも、居住と防備を両立させた館城の性格が濃い。

城域の中心には本郭が置かれ、現在の豪徳寺や城址公園一帯に相当する。遺構として残るのは主に土塁と空堀であるが、これらの配置から、複数の郭が段状に連なっていたことがうかがえる。大規模ではないものの、中世城館の構造がよく保たれており、吉良氏の生活と統治の場としての面影を今にとどめている。

本郭跡(豪徳寺境内)

現在の豪徳寺境内は、吉良氏の居館を囲む本郭に相当するとされる。文明12年(1480)に吉良政忠が創建したと伝わる弘徳院も、この区域に所在していたとされている。発掘調査では、境内の一角から掘立柱建物跡、井戸、地下式のくぼみが確認されており、本郭と宗教施設が同一敷地内に存在していたことがわかっている。なお、塔跡や礎石といった遺構は確認されておらず、その所在は現在も明らかになっていない。

空堀と土塁(城址公園)

城址公園には、幅・深さともに十分な空堀とそれに連なる土塁の遺構が良好に残されている。曲輪と曲輪を隔てる防御線としての機能を担っていたと見られ、現在は整備された園路として歩くことができる。堀底をたどれば、地形のうねりとともに、中世の空気が静かに立ち上がる。

発掘調査区域(本郭地下)

2006年に実施された第7次調査では、本郭にあたる区域から建物基礎跡や排水構造が確認された。調査は集合住宅建設に伴って行われたが、その後建設計画は中止となり、遺構は埋め戻されて地下保存されている。地表からはその痕跡は見えないが、地中には確かな歴史が眠っている。

参考文献:

  • 『東京都の中世城館』 資料集(2013東京都教育委員会)
  • 世田谷城阯公園 現地案内板「世田谷城跡」
  • 世田谷区Webサイト

世田谷城の学びに役立つ本と資料

書籍資料では『東京都の中世城館』(2013東京都教育委員会)が良い。現地案内板は、世田谷城阯公園の西側(城山通り側)、遊具などが設置されているエリアにある案内板「世田谷城跡」が、発掘調査や城域の推定図が掲載されていて詳しい。案内板の裏面(道路側ではなく城側)を見るべし。

世田谷城周辺の史跡を訪ねて

空堀と土塁が残る世田谷城阯公園の攻略時間は5分程度。時間に余裕があったら訪れてみたい。中世に吉良氏の居城として築かれた世田谷城は、江戸時代に入り廃城となったが、その周囲には城と深く関わる神社仏閣や、藩政期の歴史を伝える文化財が残されている。静かな住宅地の中に点在する史跡を歩けば、往時の姿がふと重なる瞬間がある。ここでは、世田谷城跡とあわせて巡りたい関連史跡を紹介する。

豪徳寺(旧・弘徳院)

文明12年(1480)、吉良政忠が伯母の菩提を弔うために創建した弘徳院が、後に、彦根藩主、井伊直孝の帰依を受けて再興され、現在の曹洞宗寺院「豪徳寺」となった。境内には井伊家の墓所が整備され、招き猫発祥の地としても知られる。かつては世田谷城の城内に位置していたとされ、歴史と信仰が交差する地である。

世田谷八幡宮

豪徳寺の西側に鎮座する世田谷八幡宮は、天文年間(16世紀中頃)に吉良頼康が創建したとされる。立地的に世田谷城の西方を守る位置にあり、近年の研究では出城的な性格を持っていた可能性も指摘されている。現在も地元の信仰を集め、秋の奉納相撲は伝統行事として続いている。

勝光院

世田谷区豪徳寺にある勝光院は、吉良氏の菩提寺として伝えられる寺院である。境内には吉良頼康をはじめとする歴代当主の墓所が残り、静かに往時を物語っている。周囲の地名や地形も中世以来の面影をとどめ、城と寺の関係性を肌で感じられる場所となっている。

世田谷代官屋敷

江戸時代、彦根藩領であった世田谷の20ヵ村を治めた大場家の代官役宅が、現在も主屋・表門を残して公開されている。屋敷は享保年間に建てられたとされ、豪壮な茅葺屋根や長屋門が往時の行政拠点の面影を伝える。代官は毎年井伊家への年貢を上納し、城跡周辺の土地支配の実務を担っていた。

世田谷城のアクセス・所在地

所在地

住所:東京都世田谷区豪徳寺2丁目 [MAP] 県別一覧[東京都]

電話:03‑3429‑4264(世田谷区文化財係)

アクセス

鉄道利用

東京急行電鉄世田谷線、宮の坂駅下車、東南へ徒歩6分。「世田谷城阯公園」が空堀と土塁が残るエリア。

マイカー利用

首都高速3号渋谷線、池尻出口から、西へ約15分。または、首都高速4号新宿線、永福出口から、南へ約15分。世田谷城阯公園は駐車場無し。

※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。

世田谷城に寄せて

これまでに届いた声:全3件

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    豪徳寺山門の脇の土塁。世田谷城跡公園の空掘り。住宅地のためほとんどの遺構が破壊されているが、上記だけかろうじて残っている。

    ( 田村靖典)さんより

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    室町時代初期、 鎌倉府の支えとして 足利氏一族の吉良治家の築城。吉良氏は世田谷御所様・吉良殿様 と呼ばれ権勢を誇っていたが。 戦国期には、台頭著しい北条氏の傘下に入っていた。天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の時、北条氏が降伏した為、 その時の当主・氏朝は豊臣に降伏し開城。 世田谷城は二百年の歴史に幕を下ろし、廃城となった。城壁の石材等は徳川氏の江戸城修築の材となったと言われる。

    ( 田村靖典)さんより

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    世田谷城の城域については諸説あり、土塁と堀の一部が残っている公園を中心としたエリアを詰の城、豪徳寺のエリアを吉良氏館と推定されている。

    ( shirofan)さんより

城の情報

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