写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン

水口城の歴史と見どころ

水口城(みなくちじょう)は、東海道水口宿に近接する丘陵地に築かれた江戸時代の平城である。将軍の上洛にともなう宿泊施設として整備された御殿型城郭として知られ、その成立には幕府中枢の意図が色濃く反映されていた。

関ヶ原の戦いの後、徳川家康の命によって鳥居忠政が近江甲賀郡に2万石を与えられ、慶長6年(1601)に水口に入封した。鳥居氏は三代にわたりこの地を治めたが、寛永10年(1633)に三河国へ移封され、忠房が吉田城へ入ったことにより、水口藩は一時廃藩となった。

その後、寛永11年(1634)、三代将軍・徳川家光の上洛に際し、街道沿いに宿泊所を設ける必要が生じたことから、水口の地に再び築城が命じられた。城の作事には作事奉行があたり、小堀遠州が関与したと伝えられている。構造は天守を設けず、御殿を中心に本丸・二の丸を配し、政庁・宿泊所を兼ね備えた構成であった。

完成した水口城には、実際に家光が一度宿泊した記録が残る。その後、将軍の宿泊は行われず、以後は城番によって維持管理がなされた。

天和2年(1682)、加藤明友が2万石で入封し、水口藩が再設置されると、水口城は藩庁としての役割を担うこととなった。以後、加藤氏に続いて土屋氏が藩主を務め、幕末まで城と藩政の機能が維持された。

城内には天守に代わる二層の櫓が配されていたとされ、将軍宿泊にふさわしい格式を備えた構造であった。御殿は石垣と水堀をともなう内郭の一角に設けられ、政庁と迎賓施設を兼ねた建築群が整えられていた。

明治維新後、廃藩置県にともない水口城は廃城となり、建物は取り壊された。石垣の石材の一部が、後に近江鉄道の敷設に転用されたと伝えられている。現在は一部が復元整備され、「水口城資料館」として公開されている。

※なお、水口城に先立つ戦国期には、大岡山(古城山)の山頂に「水口岡山城」と呼ばれる山城が築かれていた。両者は位置・構造・用途を異にしており、時代を隔てた別個の城郭として明確に区別される。

参考文献:

  • 甲賀市Webサイト「水口城跡」

資料館(御矢倉)の小屋組に当時の部材

水口城の当時の部材御矢倉は「水口城資料館」になっていて水口城の模型などがある。受付をされている方は、水口町郷土史会員約9名で構成されているそうで、通名ガイドを聞くことがでる。お茶を出していただいてちょっと感動。ちょっと通な見どころとして、資料館(御矢倉)の小屋組に当時の部材が使われている。

水口城の撮影スポット

出丸の模擬御矢倉(資料館)と、石垣の遺構が残る北西の櫓台の石垣は押さえておきたい(櫓台上部は積み直されている)。

出丸は御成橋側は北側なので曇りの日が撮影に適している。季節は出丸付近で咲き誇る桜が綺麗(桜の時期にはライトアップも)。またはその葉が落ちる冬が良い。夏場はとても木々が邪魔して撮りにくかったが、近年、出丸南側の桜の木が1本伐採されており、木々に邪魔されず得られるアングル(写真上)がある。

水口城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る水口城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

水口城周辺の史跡を訪ねて

 

水口城の客殿玄関・蓮華寺城下町では、藩主加藤氏を祭神とした藤栄神社、真徳寺の表門は中級武士の長屋門、蓮華寺には水口城の客殿玄関(写真左)。大徳寺には近江天保一揆の五倫塔や、徳川家康の腰掛石がある。

 

水口石橋・東海道また、お城のすぐ北側には東海道があり宿場町。東海道沿いの水口石、水口岡山城の南側の麓近辺には、宿場町だったことが分かる高札場跡、本陣跡、脇本陣跡などが残り、落ち着いた町並みがある。

 

水口岡山城城では、是非、水口岡山城を訪れてほしい。整備された山城で、近年、発掘を続けており、細部が明らかになりつつある。

水口城周辺のおすすめ名物料理

「森下屋」一軒のみ。寿司屋でお城の北側の商店街にある。昼過ぎなど時間帯によっては開店していないことがあるのでちょっと注意が必要。付近にコンビニは無い。

水口城のアクセス・所在地

所在地

住所:滋賀県甲賀市水口町本丸4−80 [MAP] 県別一覧[滋賀県]

電話:0748-63-5577(水口城資料館)

開館時間

出丸にある水口城資料館(模擬御矢倉)は、AM10:00〜PM5:00 閉館日は木曜・金曜・年末年始。資料館には資料が豊富なので、できれば開館中に行きたい。

アクセス

鉄道利用

JR草津線、貴生川駅下車、近江鉄道乗換「水口城南」下車、北へ徒歩4分。

マイカー利用

城の北にある体育館の横に普通車20台、大型車5台の駐車場がある。

※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。

水口城に寄せて

これまでに届いた声:全7件

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    野洲川の伏流水が湧水となっている薬研堀。どこから水が湧いているか今でも分からないらしいが、「水口」という名前や「碧水城(へきすいじょう)」の別名はここから連想されているそうな。

    ( 左近)さんより

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    出丸には矢倉、御成門、御成橋、土塀が復元されています。本丸は学校の運動場として利用されています。明治期に石垣の石が近江鉄道の敷石になったり、矢倉が売却されたりと、当時のものとして想像できるのは縄張りと水堀、石垣といったところ。小さなお城なので周囲の水堀のまわりを歩くとその大きさが体感できます。

    ( shirofan)さんより

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    本丸と二の丸(通称出丸)の2つで構成される小規模なお城。

    ( 左近)さんより

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    水口城は、寛永11年(1634)三代将軍徳川家光が京都に上洛するために築かれた将軍家専用の宿館。

    ( 左近)さんより

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    八幡山から下りて日牟礼八幡宮を見て回って車に戻ると、まだ4時過ぎと時間がありそうでしたので、これも本来は翌日行く予定でした水口城まで足をのばしてみることにしました。5時過ぎには水口に着き、城跡横の駐車場に車を止めました。駐車場のすぐ横には本丸の堀が伸びており、右の隅の方には櫓台が見えました。そちらは後から見ることにして、本丸の中にはいると中はグラウンド… 隅櫓はどこにあるのかなと探すと、左の方に出丸がありそこにありました。当然、資料館は閉まっていましたが、隅櫓と橋・石垣・堀の雰囲気はなかなか良かったです。ただ、本来本丸北西にあった隅櫓をなぜ出丸に再建したのかというのが何とも不思議です。現在の雰囲気がなかなか良いだけに残念に思いました。そのあとは隅櫓を横目に見ながら堀の周りをぐるっと回ってみました。現在は北西の櫓台部分しか石垣が残っていませんが、この櫓台がやはり良いです。いかにも江戸期に入ってからの築城というのを感じさせるきれいな石垣でした。

    ( KUBO)さんより

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    矢倉はもともと水口城の北西の角にあったものだそうで、現在もその石垣が残ります。ちょっと積み直されてますけど。矢倉は明治期に付近の商家に売却、復元整備のときにそれを専門家に見てもらったところ、痛みなどが激しくそのまま修復するのは難しく、古材を生かしながら新しい木材で復元したものだそうな。矢倉に入り天井を見上げると古材と新しい木材が混在しているのがよく分かる。

    ( shirofan)さんより

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    水口岡山城は、近年、発掘調査などが続いており、新たな遺構が発見されている。また、市民有志で結成される「水口岡山城の会」は、高さ11mの天守バルーンを、イベント時に水口岡山城に設置するなど、ちょっと面白い。

    ( shirofan)さんより

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