監修・撮影:岡 泰行(城郭カメラマン)
水口城の歴史と見どころ
水口城は、東海道の宿場・水口宿の北方に位置し、近世初期に築かれた城郭である。その地には、戦国期に「水口岡山城」と呼ばれる山城が存在していたが、現在「水口城」として知られる城郭は、江戸時代に新たに平地に築かれたものである。
慶長6年(1601)、徳川家康の命により、鳥居忠政が水口に入封した。忠政は鳥居元忠の次男で、関ヶ原の戦いの戦功により近江甲賀郡に2万石を与えられた。彼はこの地に居城を築いたが、詳細な築城時期や構造は明らかでない。ただし、鳥居氏三代にわたり水口を治めていたことは、近世初期の水口藩成立に関する文献から確認される。
その後、寛永10年(1633)に鳥居氏が三河吉田へ移封されると水口藩は廃藩となり、以降は幕府の天領として代官支配が続いた。
転機が訪れたのは延宝6年(1678)である。徳川五代将軍・綱吉の側近である大老・土屋数直が水口に封じられ、城郭整備の命を受けた。延宝8年(1680)頃までに工事は進められ、主に政庁および将軍上洛時の宿泊を想定した御殿が整備された。
この御殿は、将軍が上洛した際の宿泊所として設けられたが、実際に宿泊したのは延宝8年(1680)の1回のみである。その後、城は将軍の宿泊用として使われることなく、城番による管理体制へと移行した。
そして50年後の天和2年(1682)には、加藤明友が2万石で水口に入封し、水口藩が再び成立する。これにより水口城は、迎賓施設から再び政庁・藩庁としての性格を帯びるようになった。
この時期に整備された水口城は、天守を持たず、御殿を中心とする構成を特徴とする。また、土塁と堀によって区画された内郭の一角には、天守に代わる象徴として二層の隅櫓が築かれていたことが、古絵図や調査報告から確認されている。軍事的防備を最小限にとどめ、政庁や迎賓施設としての性格を強く帯びた構造である。
水口は東海道五十三次のひとつ・水口宿としても知られ、江戸幕府にとって要衝の地であった。将軍の上洛に備えた御殿の存在は、水口の宿場としての地位を象徴するものであった。
その後、加藤家に代わって土屋氏が藩主となり、明治維新まで水口藩は存続した。明治期には建物の多くが取り壊され、石垣の石材の一部が近江鉄道の敷設工事に転用されたことが伝えられている。
本丸は、東西約136m、南北約143mの方形である。石垣の高さは約10.6mに達し、幅約18mの水堀によって囲まれていた。御殿を中心に政庁機能を持つ構造として整備された遺構の一端は、今も復元御殿や堀の形状に見ることができる。
※なお、戦国期の水口岡山城(山城)は、現在の水口城(平城)とは別の位置に存在しており、両者は時代・構造・機能において明確に区別される。
参考文献:
- 『甲賀市文化財調査報告書 第23集 水口岡山城跡』調査報告書(2006甲賀市教育委員会)
- 『甲賀市史 通史編 第2巻』通史編(2010甲賀市)
- 甲賀市Webサイト「文化財・水口城」
- 『豊橋市史 資料編 中世・近世』 資料編(2005豊橋市)
資料館(御矢倉)の小屋組に当時の部材
御矢倉は「水口城資料館」になっていて水口城の模型などがある。受付をされている方は、水口町郷土史会員約9名で構成されているそうで、通名ガイドを聞くことがでる。お茶を出していただいてちょっと感動。ちょっと通な見どころとして、資料館(御矢倉)の小屋組に当時の部材が使われている。
水口城の撮影スポット
出丸の模擬御矢倉(資料館)と、石垣の遺構が残る北西の櫓台の石垣は押さえておきたい(櫓台上部は積み直されている)。
出丸は御成橋側は北側なので曇りの日が撮影に適している。季節は出丸付近で咲き誇る桜が綺麗(桜の時期にはライトアップも)。またはその葉が落ちる冬が良い。夏場はとても木々が邪魔して撮りにくかったが、近年、出丸南側の桜の木が1本伐採されており、木々に邪魔されず得られるアングル(写真上)がある。
水口城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る水口城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。水口城周辺の史跡を訪ねて
城下町では、藩主加藤氏を祭神とした藤栄神社、真徳寺の表門は中級武士の長屋門、蓮華寺には水口城の客殿玄関(写真左)。大徳寺には近江天保一揆の五倫塔や、徳川家康の腰掛石がある。
また、お城のすぐ北側には東海道があり宿場町。東海道沿いの水口石、水口岡山城の南側の麓近辺には、宿場町だったことが分かる高札場跡、本陣跡、脇本陣跡などが残り、落ち着いた町並みがある。
城では、是非、水口岡山城を訪れてほしい。整備された山城で、近年、発掘を続けており、細部が明らかになりつつある。
水口城周辺のおすすめ名物料理
「森下屋」一軒のみ。寿司屋でお城の北側の商店街にある。昼過ぎなど時間帯によっては開店していないことがあるのでちょっと注意が必要。付近にコンビニは無い。
水口城のアクセス・所在地
所在地
住所:滋賀県甲賀市水口町本丸4−80 [MAP] 県別一覧[滋賀県]
電話:0748-63-5577(水口城資料館)
開館時間
出丸にある水口城資料館(模擬御矢倉)は、AM10:00〜PM5:00 閉館日は木曜・金曜・年末年始。資料館には資料が豊富なので、できれば開館中に行きたい。
アクセス
鉄道利用
JR草津線、貴生川駅下車、近江鉄道乗換「水口城南」下車、北へ徒歩4分。
マイカー利用
城の北にある体育館の横に普通車20台、大型車5台の駐車場がある。
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
水口城に寄せて:訪れた人の声
これまでに届いた声:全7件

野洲川の伏流水が湧水となっている薬研堀。どこから水が湧いているか今でも分からないらしいが、「水口」という名前や「碧水城(へきすいじょう)」の別名はここから連想されているそうな。
( 左近)さんより
出丸には矢倉、御成門、御成橋、土塀が復元されています。本丸は学校の運動場として利用されています。明治期に石垣の石が近江鉄道の敷石になったり、矢倉が売却されたりと、当時のものとして想像できるのは縄張りと水堀、石垣といったところ。小さなお城なので周囲の水堀のまわりを歩くとその大きさが体感できます。
( shirofan)さんより
本丸と二の丸(通称出丸)の2つで構成される小規模なお城。
( 左近)さんより
水口城は、寛永11年(1634)三代将軍徳川家光が京都に上洛するために築かれた将軍家専用の宿館。
( 左近)さんより
八幡山から下りて日牟礼八幡宮を見て回って車に戻ると、まだ4時過ぎと時間がありそうでしたので、これも本来は翌日行く予定でした水口城まで足をのばしてみることにしました。5時過ぎには水口に着き、城跡横の駐車場に車を止めました。駐車場のすぐ横には本丸の堀が伸びており、右の隅の方には櫓台が見えました。そちらは後から見ることにして、本丸の中にはいると中はグラウンド… 隅櫓はどこにあるのかなと探すと、左の方に出丸がありそこにありました。当然、資料館は閉まっていましたが、隅櫓と橋・石垣・堀の雰囲気はなかなか良かったです。ただ、本来本丸北西にあった隅櫓をなぜ出丸に再建したのかというのが何とも不思議です。現在の雰囲気がなかなか良いだけに残念に思いました。そのあとは隅櫓を横目に見ながら堀の周りをぐるっと回ってみました。現在は北西の櫓台部分しか石垣が残っていませんが、この櫓台がやはり良いです。いかにも江戸期に入ってからの築城というのを感じさせるきれいな石垣でした。
( KUBO)さんより
矢倉はもともと水口城の北西の角にあったものだそうで、現在もその石垣が残ります。ちょっと積み直されてますけど。矢倉は明治期に付近の商家に売却、復元整備のときにそれを専門家に見てもらったところ、痛みなどが激しくそのまま修復するのは難しく、古材を生かしながら新しい木材で復元したものだそうな。矢倉に入り天井を見上げると古材と新しい木材が混在しているのがよく分かる。
( shirofan)さんより
水口岡山城は、近年、発掘調査などが続いており、新たな遺構が発見されている。また、市民有志で結成される「水口岡山城の会」は、高さ11mの天守バルーンを、イベント時に水口岡山城に設置するなど、ちょっと面白い。
( shirofan)さんより