大浦城は文亀元年(1501)、南部光信が古城を修築して築かれ、のちに津軽為信が拠点として津軽統一へと進出した城だ。岩木山麓の平野部に築かれ、堀や土塁をめぐらした四郭構成の平城として機能した。現在は遺構の多くが失われたものの、土塁の痕跡や城址碑が往時を伝えている。このページでは大浦城の歴史や構造、見どころを紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
大浦城の歴史と見どころ
大浦城(おおうらじょう)は、延徳3年(1491)に南部光信が下久慈(現・岩手県久慈市)から津軽へ入り、赤石川上流の種里城に拠ったのち、蝦夷地や秋田土崎湊を拠点とする安東氏の進攻を防ぐ任を帯びて勢力を広げたことに始まる。文亀元年(1501)、光信が古城を修築し、翌年に養嗣子・盛信を置いたのがその創築であり、盛信は大浦殿と呼ばれた。
盛信の死後は子政信、続いて為則が継ぎ、為則は婿養子として久慈備前の次子・為信を迎えた。永禄10年(1567)、若干17歳の為信が城主となる。彼は南部氏の支配に従うことを潔しとせず、津軽統一の志を立てた。元亀2年(1571)5月5日、大浦城を本拠に決起し、石川城・和徳城を攻略。天正3年(1575)には大光寺城を落とし、長年にわたり戦を重ね、天正17年(1589)に津軽一円を平定した。為信は大浦氏を改め津軽氏と称し、豊臣秀吉により四万五千石の大名として認められた。
文禄3年(1594)、大浦城は西偏の地で防備に不利とされ、為信は居城を堀越城へ移した。以後、大浦城は詰城として存続し、藩政期には西の丸に火薬庫が設けられている。元和元年(1615)の一国一城令後、三の丸は削られ、建物は弘前城下の寺院に転用された。明治以降、学校や公民館が建ち、現在は標碑とわずかな土塁が往時を伝えている。
大浦城の特徴と構造
大浦城は、弘前市岩木町賀田の西端、旧百沢街道沿いに位置する平城である。規模は東西約500m、南北約250mで、東から三の丸・二の丸・本丸・西の丸の四郭で構成されていた。北側には岩木山を水源とする「後流れ」と呼ばれる川が幅7〜10mあまりで流れ、外堀の役を果たしていた。
本丸は不規則ながらほぼ方形で、土塁と水堀をめぐらせ、二の丸と西の丸へ虎口を開く。二の丸南側の大手門は、慶長15年(1610)の弘前城築城時に移築され、追手門(賀田門)として用いられた。堀はのちに泥田や苗代へ変じたが、土塁は現在も一部に痕跡を残す。城地は岩木川西方の平野にあり、水利と交通を押さえる要衝として機能していた。今日では遺構の大半が改変されているものの、地割の一端と「大浦城址」の碑が静かに津軽発祥の記憶をとどめている。
参考文献:
- 『日本城郭大系2』(新人物往来社)
- 『大浦城跡遺跡』(1998岩木町教育委員会)
- 「弘前城関連史跡 大浦城跡」弘前市Webサイト
大浦城から移築された建築物
弘前城の城下には、寺町が2つある。そのひとつ、新寺町の法源寺に大浦城の移築城門がある。また、津軽氏の菩提寺である長勝寺には台所が移築されている。
大浦城とあわせて訪ねたい史跡
大浦城周辺の名物料理
この付近には地元の食堂「本間食堂」が1件。だが「津軽中学校通り」バス停付近。
大浦城の観光情報とアクセス
所在地
住所:青森県弘前市五代早稲田 [MAP] 県別一覧[青森県]
電話:0172-35-1111(弘前市観光課)
アクセス
鉄道利用
JR奥羽本線「弘前駅」下車後、弘南バス板柳線「津軽中学校通り」降車、徒歩約4分。または、弘前駅からタクシーで約24分。弘前市立津軽中学校グランド東南角に石碑がある。
マイカー利用
東北自動車道、浪岡ICから約17分、大鰐弘前ICから約31分。 弘前市立津軽中学校を目指す。
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岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年より日本各地の城郭を訪ね歩き、取材と撮影を続けている。「先人たちの知恵とおしゃれ心」をテーマに、四半世紀にわたり城のたたずまいと土地の風土を記録してきた。撮影を通して城郭に宿る美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に残る歴史の息づかいを伝えている。作品は書籍、テレビ、新聞など多くのメディアで紹介され、城の美しさと文化を広く発信している。









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