写真:岡 泰行

浪岡城の歴史と見どころ
浪岡城(なみおかじょう)は、南朝の重臣・北畠親房の子顕家の後裔がこの地に拠ったことに始まる。北畠氏が浪岡に結びつく契機は、顕家が正慶2年(1333)に陸奥守として義良親王を奉じ東北経営に赴いたことにさかのぼる。のちにその系統がこの地へ下向し、北畠顕義の代に現在の地点に浪岡城が築かれたという見方が強い。顕義は明応2年(1493)に没しており、築城は15世紀後半とみる説が多い。北畠氏はこの地で「浪岡御所」と称され、天正年間(1573–92)まで津軽の有力土豪として勢力を誇った。
浪岡は、津軽平野の中央に位置し、外ヶ浜や南部方面を結ぶ要衝にあたる。北畠氏はここを拠点に在地支配を固め、京との関係も保ちながら官位を受けるなど名家としての格式を保った。しかし永禄5年(1562)の「川原御所の乱」により一族が分裂し、勢力は衰退。さらに天正6年(1578)、大浦(のちの津軽)為信の軍勢に攻められ、最後の御所北畠顕村が捕らえられた後に切腹し滅亡したと伝わる(『津軽一統志』による)。
その後、浪岡城は荒廃し、明治期には堀が水田化するなど姿を変えたが、昭和15年(1940)に国史跡に指定された。昭和40年代から発掘整備が進められ、現在は「史跡浪岡城跡公園」として整備されている。敷地内には中世浪岡の歴史と北畠氏の軌跡を伝える「浪岡城跡案内所」が建ち、出土遺物や復元模型などを通じて往時の姿を偲ぶことができる。
浪岡城の特徴と構造
浪岡城は、津軽平野の微高地に築かれた平城で、浪岡川を南の天然の堀とした。城は東から東館・猿楽館・北館・内館・西館・検校館などが並び、全体で七つの郭群から構成されている。中心となる内館は標高約36mの地点にあり、北館の北西には二重堀、東館との間には三重堀を備えていたことが確認されている。東西にゆるやかに傾斜する地形を活かし、堀・土塁を重ねた複郭式の構造を持つ。
主要な出入口は、東側の五本松の西端新館と東館の間にあったとされる大手門(追手口)と、西館、検校館の南側で浪岡川との間にあった搦手門である。これらの遺構の多くは現在も地形として残り、北館南部では埋没堀の存在も確認されている。城域の東西には「七日橋」伝承をもつ橋跡もあり、水利を巧みに利用した防御構造が特徴だ。発掘によって検出された堀跡や郭配置は、戦国期津軽地方の在地領主の居館としての典型を示しており、学術的価値が高い。
参考文献:
- 『日本城郭大系2』(新人物往来社)
- 『浪岡町史資料編』書籍(発行年不明浪岡町)
- 『浪岡城跡発掘調査報告書』(1979浪岡町教育委員会)
- 青森市Webサイト「史跡浪岡城跡」
浪岡城の学びに役立つ本と資料
現地案内板や案内所が充実
浪岡城の案内所に、発掘当時の写真や解説がパネル展示されている。城跡では要所で案内板が設置されており、その内容も充実しているこから、特に事前資料がなくとも充分に楽しめる城跡に整備されている。
浪岡城の撮影スポット
弘前城の桜からやや遅れて咲く。ほぼ同時期のときもあるようだが、3日〜1週間のずれがある模様。
浪岡城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、浪岡城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。浪岡城の周辺史跡を訪ねて
浪岡城の観光情報・アクセス
所在地
住所:青森県青森市浪岡大字浪岡五所14 [MAP] 県別一覧[青森県]
電話:0172-62-1020(青森市浪岡城跡案内所)
※浪岡城は散策自由。
アクセス
鉄道利用
JR奥羽本線、波岡駅下車、東へ徒歩約10分。
弘前城狙いで、飛行機で青森空港に訪れた人は、その道すがら空港から車で約9km(15分)の距離にあるので、訪れておくと良い。弘前までいく空港バスを利用する場合は「浪岡」で降りる(バス停から徒歩約6分)。
マイカー利用
東北自動車道、浪岡ICから、県道285号線を南下、約5km(10分)。案内所に無料駐車場有り(約20台)。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本の城郭をめぐる旅をライフワークとする。長年にわたる豊富な経験と、城郭写真家としての専門的な視点から、当サイトの記事を監修。その写真と知見は、数々の書籍やメディアでも高く評価されている。
浪岡城:城ファンたちの記憶
実際に浪岡城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全5件)。

城跡が結構広く散策にもいいですよ。
( 飯尾隆文)
北畠(親房・顕家)氏の故地です。かつて、三重県の美杉村多気の「霧山城」を攻め「北畠神社」にお参りした事があり、同じ北畠氏と思うと感無量です。南北朝時代北畠親房、顕家親子が築城。その後、子孫の代に大浦氏により攻められ落城。
( 石川造酒正・田村靖典)
現地には立派な「案内所」があり地図や資料も入手できました。係りの方がわざわざ航空写真を出してくれて、お茶までご馳走になりました。見所は「郭の切り岸(2〜3m)」「泥堀」「堀を二重堀にする畝状の土塁(中仕切り)」「復元:井戸、多数」「復元:建物の掘建て柱跡」などてしょうか。畝状の土塁は、延々と泥堀中を走り、橋を掛けて通路としても利用されていました。
( 石川造酒正)
浪岡城跡は発掘調査も進み、検校舘・北舘・内館・東舘・猿楽舘・新舘・無名舘の7郭のうち、前5郭が保存展示されていました。ここの字(あざ)名は「五所(ごしょ)」というそうです。これは「浪岡御所」からきているそうです。近くに「川原御所跡」もあり、北畠氏は御所と尊称されていたようです。
( 石川造酒正)
河岸段丘を利用した平城。8つの郭があり、それぞれが空掘で区切られている。規模的には、根城、九戸城クラス。国の史跡に指定されており、復元の柵もできている。
( 田村靖典)