写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
四稜郭の歴史と見どころ
函館の北方、五稜郭から約3km離れた神山の丘陵に築かれた四稜郭(しりょうかく)は、明治元年(1868)の戊辰戦争の終盤、徳川脱走軍が五稜郭を中心に防衛線を固めるために築いた出丸的な堡塁である。もとは「新台場」「神山台場」と呼ばれ、四稜形をしていたことから、のちに「四稜郭」と名づけられた。
明治元年10月、榎本武揚ら徳川脱走軍が箱館を占拠し、五稜郭を政庁として一時的に北海道を支配した。翌明治2年(1869)、官軍の反攻を予期した脱走軍は、五稜郭と箱館湾口の弁天台場を中心に防衛を強化し、平野部の五稜郭を守るために外郭的な防塁を必要とした。その要衝の一つとして、渡島平野南端を押さえる目的で築かれたのが四稜郭である。
明治2年4月、脱走軍兵士約200人と地元農民約100人が昼夜兼行で築造にあたり、四隅に砲座を備えた洋式堡塁が完成した。同時に、近隣の権現台場(旧東照宮)も増強され、両者は一体的な防衛線を構成した。官軍は同年4月9日に乙部村へ上陸し、三方から箱館へ進撃。四稜郭では本多幸七郎率いる幕府伝習歩兵隊が奮戦したが、5月10日の激戦を経て敗走し、五稜郭へ退いた。『渡島戦争心得日誌』には「要害堅固に築き容易すく破りがたく」とあるが、結局、官軍の包囲を防ぐことはできなかった。戦後、地域は都市化の波を受けつつも、昭和9年に国指定史跡となり、現在も当時の形をよくとどめている。
四稜郭の特徴と構造
四稜郭は権現山の傾斜地、標高約100mの緩斜面上に築かれた平堡で、五稜郭を望む位置にある。東西約40間(約72m)、南北約15間(約27m)で、四隅には砲座が設けられ、南側に門構えを備える洋式の四稜堡塞である。
土塁は幅約5.4m、高さ約3m、空堀は幅約2.7m・深さ約0.9mを測る。砲座は北側の2基が実際に使用されたと伝えられ、官軍の侵入方向を物語る。規模は小さいが、五稜郭防衛の前線を担った実戦的堡塁であり、日本の近代的要塞の萌芽を示す遺構として貴重な存在といえる。
参考文献:
- 『日本城郭大系1』(新人物往来社)
四稜郭の撮影スポット
なるべく広角レンズを持ち込んで、目の前に広がる土塁のうねりを四稜郭の四隅から捉えておきたい。
四稜郭の周辺史跡を訪ねて
四稜郭の観光情報・アクセス
所在地
電話:0138-21-3472(函館市教育委員会 文化財課)
- 公式サイト:史跡 四稜郭(函館市)
アクセス
鉄道利用
JR函館駅から函館バス30分「亀田支所前」、函館バスの58系統または69系統に乗り換え「四稜郭入口」または「四稜郭」バス停で降車。徒歩約15分。四稜郭公園入口の案内板に従い進む。
マイカー利用
函館空港からレンタカーで約25分(約11km)。五稜郭からは北へ約3km(10分)。国道5号線から神山町方面へ入り「四稜郭公園駐車場」を目指す。無料駐車場(25台)有り。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本の城郭をめぐる旅をライフワークとする。長年にわたる豊富な経験と、城郭写真家としての専門的な視点から、当サイトの記事を監修。その写真と知見は、数々の書籍やメディアでも高く評価されている。
四稜郭:城ファンたちの記憶
実際に四稜郭を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全6件)。




四稜郭は、城めぐりには手にとれるサイズ感ともいうべき大きさで、その土塁が全域で残っていた。堡塁の形が美しく、整備もされとても見やすい城跡で五稜郭を訪れたら必ずこちらも訪れておきたい。
( 安国寺AK)
四稜郭は、五稜郭の北方防備の前進基地として築いた城跡で、現在は、土塁・空堀が蝶のような形をしていて、なんだか走り出したくなるようなところです(笑)
( nao)
ここは3年振り2度目の訪城となりまが、前回と同様「小さいなあ」というのが第一印象でした。広さ的には砂原陣屋の倍くらい?、モロラン陣屋よりも小さい感じがしました。土塁もそんなに高くないですし、堀も浅いですし、これでどれだけ防御力があったのかは疑問です。これならば、数日で五稜郭に撤退したのも仕方ないかなと思えます。ただ土塁はあとから整備もしたんでしょうけど、とてもきれいです。土塁好きの方にはおすすめでしょう、特に四隅の砲座の所に立って土塁を眺めると、その屈曲がよくわかりますし、写真に撮るとなかなか見栄えがします。とにかくそんなに大きくはないですが、土塁がホントきれいで、なんだかホッとするところです。
( KUBO)
四稜郭は五稜郭の北北東約4キロのところにあります。旧幕府脱走軍が五稜郭の防御用として築いたもので、土塁や四隅の砲座が手入れよく残っています。
( ナベ@日本のお城)
四稜郭も西欧式ですが、こちらは単なる史跡ですが、土塁・空堀はきっちり残っており、特に食い違い虎口が明瞭ですが、規模としては戦国時代でいうならば館跡程度です。
( 山中)
その名のごとく四つ角を持つ星形で五稜郭を巡る稜堡要塞群の一つのようです。五稜郭の出城としてつくったと聞いたことがあります。使用されたのは極々短期間だったとか。土塁、空堀、砲台跡など稜堡の旧状を残しています。
( Ichinose)