写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン
原城の歴史と見どころ
原城は、有明海に突出する「原の島」と呼ばれた岬を利用して築かれた平山城で、周囲は干満差の大きい海と湿地に囲まれていた。明応5年(1496)に有馬貴純の築城と伝えるが、貴純は同2年に没しており、完成時期には疑いが残る。ただ、有馬氏が日野江城と原城を併用して居城とした時期があったことは確かで、両城は中世・戦国期の島原半島支配の中心を成していた。
有馬氏は藤原経澄を祖とし、鎌倉期から島原半島の有力領主として勢力を培っていたが、戦国時代の貴純の頃には深江・安富・安徳らの諸氏を従え、さらに大村純伊を抑えて高来・彼杵・藤津の三郡を領するまでに成長した。十代晴純の代こそ全盛期で、天文14年(1545)には龍造寺氏を破り、三根・佐嘉・神埼の三郡を含む肥前六郡を支配した。
その後、有馬晴信はキリシタン大名として南蛮貿易にも活躍したが、慶長14年(1609)の事件に連座し処刑され、子の直純も日向延岡城へ転封となった。これにより有馬氏の島原半島支配は終焉した。元和元年(1615)の一国一城令により、松倉重政が島原城(森岳城)の建設を進めると原城は破却され、石垣の多くが運び去られて完全に廃城となった。
しかし寛永14〜15年(1637〜1638)、島原・天草一揆が勃発すると一揆勢は荒廃した原城に籠城し、三万余とされる農民・信徒が幕府軍に対して約三か月にわたり抗戦した。城は天然の要害ゆえに攻め難く、最終的には総攻撃で落城したが、原城は一揆終焉の地として深い歴史的記憶を刻むことになった。
現在、原城跡は国指定史跡として整備が進み、本丸周辺の石垣・礎石・出土遺物が公開され、遊歩道や案内板が整備されている。
原城の特徴と構造
原城は、岬状に突き出した丘陵(約200m×700m)の全体を要塞化した構造であった。南端の断崖上に本丸を置き、その北に二の丸・三の丸が段状に連なる梯郭式の縄張で、周囲の突き出しには鳩山出丸や天草丸(大江出丸)が配され、入江や湿地を扼する形で配置された。これらの郭は自然地形の起伏をそのまま利用したもので、丘陵全体が軍事的機能を持つ構造だったとされる。
原城最大の特徴は、干満差の大きな有明海を防御に取り込んだ点にある。城の北・西・東はいずれも湿地帯で、潮が満ちると周囲は海水に覆われ、原城はほぼ孤立した水城の様相を呈した。満潮時には泥沼と化し、敵は接近しにくかったと考えられる。大手門(日ノ江口)をはじめ、大江門・田町門・浦田門など6門が設けられており、いずれも潮の干満を利用した配置であった。

本丸跡に建つ天草四郎像

城内の遺骨を集め供養した「ほねかみ地蔵」

発掘調査で出土した本丸門礎石
本丸は石垣造りで、かつて天守がそびえていたと伝わる。各郭を結ぶ道筋は複雑で、海と湿地に守られた城は、戦国期には日野江城と並ぶ有馬氏の要衝であり、島原・天草一揆時には天然の堅固さが改めて証明されたといえる。
参考文献:
- 『日本城郭大系17』(新人物往来社)
- 『原城跡』Webサイト(南島原市教育委員会)
原城の別名は、読みを表す
原城は、別名を「志自岐原城」または「春城」という。「原」は九州では「ハル」や「バル」と読むことが多く、志自岐原城は「しじきばるじょう」と読む。「志自岐」とは繁木のことで、文字通り木が繁っていたことを意味している。
また、「原」は野原の意味ではなく当字と言われ、春の城ともいう。当時の読みを知るのに宣教師の記録などから「はるのじやう」と発音されていたらしい。こうなると、原城や春城と書いて「はるのじょう」となる。
原城の整備計画とは
平成23年、『史跡原城跡整備基本計画』が発表され、今後、約20年をかけて段階的に整備される。南島原市のWebサイトで100ページにも及ぶ内容がPDFにて公開されている。
原城の撮影スポット
原城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、原城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。原城の周辺史跡を訪ねて
有馬キリシタン遺産記念館、平成26年にオープン
「有馬キリシタン遺産記念館(旧原城文化センター)」へどうぞ。発掘で出土した人骨のレプリカや大砲の弾などが展示されている(南島原市南有馬町乙1395)。
原城の周辺おすすめ名物料理
「喜作」肥前名護屋から取り寄せのイカとフグがうまい。島原の郷土料理「具雑煮」定食(1,300円)も。具雑煮は原城での篭城食と言われ、本来は雑草など食べられるものはなんでも入っていたらしい。これも出汁がきいておいしい。 [林田公範(1999.11.04)]
原城の観光情報・アクセス
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録してきた。撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介され、多くの人に城の美しさと文化を伝えている。
原城:城ファンたちの記憶
実際に原城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全6件)。




世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として登録を受けてから、にわかに脚光を浴びている原城跡。
現在、本丸までのマイカー乗り入れはできなくなっており、大手口近く(原城温泉真砂のある辺り)からシャトルバスが運行されている。とはいえ、大した距離でもないので、ゆっくりあたりの風景を見ながら思いを馳せて歩くのがオススメだ。
事前にスマホやipadなどにアプリをダウンロードしておけば、本丸の要所要所で一揆当時や築城時のVRを楽しめるといった趣向もある。本丸の観光案内所にて端末の貸し出しも行っているので、それを利用するのも良い。
( 林田公範)
島原の乱は、宮本武蔵にとって最後の合戦だった。剣を振るう間もなく籠城側が原城から落とされた石が足にあたり、武蔵は動けなくなってしまったそうな。武蔵の息子、宮本伊織は、手柄をあげ明石藩小笠原家の家老に上りつめた。
( 宮本武蔵)
本丸の各所から石垣が発掘により出現しているが、どの石垣も上部またはコーナー部分が崩され、再利用されないよう破城の扱いを受けたことが分かる。
( 半兵衛)
原城にある「ほねかみ地蔵」は「骨を噛み締める」の意で、相手の痛みを知るとか救済の意味があるなどと、地蔵の横に書かれています。でも本当は「骨髪」でしょう。島原の乱のあと、死体は長い間放置されたままだったといいます。髪がこびりついた白骨などがあちこちにあったのでしょう。そう解釈するほうが自然だし、凄みがあると、司馬遼太郎さんの「街道を行く」にも載っています。
( 誠士)
城跡のところどころに城の図と、島原の乱の陣立ての図があるので自分の立っている場所がどんなところかわかります。
( よーすけ)
建築物としての遺稿らしいものはありませんが、城跡は公園(空き地と言ってもよい)と畠しかなく、城としての形がたいへんよく残っています。
( よーすけ)