写真・記録:岡 泰行/城郭カメラマン

日野江城の歴史と見どころ

日野江城は、有明海を控える北有馬の町を見下ろす標高約60mの丘陵に築かれた。現在は干拓によって海岸線が遠ざかっているが、築城当時は海水が城下近くまで入り込み、海に迫る台地上に立つ典型的な中世山城の姿を備えていた。築城は有馬氏初代の有馬経澄によると伝えられ、南北朝期以降の様相を示すとされる。

南北朝期、有馬一族は北朝・南朝双方の年号を用いる軍忠状を残し、複雑な政治状況に置かれていた。その後、明徳4年(1393)の南北朝合体を経て勢力は一時衰えたが、有馬氏澄が足利氏の信任を得て大内氏と連携し、島津氏と婚姻関係を結ぶことで地盤を回復した。氏澄の子貴純の代、明応3年(1494)頃には島原半島の土豪層をほぼ掌握し、勢力は藤津・彼杵2郡へ及んだと伝わる。この頃、原城の築城が進められ、日野江城と2城体制が整えられた。両城は長い橋で結ばれていたとされるが、橋は朽ち落ち、今では「おて(落ち)橋」という名のみを地名にとどめている。

16世紀後半、有馬氏はキリシタン大名として知られる。晴純の子義直は永禄5年(1562)に布教を許可し、ロノ津を中心に宣教が拡大した。義直は天正4年(1576)に洗礼を受け、跡を継いだ晴信も洗礼によりドン・プロタジオと称し、全国宣教師会議の開催や天正遣欧使節の派遣など、積極的な信仰政策を進めた。

しかし天正15年(1587)の秀吉による伴天連追放令以後、日野江城周辺では迫害を逃れた宣教師が潜伏しつつ布教を続け、信徒数はむしろ増大した。さらに慶長14年(1609)のマードレ・デ・デウス号撃沈事件を契機に、有馬晴信の政治的行動は幕府の警戒を招き、後に甲斐に流され死罪に及んだ(有馬晴信謫居の跡)。

元和2年(1616)、松倉重政が入部し島原に新たな森岳城(島原城)を築いたことで日野江城は廃され、多くの石垣が島原へ移された。日野江城は半島支配とキリシタン文化の盛衰を映す舞台として、戦国末期の政治と宗教の交錯を伝えている。

日野江城の特徴と構造

日野江城は標高約60mの丘陵先端に築かれた山城で、縄張りは最頂部の本丸を中心に、二の丸・三の丸が段郭状に連なる梯郭式の構成だったと推定される。日本城郭大系では、本丸・二の丸・三の丸がそれぞれ独立性を保ちながら虎口を守る郭として配置された点が特色とされる。また、現存する城壁には乱積みの石垣が確認され、同時期の名護屋城などと比較される技術的特徴がみられる。

日野江城の階段遺構と石垣
階段遺構と石垣(発掘調査後に埋め戻された)

日野江城の転用石
日野江城の転用石

発掘調査では、二の丸北側から幅約5.7m、22段の階段遺構が検出され、宝篋印塔など転用石が用いられていた。階段側面には先進的な築造技術である切石積みの石垣が確認され、また金箔瓦も出土した。秀吉政権との結びつきを示唆する重要な発見とされている。

大手川・浦口川に挟まれた河岸段丘の先端という立地は、海上交通の監視と半島支配の要衝であったことを物語る。日野江城は原城と並び、有馬氏の地域支配を象徴する存在だったといえる。昭和57年(1982)、原城は国指定史跡となった。

  • 『日本城郭大系17』(新人物往来社)
  • 南島原市文化財調査報告書第6集『日野江城跡 総集編 I』
  • 『日野江城跡』Webサイト(南島原市役所)

日野江城のネーミング

日野江城(ひのえじょう)の別名に、日之江城、日ノ江城、火ノ江城とある。こう並ぶと高確率で「ひのえ」の当字に違いない。さらに飛躍して、肥前(佐賀県と長崎県)、肥後(熊本県)で使われている「肥」は、潮が「引」くことを意味している説があるという。日野江城はその登山口近くで船着場の遺構が見つかっていること、「江」は、入り江を指すことから、潮が引く入り江というネーミングだと思いたい(もちろん諸説有り)。

平成24年、国指定史跡日野江城跡整備基本計画が、南島原市教育委員会によって発表されている。

日野江城の撮影スポット

日野江城の写真集

城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、日野江城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。

日野江城の周辺史跡を訪ねて

沖田畷古戦場跡

沖田畷古戦場跡天正12年(1584)、龍造寺隆信 vs 有馬晴信・島津家久の合戦がありこれを「沖田畷の戦い」という。発端は、龍造寺氏に反旗を翻した有馬晴信の征伐で、晴信が島津氏に救援を要請、島津氏の武将川上忠堅に龍造寺隆信は討ち取られた。大阪の四條畷など、「畷(なわて)」とついている地名は、湿地帯に細く伸びた道を指すので、当時、森岳城(島原城)付近はそういった地形で、沖田畷古戦場は、交通の要衝だったのだろう。沖田畷古戦場跡には、龍造寺隆信の供養塔が建っている。

有馬晴信謫居の跡

有馬晴信謫居の跡日野江城からかなり遠いが、山梨県甲州市大和町初鹿野に「有馬晴信謫居の跡」がある。晴信は秀吉のもと九州平定に参加、朝鮮の役にも従軍した。関ヶ原では徳川方となったが、岡本大八事件があり、甲斐に流され死罪となった。切支丹のため切腹はできず、家臣により斬首された。晴信の娘は、有賀家へ嫁ぎ、その謫居跡を守ってきたらしい。その後、晴信の子孫、丸岡藩の有馬家は、命日に有賀家へ献上品を持っていかせていたという話が伝わっている。

付近の有名なお城

ここまで来れば島原城原城もすぐそば。見逃すなかれ。

日野江城の周辺おすすめ名物料理

「喜作」肥前名護屋から取り寄せのイカの刺身とフグがうまい。島原の郷土料理「具雑煮」定食(1,300円)も。具雑煮は原城での篭城食と言われ、本来は雑草など食べられるものはなんでも入っていたらしい。これも出汁がきいておいしい(林田公範 1999.11.04)。

日野江城の観光情報・アクセス

所在地

住所:長崎県南島原市北有馬町戊 [MAP] 県別一覧[長崎県]

アクセス

鉄道利用

JR諫早駅から島鉄バス 「日野江城入口」降車、徒歩15分。

マイカー利用

駐車場無し。駐車スペースは路上に少々。

日野江城:城ファンたちの記憶

実際に日野江城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全6件)。

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    駐車スペースから、日野江城大手門跡の坂道の昇っていくと石垣があります。
    イノシシ除けの柵がありました。一番下の柵を入ると、仏教排斥の痕跡らしきサンスクリットが書いてある石が見えます。仮設覆屋は、2015年のゴールデンウィークにはまだ残っていたので、足場の上からじっくりみることができました。
    砂利道を上がって、大広場を見学後、駐車したところに戻る途中、20年間日野江城を見て回っている男性と出会い、遺構を案内してもらいました。ガイドブック自体がない中、場所だけ調べて、見学したので非常に助かりました。
    南島原市役所ももっと世界遺産に登録されるように力を入れてるようには見えませんでした。2015年秋のイコモスの視察でどう評価されるのでしょう。20年間、独学で日野江城を見て回っている男性の方の力を借りればいいアピールになると思います。彼も、南島原市に提言しているようですし、是非、世界遺産に登録されてほしいな

    ゆう)

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    山梨県甲州市大和町初鹿野に「有馬晴信謫居の跡」がある。晴信は秀吉のもと九州平定に参加、朝鮮の役にも従軍した。関ヶ原では徳川方となったが、甲斐に流され死罪となった。切支丹のため切腹はできず、家臣により斬首された。晴信の娘は、有賀家へ嫁ぎ、その謫居跡を守ってきたらしい。その後、晴信の子孫、丸岡藩の有馬家も命日には、有賀家へ献上品を持っていかせたとのこと。

    有馬晴信)

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    安土城にも似た直線的な階段遺構の一部が、2015年3月まで仮設覆屋で保護されるかたちで、十数年ぶりに再び姿を現している。見るなら今しかないかも。

    林田公範)

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    日野江城と原城は、3kmと離れていないが、朱色の橋が両城を結んでいたという説があり、柱の跡などが見つかっているが定かでない。

    林田公範)

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    現在、教育委員会の手により発掘調査中。現地でその形が日々解明されている目の離せない城跡だ。

    林田公範)

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    龍造寺氏をも凌ぐ勢いで肥前を掌握していた、キリシタン大名有馬氏の居城。金箔瓦につづき、昨年、東側の二の丸付近から切石による外来系の石垣が発掘されたのも記憶に新しい。イエズス会の報告から有馬晴信の代のとき石垣が用いられたと推測されている。

    林田公範)

城の情報

心に残る日野江城の思い出は?