写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
英賀城の歴史と見どころ
「英賀(あが)」という地名には、古くは「安加」「阿我」などとも書かれ、海辺に生まれた集落の響きがこもる。語源は明らかでないが、播磨灘に面した低湿地に築かれた古代の港集落を指したと考えられている。夢前川と水尾川に挟まれ、播磨灘に臨むこの地は、古くから港町としての性格を帯び、中世には寺院と商家が集まり、信仰と交易が共に栄える町場として発展を遂げた。自然の立地を活かして築かれた英賀城は、三木氏のもとで水城として整えられ、西播磨の軍事・政治の拠点としてその名を知られる。戦国の攻防を経たその城跡はいま、英賀神社の杜にひっそりとその記憶を残している。
英賀城の歴史
「英賀」という地名には、海と川の交差点に栄えた港町の気配が色濃く残る。播磨灘に面し、夢前川と水尾川に挟まれたこの地は、水運を軸に発展し、港町としての役割を果たしてきた。やがて、天然の湿地と川に囲まれたこの地形を巧みに取り入れ、英賀城が築かれてゆく。自然の地勢をそのまま防御に生かした構えは、早い段階からこの城の特徴となっていたと考えられる。
室町時代前期には、赤松円心の弟・赤松祐尚がこの地を支配し、永享年間(1429〜1441)に城の整備を進めた。やがて嘉吉元年(1441)、赤松氏の勢力が衰えるなかで、三木右馬頭・越智通近が英賀城に入り、ここから三木氏の支配が始まる。以後、通近から通重・通武と続く九代139年のあいだ、英賀城は三木氏の本拠として機能した。
なかでも四代・三木通武の時代には城郭の大改修が行われ、本丸・二の丸を中心に水堀と外郭を巡らせる構造が整えられた。夢前川と水尾川、南の播磨灘、北の湿田が自然の堀を形成し、非常時には水を引き入れて城を孤立化させる構えもあったと伝えられている。英賀城は「播磨三大城(三木城・御着城・英賀城)」のひとつと称され、近隣の勢力に対する防衛拠点として重きをなした。
その堅固さが発揮されたのが、天正5年(1577)5月の英賀合戦である。西から迫る毛利方の侵攻に対し、城を守った黒田孝高(官兵衛)は、わずか500の兵で毛利軍約5,000を迎え撃ち、これを撃退した。この戦いは、官兵衛の戦術眼と地形を活かした守備の妙が際立った一戦といえる。
しかし、戦国の流れはさらに大きく動く。天正8年(1580)1月に別所長治の三木城が落ちると、続いて英賀城も同年春に羽柴秀吉の軍勢によって攻められ、ついに落城した。これにより三木氏の支配もここに幕を下ろし、城下の寺院や商家も多くが失われた。現在、英賀神社北側にわずかに残る土塁が、かつての水城の記憶を今に伝えている。
英賀城の特徴と構造
英賀城は、南の播磨灘、西の夢前川、東の水尾川、北の湿地という自然の地形を巧みに取り込み、水堀をめぐらせた水城だった。現在、英賀神社の北側には幅数m、高さ1〜2mの土塁がわずかに残っている。また、英賀薬師堂裏手でも土塁が残る。戦国期には三木氏の手で改修が施され、防御と統治の機能を併せ持つ堅城へと整えられていった。
英賀神社
現在の英賀神社境内には「英賀城址」と刻まれた石碑が建立され、城の歴史を今に伝えている。社殿を囲む空間は周囲よりやや高く、かつての中枢区域としての面影をとどめている。また境内には「司馬遼太郎播磨灘物語文学碑」もある。
英賀神社の北側には、幅約5m・高さ1〜2mの土塁が十数mにわたり現存している。これは三木氏による城郭整備の際に築かれた防御施設の一部とされ、英賀城の遺構の中でも最も明瞭に姿をとどめている。
英賀薬師堂裏手の土塁(三木家一族の墓)
英賀薬師堂の背後に土塁が残り、その上に、英賀城主・三木氏一族の墓と伝わる五輪塔など複数の石塔が静かに並んでいる。
英賀城跡公園
英賀神社北隣には、城跡公園として整備されたエリアがあり、城郭の雰囲気を再現した模擬石垣が設けられている。城跡公園の整備に際しイメージとして造られたもので、往時の石垣を復元したものではない。
参考文献:
- 姫路市Webサイト「英賀城跡」
英賀城の散策コース
姫路市立英賀保公民館に、足を運ぶと良い。英賀城の城跡図ほか、英賀の歴史が書かれた資料をGETできるぞ。ここに駐車場があるが公民館営業中にしか利用できない。そのほか、清水公園の入口には、城跡案内図が設置されている。
また、その場所が悩ましい英賀城の石碑は、現地踏破の上、Googleマップで寸分狂わずプロットしてあるので「英賀城Googleマップ」を要チェック!現地でスマートフォンでお使いを(近年、移動した石碑も含む)。
英賀神社を起点として、反時計回りに、石碑など次の12のスポットを1周すると、城の規模が実感できる。播磨の三大勢力のひとつと言われただけあって、城域は泣くほど広い。
英賀城周辺の史跡を訪ねて
英賀城を歩いたなら、もう少し足を伸ばしておきたい史跡がある。かつて港が広がっていた田井ヶ浜、そして英賀三木氏の流れをくむ林田大庄屋旧三木家住宅。それぞれ、英賀の歴史を静かに語りかけてくる場所だ。
田井ヶ浜
毛利軍が上陸した、田井ヶ浜(英賀の港)。といっても、小さな公園に石碑があるのみで、埋め立てにより港は実感できないが、城域の最南端を実感することができる(場所は上記Googleマップ参照)。
林田大庄屋旧三木家住宅
ちょっと離れるが、英賀城に大いに関係、もはやリッチを通り越してセレブといっていい林田大庄屋旧三木家住宅(兵庫県姫路市林田町林田74)。
英賀城落城後、城主三木通秋の弟、定道が林田で帰農し、代々、林田藩の大庄屋を務めた。平成4年まで末裔の方が住んでいたが、市が管理することになり平成10年から10年の歳月をかけ、往事の姿に修復した(庭園整備を含むと11年)。平成22年から週に4日間だけ公開されている。余談だが三木家は河野家と同様に諱(いみな)で「道」の字を代々使用しているのが特徴だ。家紋は、三木家が河野水軍の流れを汲むことから同じものを用いている(大山祇神社の神紋も同様)。もともと伊予に越智の三木庄にあったことに由来するらしい。旧三木家住宅に使われている瓦は近年の修復で三の字に波をうたないかたちで復元されているが本来は波うつかたちが海を表している。
旧三木家住宅は、母屋のほか厩や米倉、長屋などかなりの規模。機能面では屋敷の外から敷地内に水を引き入れる仕組みや、土塗りの梁、屋内に井戸を持つ。現地の人の話によると、中でも民家ではめずらしいのは蒸し風呂があること(民家の蒸し風呂が現存するのは、奈良とここの2ヶ所なのだとか)。もはやリッチを通り越してセレブといっていい。また、天明の飢饉の一揆の爪痕ともいうべきか、柱を斧で折ろうとした痕跡も残る。長屋の中心部の柱を折ることで長屋全体がつぶそうとした。近年の修復でこの中央部を補強するために、この柱の南側に隠すかたちで鉄筋を入れて補強している。
英賀城観光に便利なおすすめホテル
宿泊できるところは、付近にない。姫路城付近をベースキャンプにどうぞ。
英賀城のアクセス・所在地
所在地
住所:兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町 [MAP] 県別一覧[兵庫県]
電話:079‑239‑6921(英賀神社)
- 西木文庫「英賀城史」(英賀神社)
アクセス
鉄道利用
この城は、JR英賀保駅と南側を走る山陽電鉄の西飾磨駅の間に、見どころ(多くは石碑)が分布する城。じっくり時間をかけて歩きたい。JRと山陽電鉄は結構、離れており、要所でタクシー利用が現実的かもといった距離感。 山陽電鉄網干線、西飾磨駅下車、本丸跡を示す石碑まで徒歩20分。 土塁が残る英賀保神社へは、JR山陽本線、英賀保駅下車、徒歩40分。
マイカー利用
姫路市立英賀保公民館の駐車場利用が良いが、営業時間中しか駐められない。または、英賀保神社付近に駐車するしかないが、いずれにせよ、石碑のほとんどが細い道ばたにあるので、徒歩が良い。
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
英賀城に寄せて
これまでに届いた声:全2件
御着城(小寺氏)、三木城(別所氏)と並び、英賀城は播磨三大城といわれたそうな。
( 官兵衛)さんより
「英賀城本丸石碑」、「英賀城主三木家一族の墓」、「英賀神社に残る英賀城土塁」の3点基本セットは、最低でも見ておこう。余談だが、現地の人曰く、英賀三木家(播磨三木家)は、落城後、九州へ落ち延び、その後、秀吉に許され戻り、英賀神社の神主となったのだとか。
( 官兵衛)さんより