仁正寺陣屋は、元和6年(1620)に成立した仁正寺藩(のちに西大路藩へ改称)の藩庁跡だ。戦国時代に蒲生氏の居城だった中野城跡を一部利用して築かれ、藩ゆかりの神社が残る。さらに周辺には御殿や勘定部屋など陣屋から移築された建物が点在し、失われた藩庁の姿を今に伝えている。このページでは、仁正寺陣屋の歴史や構造、すべての移築建築群を写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
仁正寺陣屋の歴史・見どころ
仁正寺陣屋の歴史
仁正寺陣屋(にしょうじじんや)は、江戸時代を通じて仁正寺藩(のちに西大路藩へ改称)の藩庁が置かれた場所で、その歴史は元和6年(1620)に始まる。越後国三条4万石の大名であった市橋長勝が死去すると、市橋家は後継者不在によって改易の危機を迎えた。しかし、家臣らの嘆願と長勝の功績が認められ、甥の市橋長政が養子として家督を継承することを許された。
長政は近江国蒲生郡・野洲郡および河内国交野郡のうち2万石を与えられ、仁正寺村へ入部した。これが仁正寺藩の始まりだ。その後、領地の分与によって石高は1万7千石となる。長政は戦国時代に蒲生氏の居城であった中野城跡を本拠とし、中野城本丸跡の北東に陣屋を設けた。以後、市橋氏は幕末まで約250年にわたり当地を治め、仁正寺藩の政治・行政の中心となった。
初代藩主の長政は、大坂城再建工事や多賀大社造営などの幕府普請を担当したほか、幕府巡検使や上方幕府領の郡奉行を務めるなど、江戸初期の幕政において重要な役割を果たした人物として知られる。藩主は参勤交代によって江戸と領国を往復し、陣屋には藩政を執る役所と藩主の居館である御殿が置かれていた。
江戸時代後期には陣屋の改築が行われ、安政2年(1855)に新役所、万延元年(1860)に御殿が完成した。その後、文久2年(1862)には藩名が仁正寺藩から西大路藩へ改称された。
明治維新後、市橋氏は東京へ移住し、仁正寺陣屋は藩庁としての役割を終えた。その後、建物は朝陽学校として利用され、大正時代には京都の相国寺塔頭・林光院へ御殿が移築された。
仁正寺陣屋の特徴と構造
藩主は参勤交代によって江戸と領国を往復し、この陣屋を拠点として領内支配を行った。江戸時代後期には改築も行われ、安政2年(1855)に新役所、万延元年(1860)に御殿が完成している。
また、陣屋の周辺には藩ゆかりの神社が配置された。稲荷神社は、二代藩主市橋政信が元禄14年(1701)に藩庁の裏鬼門にあたる旧中野城の土塁上へ勧請されたもので、藩の長久と繁栄を願って創建された。
涼橋神社は享保5年(1720)の創建と伝わり、祭神は六孫王源経基で、市橋氏が源氏の流れをくむことから氏神として祀られたという説のほか、寛文6年(1666)に毒殺された藩主、市橋政房の怨霊を鎮めるために建立されたとの説も残る。このように仁正寺陣屋は、中野城の城郭遺構と近世大名の藩庁が重なる空間として知られている。
仁正寺陣屋跡

中野城東北の土塁の東北に、草で分かりにくいが仁正寺陣屋跡(西大路藩の藩庁跡)を示す藩主市場家邸阯石碑がある。

また、そこから東に広がるグランドも陣屋跡と考えられている。
米蔵

現存の米蔵(原位置)。石は修理用に保有していた御抱石かと思われる(矢穴列が1列ある)。
林光院
京都相国寺の塔頭「林光院」に安政年間建立の陣屋御殿が移築されている。明治になり陣屋は西大路村の朝陽学校となり、その御殿も利用されていたが大正6年(1917)、林光院に売却された。内部は釘隠しや障子に、市橋家の家紋がある(内部非公開)。
法雲寺本堂

法雲寺の本堂には、西大路藩邸玄関の破風の一部を移築したと伝わる。また、境内には蒲生氏郷の父、蒲生賢秀の墓と、初代藩主・市橋長政の外孫にあたる市橋利政の墓がある。
清源寺書院

清源寺は、蒲生定秀別邸「桂林庵」跡・市橋家菩提寺。文久元年に新築される以前の藩邸の一部が移築された。3代・6代・8代藩主の墓がすぐ横にある。

「清源寺本堂鬼瓦」平成21年(2009)に、屋根の葺き替えが行われ、その時に降ろした鬼瓦が展示されている。宝暦4年(1754)のもので市橋家の家紋がある。この裏にも、家紋瓦が置かれている。
仁正寺陣屋移築勘定部屋

藩邸北東にあった勘定部屋の移築。陣屋は朝陽小学校となるが、大正5年(1916)の新校舎建設により現在地に移築、西大路集議所となっている。往時は屋根上に太鼓櫓があったとされる。
聖財寺本堂

藩邸の一部の部材が使用されたといわれている。
経王寺山門

興敬寺門前北詰の木戸が移築された。
興敬寺土塁と堀切

興敬寺は仁正寺陣屋完成まで本陣として使用された。境内東端には、蒲生氏あるいは市橋氏が構築した土塁と堀がある。ここが城の東端だ。興敬寺の山門は市橋家寄進。
仁正寺陣屋の整備状況
仁正寺陣屋跡は、かつて中野城跡とともに堀や土塁などの遺構を残していた。しかし昭和40年(1965)の日野川ダム建設に伴う造成工事によって大きく改変され、多くの遺構が失われた。現在は本丸の一部と堀の痕跡が残されている。涼橋神社や稲荷神社が建つ土塁にも往時の面影を見ることができ、現地には案内板が設置されている。
陣屋の建物は現地に残されていないものの、西大路地区には陣屋から移築されたと伝わる建物が点在する。さらに旧御殿は京都の相国寺塔頭・林光院へ移築されており、これらの建築は失われた仁正寺陣屋の姿を知る貴重な手掛かりとなっている。
遺構の残存状況は限られるが、中野城や周辺に残る移築建築をあわせて見学することで、戦国時代の城郭から江戸時代の藩庁へと受け継がれた歴史をたどることができる。
参考文献:
- 『ふるさと日野の歴史』(日野町教育委員会2016)
- 「西大路藩の藩庁跡」(日野町教育委員会現地案内板)
仁正寺陣屋周辺の観光スポット・史跡めぐり
藩士渡辺家邸宅
殿町通(日野商人街道)の藩士渡辺家邸宅。おそらくは門と石垣が当時のものかと思われる。
西端の武家屋敷
殿町通(日野商人街道)の城域西端、武家と町屋の境目に武家屋敷と思われる建物が2件残る。煙り出しの窓と、屋根切妻に雨除けの汚垂れが見られる。
稲荷神社
中野城の伝・本丸土塁上(西側)に建つ神社。稲荷神社は、元禄14年(1701)に仁正寺藩二代藩主・市橋政信によって創建されたと伝わる。藩庁の裏鬼門にあたる土塁上に伏見から勧請されたもので、藩の長久と繁栄を願ったとされる。
涼橋神社
中野城の伝・本丸土塁上(東側)に建つ神社。涼橋神社は、享保5年(1720)に創建されたと伝わる。祭神は六孫王源経基で、市橋氏が源氏の流れをくむことから氏神として祀られたとされる。一方で、寛文6年(1666)に没した藩主・市橋政房の怨霊を鎮めるために創建されたとの伝承も残る。
仁正寺陣屋アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:滋賀県蒲生郡日野町西大路 [地図を見る]
県別一覧:[滋賀県の城]
電話:0748-52-1211(日野町役場)
アクセス
鉄道利用
JR琵琶湖線、近江八幡駅下車、バス49分「日野川ダム口」降車、徒歩5分。
マイカー利用
名神高速八日市ICより約25分(20.5km)。日野城の南側に「日野川ダム駐車場」有り(無料10台)。
地図
仁正寺陣屋をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット
旧山中正吉邸
静岡県富士宮市で酒造業を営んだ日野商人の本宅で広大な屋敷が残る「旧山中正吉邸」。日野の観光案内の機能もある。屋敷の門の右側には、窓になる仕掛けがあり内側には祭りを見るための内舞台がある。この施設は観光案内も兼ねており『ふるさと日野の歴史』(滋賀県日野町2016)159ページ・A4フルカラー が芳名すると、無償でいただける。そのほか、町内の中世山城「中野城跡」「鎌掛城跡」「佐久良城跡」「鳥居平城跡」「音羽城跡」の縄張図が配布されている。
仁正寺陣屋:城ファンの知見と記録
仁正寺陣屋を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全2件)。







仁正寺陣屋の移築建築をしっかり網羅したページは、なかなかないと思います。散在する遺構の全体像を把握するうえで貴重な内容でした。
記録:三好三人衆 2026
駐車場から日野城の見学を進めると、そのまま仁正寺陣屋跡へとたどり着きます。現地には城址碑や案内板が設置されており、低いながらも石積みが残っています。遺構そのものは多くありませんが、周辺には陣屋から移築されたと伝わる建物が点在しており、あわせて巡ることで往時の藩庁の姿をより身近に感じることができました。
記録:夕凪ゆく 2023