柳本陣屋は、中世の柳本城跡を利用して築かれた柳本藩の陣屋。黒塚古墳の周濠を堀として取り込んだ独特の縄張りを持ち、橿原神宮には移築された御殿「文華殿」、迎乗寺には中奥御殿が現存する。このページでは、柳本陣屋の歴史や構造、現存する移築建築などの見どころを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
柳本陣屋の歴史・見どころ
柳本陣屋の歴史
柳本陣屋は、中世の柳本城(楊本城)跡を利用して築かれた陣屋だ。当地はもともと大和国の在地勢力であった楊本氏の本拠地であり、室町時代には大乗院方国民として周辺地域に勢力を伸ばしていた。
しかし応仁の乱前後になると、周辺で勢力を拡大した十市氏との対立が激化する。文明3年(1471)には十市遠清が楊本館を攻撃し、敗れた楊本範満は堀に落ちて死んだ。その後も楊本氏は越智氏や木沢長政らと結びながら勢力維持を図ったが、天文11年(1542)に木沢長政が敗死すると没落し、柳本城も衰退した。
近世になると、織田信長の弟で茶人としても知られる織田長益(有楽斎)が関ヶ原の戦い後に大和国内で3万石を与えられた。元和元年(1615)にはそのうち1万石が五男・織田尚長に分与され、柳本藩が成立する。当初の藩庁は現在の桜井市大泉付近に置かれていたが、元和2年(1616)頃から柳本城跡への移転が進められ、寛永年間(1624〜1644)までに柳本陣屋が整備されたと考えられている。
柳本藩は1万石の外様大名であったが、織田信長の血筋を引く大名家として幕末まで存続した。延享5年(1748)には城主格となり、十三代にわたって改易や転封を受けることなく当地を治めている。
文政13年(1830)には陣屋御殿が火災によって焼失したが、天保7年(1836)から再建工事が始まり、弘化元年(1844)に新たな御殿が完成した。この時に再建された大書院や玄関は、現在も橿原神宮の文華殿として移築され、保存されている。
明治4年(1871)の廃藩置県により柳本藩は廃され、陣屋もその役割を終えた。その後、御殿の一部は柳本小学校として利用され、地域の教育の場として約90年間活用された。昭和40年代には、大書院や玄関が橿原神宮の文華殿として移築され、昭和42年(1967)に重要文化財「旧織田屋形大書院及び玄関」として指定された。現在も柳本小学校周辺には陣屋跡が残り、発掘調査によって中世居館や藩邸に関する遺構が確認されている。なお天理市丹波市の迎乗寺庫裏も柳本陣屋から移築された中奥御殿で同時期の建物とされる。
柳本陣屋の特徴と構造
柳本陣屋最大の特徴は、中世の柳本城跡を利用して築かれた点にある。陣屋は黒塚古墳を取り込み、その周濠を堀として活用する独特の縄張りを持っていた。
陣屋の規模は東西約285m、南北約310mとされる。外周には堀が巡らされ、北西部では黒塚古墳の周濠を利用しながら防御線を形成していた。さらに南側や西側にも堀が設けられ、全体としては内郭と外郭が重なる回字形の内外複郭構造を備えていたと考えられている。
内部では藩主の御殿である「柳本屋敷」を中心に、その周囲へ家臣屋敷が配置された。嘉永7年(1854)成立の『柳本陣屋絵図』によれば、藩邸は北側で黒塚古墳を取り込み、南は織田家の菩提寺である専行院付近まで広がっていた。藩主の居館と政務施設を兼ねた典型的な陣屋でありながら、古墳や中世城館を取り込んで発展した点は、柳本陣屋の大きな特徴となっている。
また、現存する文華殿の大書院は、上・中・下段からなる格式高い構成を備え、江戸城本丸御殿大広間との共通点も指摘されている。1万石の小藩でありながら、織田家の格式を示す御殿建築が整えられていたことも柳本陣屋の大きな特色といえる。






柳本陣屋の整備状況
柳本陣屋跡は現在の柳本小学校周辺に位置し、藩邸跡一帯は「柳本藩邸遺跡」として認識されている。これまで天理市教育委員会による発掘調査が10次以上実施されており、江戸時代の藩邸関連遺構や、それ以前の中世居館に関わる遺構が確認されている。
周辺では黒塚古墳の史跡整備も進められ、陣屋と古墳が一体となった歴史景観を学べる環境が整えられている。また、陣屋御殿の一部である旧織田屋形大書院・玄関は橿原神宮文華殿として移築保存されており、令和2年(2020)から令和8年(2026)にかけて総事業費約10億7千万円を投じた大規模な保存修理事業が実施された。地盤沈下による建物の歪みや雨漏りへの対策として半解体修理が行われ、建物の長期保存が図られている。
橿原神宮「文華殿」として現存する柳本陣屋御殿
柳本陣屋御殿は文政13年(1830)の火災で焼失した後、弘化元年(1844)に再建された。その大書院と玄関は廃藩置県後も柳本小学校として利用され、昭和40年(1965)から橿原神宮への移築工事が進められた。移築後は「文華殿」として公開され、昭和42年(1967)には重要文化財「旧織田屋形大書院及び玄関」に指定されている。
現存する大書院はL字型の平面を持ち、上段・中段・下段の三段構成によって身分秩序を表現している。建物の構成には江戸城本丸御殿との共通点も指摘されており、1万石の小藩としては異例ともいえる格式の高さを備えている。また、建物内には通行を制限するための「中敷居」が設けられ、藩主と家臣・客人との間に明確な結界を形成していた。
令和2年(2020)から令和8年(2026)にかけては総事業費約10億7千万円を投じた大規模保存修理事業が実施された。地盤沈下による建物の歪みや雨漏りへの対策として半解体修理が行われ、建物の長期保存が図られている。








迎乗寺に移築された中奥御殿
柳本陣屋の建物は橿原神宮文華殿だけではない。陣屋御殿の「中奥御殿」は、廃藩置県後の明治9年(1876)に迎乗寺へ移築され、現在は庫裏として利用されている。迎乗寺には移築当時の記録が残されており、柳本陣屋から移築された建物であることが確認できる。
改修を受けながらも、建物には御殿当時の面影が残る。上段の間は一段高く設けられ、釘隠には格式の高さを感じさせる意匠が用いられている。また、襖の引手が2か所だけ当時のまま残されているほか、屋根には織田家を今に伝える織田木瓜紋の鬼瓦が一つだけ残されている。文華殿として現存する大書院とは用途が異なるため、「中敷居」のような身分秩序を示す構造は見られないが、藩主の私的空間を伝える貴重な遺構となっている。




文華殿については橿原神宮の神職の方に、柳本陣屋中奥御殿については迎乗寺のご住職にご教示いただいた。ここに記して御礼申し上げます。
参考文献:
- 『日本城郭大系10』(新人物往来社)
- 『重要文化財 橿原神宮文華殿(旧織田屋形大書院及び玄関)保存修理事業』(橿原神宮庁2026)
- 案内板「柳本藩邸」「史跡黒塚古墳総合案内」(天理市教育委員会)
柳本陣屋アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:奈良県天理市柳本町1213 [地図を見る]
県別一覧:[奈良県の城]
電話:0743-65-5720(天理市教育委員会)
アクセス
鉄道利用
JR桜井線(万葉まほろば線)、柳本駅下車、東へ徒歩8分(500m)。
マイカー利用
西名阪自動車道、郡山ICから22分(10.2km)、黒塚古墳展示館駐車場(無料)を利用する。
地図
柳本陣屋:城ファンの知見と記録
柳本陣屋を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全2件)。
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柳本陣屋の最大の見どころは、橿原神宮へ移築保存された御殿建築。なにせ現存。現在は重要文化財「旧織田屋形大書院及び玄関」として保存され「文華殿」の名で知られる。通常は外観を垣間見る程度だが、特別公開時は内部を見学できる。上・中・下段の間で構成された大書院や庭園、織田木瓜紋を配した瓦など、とても1万石とは思えない格式ある建築が残されている。
記録:安国寺AK 2026
柳本陣屋跡は現在の柳本小学校周辺に位置し、往時の建物は残っていません。現地では案内板や西門跡のほか、一部に石垣が残されています。黒塚古墳展示館の駐車場を利用して見学する方が多く、黒塚古墳と合わせて訪問するのがおすすめです。また、中世の柳本城跡も近くにあり、セットで巡る方も見られます。
記録:夕凪ゆく 2025