戦災を免れ、桃山文化を伝える妓楼建築と街の記憶
大阪市西成区の飛田新地の一角には、大正末から昭和3年(1928)にかけて建てられた妓楼建築「鯛よし百番」があります。戦災を免れ、戦後には桃山文化への深い憧れを込めた大改修が施され、現在は国の登録有形文化財として、その姿を伝えています。

今回、見学会に参加するとともに、飛田新地を囲んでいた壁の遺構を巡りました。建物や街に残る痕跡をたどると、飛田新地が歩んできた歴史と、建築や街並みに息づく時代の記憶が見えてきます。
鯛よし百番を訪ねて
飛田新地の路地を進むと、周囲の街並みとは異なる趣を持つ建物が姿を現します。これが、登録有形文化財「鯛よし百番」です。数寄屋風の外観や瓦屋根は落ち着いた佇まいを見せますが、一歩足を踏み入れると、その印象は大きく変わります。
館内には、意匠を凝らした座敷が並び、障子や欄間、天井に至るまで職人の技が随所に生かされています。中庭には大きな庭石が据えられ、太鼓橋が架けられるなど、限られた敷地の中に変化に富んだ景観がつくられていました。室内を歩くたびに空間の表情が変わり、それぞれの部屋が異なる趣を持つよう工夫されています。











今回参加した見学会では、建物の歴史だけでなく、戦後に大規模な改修を行った菊地三郎の思いや、桃山文化を取り入れた意匠についても詳しく解説していただきました。日光東照宮などを参考にしながら十年以上をかけて改修を進めたという話からは、この建物が単なる妓楼ではなく、一人の美意識によって磨き上げられた建築作品であることが伝わってきます。
館内は撮影可能な場所も多く、障子越しに差し込む柔らかな光や、庭園を切り取る窓など、思わずカメラを向けたくなる場面が随所にありました。建築のディテールに目を向けながら観る時間は、お城や寺社を訪ねるときとはまた違った愉しさがあります。
飛田新地の歴史
「鯛よし百番」を理解するには、まず飛田新地が誕生した経緯を知る必要があります。飛田新地は、現在の場所に最初からあったわけではありません。その始まりは、現在の南海難波駅付近に広がっていた「難波新地」にさかのぼります。
明治45年(1912)、難波新地は大火に見舞われ、大半の建物が焼失しました。火は遊郭の区域だけにとどまらず、東は高津宮付近にまで及んだとされ、周辺の市街地にも大きな被害をもたらしました。この火災を契機に、遊郭を市街地から移転させる計画が具体化します。
江戸時代の飛田周辺は、「鳶田(とびた)」と表記され、大坂三郷にあった四大刑場のひとつであり、大坂七墓の一つである飛田墓地が広がる地でした。刑場と飛田墓地が阿倍野へ移転・統合されると、周囲は田畑や荒地が広がる土地となります。移転先として選ばれたのが、この飛田の地でした。
新たな遊郭の造成にあたっては、大規模な区画整理と土地造成が行われ、街の内外を隔てる囲いや、火災の延焼を防ぐための対策も施されました。道路や区画も計画的に整備され、街全体が一つの都市計画として設計されたことは、現在の碁盤目状の街路にもその面影を見ることができます。
大正5年(1916)、飛田新地は新しい遊郭として営業を開始しました。整然と区画された街路の両側には、当時としては近代的な設備を備えた妓楼が建ち並び、大阪を代表する歓楽街の一つとして発展していきます。
営業開始後、飛田新地が目指したのは、従来の遊郭とは異なる「モダン遊郭」でした。街には洋風建築を取り入れた妓楼も建てられ、当時の流行や新しい文化を積極的に採り入れた街づくりが進められます。遊興施設としてダンスホールも設けられ、和と洋が混在する独特の景観は、多くの人々を惹きつけました。
昭和初期にかけて飛田新地は最盛期を迎え、大阪有数の歓楽街として賑わいました。太平洋戦争が始まると営業は制約を受け、戦時体制の中で街の姿も変化していきます。
終戦後は再び営業を再開しましたが、昭和33年(1958)に売春防止法が全面施行されると、公娼制度のもとにあった遊郭としての歴史は幕を閉じました。その後、街は現在の業態へと姿を変えましたが、碁盤目状の街路や一部の建築には、近代大阪の都市計画と遊郭の歴史を伝える面影が残されています。
こうした飛田新地の成り立ちを知ることで、「鯛よし百番」という建物が持つ意味も、より深く見えてきます。
鯛よし百番の歴史
飛田新地には、かつて数多くの妓楼が建ち並んでいました。しかし、その中で現在も往時の華やかさを伝える建物は、ほとんど残されていません。「鯛よし百番」が特別なのは、戦災を免れただけでなく、一人の実業家が十年以上にわたってこの建物を磨き上げたからです。
その人物が、菊地三郎でした。
「鯛よし百番」は、大正末から昭和3年(1928)にかけて建てられた妓楼建築です。戦後、この建物を取得した菊地三郎は、桃山文化に強く魅せられ、およそ十年以上にわたって改修を続けました。目指したのは、単なる豪華な妓楼ではなく、日本の伝統美を体現する建築でした。
当時は、参考にできるカラー写真資料がない時代であり、印刷物だけでは彩色や木彫、漆、金箔などが織りなす色彩や質感、造形美を十分に把握することはできませんでした。そこで、日光の間の改装にあたっては、大工や棟梁たちを日光東照宮へ見学に赴かせ、意匠の研究を重ねたと伝えられています。
こうして得た知見は、館内の随所に生かされました。欄間や天井、床の間、障子などには伝統建築への深い敬意が感じられ、座敷ごとに異なる意匠が施されています。同じ建物の中でありながら、座敷ごとに異なる意匠と空間構成が採り入れられ、訪れるたびに異なる趣を楽しめるよう工夫されています。





このほかにも、館内のいくつかの座敷を見学しました。そこにあるのは単なる豪華な装飾ではありません。歴史ある建築から学び、その美しさを建物の随所へ取り入れようとした情熱が空間全体から伝わってきます。
平成12年(2000)、「鯛よし百番」は国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。遊郭建築としての歴史だけでなく、桃山文化への憧れが生み出した近代和風建築として、その美意識は建物とともに今日まで受け継がれています。
飛田新地を囲んだ「嘆きの壁」とその遺構
難波新地の大火を経て整備された飛田新地では、区域の周囲に高いコンクリート壁が築かれました。この壁は、遊郭内部を外部から見えにくくするとともに、火災の延焼を防ぐ防火壁としての役割も担っていました。
飛田新地を囲むこの壁は、「嘆きの壁」と呼ばれることがあります。遊女が逃げ出せないように築かれた壁という話を耳にした方も多いかもしれません。しかし、この名称や由来は比較的新しい時代に広まった俗説であり、当初からその目的で築かれたものではありません。
飛田新地が開設された大正時代、この一帯には約1.15kmにわたって壁が巡らされ、約8.13haの区域を囲んでいました。また、近隣には、桃山中学校に通う学徒530人が利用する通学路があり、子どもたちの目から遊郭の様子を遮る配慮もあったと記録されています。


「嘆きの壁」という呼び名は、昭和40年代頃、人権運動の中で「遊女が自由を奪われた象徴」として語られるようになって広まったものです。しかし、飛田新地の成立経緯や都市計画をたどると、この壁には、防火のほか、遊郭内部を外部から遮り、周辺環境に配慮する役割もありました。
今回の見学では、「鯛よし百番」を訪ねたあと、飛田新地周辺を歩き、この壁の遺構も巡りました。現在では区画整理や道路整備によって多くが失われていますが、注意して歩くと、住宅の間や路地の奥などに当時の壁が今も残されています。何気ない街角に残るコンクリート壁も、その成り立ちを知ることで、大正時代から続く街の歴史を物語る貴重な遺構として見えてきます。




今回の見学では、建物とあわせて、この壁の遺構も自分の目で確かめたいと考えていました。実際に現地を歩くと、建築だけでは分からない飛田新地という街全体の成り立ちが、少しずつ浮かび上がってきます。歴史は建物だけに残るものではありません。街路や壁、土地の境界にも、その時代を生きた人々の営みが刻まれていました。
鯛よし百番と飛田新地の壁遺構を巡って
桃山文化への憧れを建築に注ぎ込んだ菊地三郎の情熱。戦災を免れ、今も当時の面影を伝える「鯛よし百番」。そして街を囲んでいた壁の遺構。それぞれをたどっていくと、飛田新地という街の歴史が少しずつ見えてきます。
最後になりましたが、今回の見学会では、西成区で地域の歴史や近代建築の保存活動に取り組まれている杉浦正彦さんにご案内いただきました。建物の意匠だけでなく、飛田新地の歴史や街並み、壁の遺構まで幅広くご紹介いただいたことで、この街の成り立ちをより深く理解することができました。この場を借りて、貴重なお話とご案内をいただいたことに、心より御礼申し上げます。
文・写真=岡 泰行
(古写真提供:児玉雅裕氏)
飛田新地の壁遺構マップ
今回確認した飛田新地の壁遺構の位置を、Googleマイマップにまとめました。現在も住宅地の中や路地の奥などに点在していますので、現地を歩く際の参考にしてください。
なお、「鯛よし百番」を除き、飛田新地の営業エリア内では、写真や動画の撮影は厳禁とされています。店舗関係者や通行人の写り込みによるトラブルを避けるため、Googleマイマップは散策前の確認用としてご利用ください。営業エリア内ではカメラやスマートフォンを鞄にしまい、地域のルールを守って見学してください。
鯛よし百番の見学・利用について
「鯛よし百番」は、現在もお食事処として営業しています。見学会や食事の予約、営業内容については、鯛よし百番公式サイトをご確認ください。
参考文献:
- 鯛よし百番見学会資料
- 『写真が語る「百番」と飛田新地』(橋爪紳也・上諸尚美(著)/洋泉社2019)





