写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
赤穂城の歴史と見どころ
播磨灘に面した赤穂の海辺に、赤穂城(あこうじょう)は静かに往時の面影をとどめている。浅野家の居城として、また忠臣蔵の舞台として名高い。縄張りは軍学者・山鹿素行の思想が反映されたとされる。折れを多用した曲輪で構成されており、進路を制限する防御的意図が随所に見て取れる。復元された大手門や本丸門、水堀と石垣が赤穂の歴史を静かに物語る。日本100名城に数えられるこの城は、近世城郭の中でもひときわ異彩を放つ存在といえる。
赤穂城の歴史
赤穂城の築城は、江戸時代初期の寛文元年(1661)に始まった。藩主としてこの地に入った浅野長直が、それまでの加里屋城の跡地を拡張・整備し、近世城郭としての新たな城づくりに着手した。備後三原城より転封となった長直は、塩田開発とともに城と城下町の整備を進め、地域の物流・経済の枠組みの一翼を担う構想のもとに築城に臨んだと考えられる。
赤穂城の縄張には、軍学者・山鹿素行の思想が反映されたと伝わる。山鹿素行は寛文2年(1662)に赤穂へ招かれ、藩士に兵学や儒学を講じた。城の構成には折れを多用した複雑な曲輪が連なり、敵の侵入経路を限定し、視界を遮る防御的工夫が随所に見られる。また、城と城下町の区画も一体的に計画されており、政治と軍事、都市機能をあわせもつ構造が特徴といえる。
浅野家の統治は約40年間続いたが、元禄14年(1701)に転機が訪れる。赤穂藩主・浅野長矩が、江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ事件が発生し、長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。この事件が、後に「忠臣蔵」として語られる赤穂浪士の討ち入りへとつながっていく。事件後、藩士たちは城を明け渡し、赤穂城は一時的に幕府の直轄地となった。
その後、元禄15年(1702)には永井氏が入封し、続いて享保元年(1716)には美作(津山城)より森氏が赤穂藩を治めることとなる。森氏は入封後、城の整備を進め、本丸御殿の再構築や石垣の修復などを行った。幕末まで森家が赤穂藩主を務め、赤穂城は近世城郭としての姿を保ち続けた。
なお、浅野家が赤穂に入る以前には、池田政綱が元和元年(1615)に入封している。政綱は姫路城主、池田輝政の子にあたる。赤穂城の初期的な整備はこの時代に始まっていたが、本格的な築城は浅野家の代に入ってからのことである。
明治6年(1873)に廃城令が発令されると、本丸御殿をはじめとする多くの建物が取り壊された。往時を偲ばせるのは、静かに残る石垣や堀だけとなった。その後、昭和から平成にかけて復元整備が進められ、大手門や本丸門、庭園などが少しずつよみがえっている。本丸および二之丸の敷地は国の史跡に指定され、近世城郭の姿を今に伝える貴重な遺構として、穏やかな時間のなかにその存在をとどめている。
参考文献:
- 『赤穂城跡 本丸・二之丸地区発掘調査報告書』 調査報告書(2008赤穂市教育委員会)
- 赤穂市Webサイト「赤穂城跡」
赤穂城の特徴と構造
赤穂城は播磨灘に面した平地に築かれた。沖合まで遠浅が広がる海は天然の防衛線となっており、海上からの接近を容易に許さない。こうした立地に加え、堀と石垣を効果的に組み合わせることで、城は高い防備性を備えていた。本丸・二之丸を囲む内堀、三之丸をめぐる中堀に加え、城外では城下町の街路や堀川が外郭の防御線として機能していた。
曲輪の構成には折れが多く取り入れられ、攻め手の進路を制限し、視界を断つ工夫が随所に施されている。城と町が一体となった構造のなかに、防御と都市計画の両面を意図した設計思想がうかがえる。
また、城下町は備前街道や姫路街道と結節する位置に整然と築かれ、流通や通信の要衝となる構造に特徴がある。これらの街道と堀川、熊見川などの水系が結びつき、城と町が一体となった機能的な都市空間を形成していた。軍学に基づく縄張と、街道を取り込んだ町割の設計思想に、赤穂城の独自性が色濃くあらわれているといえる。
三之丸大手隅櫓と櫓門
昭和30年(1955)に大手門(高麗門)とともに再建された二重櫓。東西4間半・南北3間半の基底部をもち、大手門と枡形への監視機能を担っていた。
大石邸長屋門
江戸時代の家老・大石家三代の屋敷に属した長屋門。元禄期の事件では使者が駆けつけ知らせを叩き鳴らした記録あり。享保14年(1729)の大火では長屋門のみ焼失を免れ、以降数度の修理を経て、昭和52年(1977)に国の史跡として全面修理・復元された。
近藤源八宅跡長屋門
三之丸に所在した赤穂藩重臣・近藤源八の邸宅跡に残る長屋門で、現在も現地に保存されている。敷地内には、江戸時代の上水道施設である「汲出枡(くみだします)」が遺構として残されており、赤穂上水道の分水設備が屋敷単位で整備されていたことが確認できる。導水路から分岐した水が、門前の汲出枡を経て各家に給水されていた構造を今に伝える。
本丸門と本丸櫓門
枡形構造を備えた本丸の正門。外側に高麗門、内側に櫓門が置かれる形で、平成8年(1996)に絵図と発掘調査に基づいて復元された。より曲がりにくくするため、一ノ門の角度が二ノ門(櫓門)に対して平行ではなく、より通りにくく横矢がかけやすい角度に設置されている。
本丸跡 ― 御殿跡と大池泉跡
本丸には藩政の中心となる御殿が置かれていた。昭和後期から行われた発掘調査により、建物の間取りや礎石、庭園の池泉跡が確認され、整備が進められた。庭園部分は平成元年(1989)までに復元され、御殿跡全体については平成10年(1998)に礎石や間仕切跡の整備が完了した。現在は平面的に間取りが再現され、庭園跡とともに公開されている。
天守台跡
天守台は本丸の南東寄りに築かれており、規模は東西約14.5m、南北約約16.4m、高さ約9.5mで、切石を用いた精緻な石垣で構成されている。江戸時代を通じて天守そのものは築かれなかったが、天守台は寛文年間の築城当初からとされる。
厩口門
本丸の東側に復元された門。もとは藩主の馬を出入りさせるための門で、「厩口門」と呼ばれ現存の門は平成13年(2001)に再建された。門の南側石垣は横矢枡形を形成し、曲線的な構造が珍しい。
刎橋跡
本丸の南側、堀を隔てて対岸とつながっていた木橋の跡。古絵図や発掘調査によって、かつて刎橋(はねばし)が架けられていた。戦時には橋を上げて通行を遮断できる構造で、防御上の工夫が見てとれる。現在は橋そのものは残っていないが、両岸の橋台部分が遺構として保存されており、往時の構造をうかがうことができる。
突堤跡
水濠に突き出す形で築かれた突堤が発掘調査により確認されており、防御・海からの荷揚げの機能を持つ構造と考えられている。
二の丸庭園
本丸庭園に続いて整備が進められた二之丸庭園は、平成14年(2002)に国の名勝に指定され、平成28年には一部が公開された。
水は城を支え、町を潤した ― 日本三大上水道のひとつ、赤穂の知恵
赤穂城の築かれた一帯は、千種川の河口に位置する低湿地で、井戸を掘っても塩分を含む水しか得られない土地だった。このため、生活用水を確保するには遠方からの導水が不可欠となり、導水工事は慶長19年(1614)から元和2年(1616)にかけて、代官・垂水半左衛門の指揮で始まった。当時の藩主は初代、池田政綱であり、この取り組みは後に浅野家にも受け継がれ、町屋までの給水網へと発展していった。
取水は、赤穂の北東約7kmに位置する千種川中流域から行われ、切山隧道を通して水を引き入れた。城の北側約600mに設けられた「こし場」と呼ばれる浄水施設では、炭などを用いた浄化が施され、その後木製の樋によって地中の配水管へと導かれ、城内や城下の各所へ分岐された。
この上水道は昭和19年(1944)12月まで使用され、現在も一部が農業用水として活用されている。遺構は市内各所に点在し、本丸跡には構造を伝える復元モニュメントも整備されている。
江戸の神田、広島の福山と並んで「日本三大上水道」の一つに数えられる赤穂の上水道は、水利に恵まれない土地に生きた人々の技術と知恵を今に伝えている。
赤穂城の学びに役立つ本と資料
『赤穂城攻略本』(赤穂市教育委員会)、『本丸庭園』(赤穂市教育委員会)が良い。内容は赤穂城の縄張りなど城についてと、赤穂義士について。中でも縄張りについては最近の発掘調査にかなり詳細に書かれていておすすめ。城下の地積図も。現地では、赤穂市立歴史博物館へどうぞ。赤穂といえば「赤穂城」「赤穂義士」「上水道」「塩」の4つ。それぞれ詳しく知るには良い。
赤穂城の撮影スポット
赤穂城には、東向きと西向きの城門がある。東向きに位置するのは、現在の正面玄関にあたる三之丸大手隅櫓と櫓門、厩口門、刎橋跡などで、午前中に光がよく回る。午後の撮影に適しているのは、本丸門とその櫓門、御殿跡、そして天守台となる。
なかでも、厩口門などの水堀越しの構図は、水面に建物を映し込むリフレクションが狙えるため、風のない早朝の時間帯がとくにおすすめだ。静けさのなかに映り込む城郭の姿は、印象的な一枚を導いてくれる。なお、真夏は、堀の水面が緑の植物で覆われてしまい、水堀と映らないため、絵的に難しい。
赤穂城の写真集
城郭カメラマン撮影の写真で探る赤穂城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。赤穂城周辺の史跡を訪ねて
赤穂城の石垣や堀を歩いたあとは、周辺に点在する歴史の舞台にも足を伸ばしたい。義士たちを今に伝える神社、そして城下を支えた塩づくりの記憶が、静かに息づいている。
赤穂大石神社 ― 義士を祀る、城下の精神的な中心地
赤穂大石神社は、大石内蔵助良雄と四十七義士を主祭神とし、明治33年(1900)に創建が許され、大正元年(1912)11月3日に三之丸の大石邸跡に社殿が建てられた。社殿は義士ゆかりの地に鎮座している。
祭神には、大石良雄以下の四十七義士に加え、討ち入り前に自刃した萱野三平も含まれている。また、浅野家三代と森家歴代七名も合祀され、赤穂藩ゆかりの人物が広く祀られている。
境内には義士宝物殿と義士木像奉安殿があり、宝物殿では遺品や書状、受領品などが展示され、木像奉安殿では昭和28年(1953)に奉納された、四十七義士と大石良雄、萱野三平を含む木像49体が展示されている。宝物殿の建物は昭和51年(1976)に湊川神社から移築されたものが使用されている。毎年12月14日の赤穂義士祭には義士の霊を慰める行事が行われ、現在も地域に根づいた歴史社として親しまれている。
日本一の塩を生んだまち ― 赤穂の塩田と「塩の国」
赤穂は、千種川の河口に広がる干潟と、瀬戸内海の穏やかな海況、年間を通じて日照が多い気候条件により、製塩に適した土地とされてきた。正保2年(1645)に入封した浅野長直のもと、入浜式塩田の大規模な開発が始まり、元禄期には東浜・西浜を合わせて約150haに達したとされている(幕末には最大400haまで拡大)。赤穂の塩は品質の高さから「赤穂塩日本第一也」と称された。
当時は塩納屋や関係役人による管理体制が整えられ、藩の財政を支える基幹産業として発展した。明治時代に入ると、赤穂には塩務局が設置され、引き続き国内製塩の拠点として位置づけられた。
現在では、赤穂市立海洋科学館に併設された「塩の国」において、揚浜式・入浜式・流下式の三方式の復元塩田を見ることができる。施設では釜焚きの実演や製塩用具の展示も行われ、江戸時代から近代にかけての技術や工程を学ぶことができる。
また、隣接する赤穂海浜公園の一角には、かつての塩田跡の地形がそのまま残されており、当時の景観をしのばせる場として整備されている。赤穂の塩づくりは、地域の歴史と文化を伝える産業遺産として、現在も多くの人々に親しまれている。
近郊の城
赤穂城周辺のおすすめ名物料理
塩と海が育んだ味を堪能 ― 赤穂城下で味わう名物料理
赤穂城の散策を終えたなら、ぜひ味わいたいのが、瀬戸内の恵みを活かしたご当地料理。その代表格が「穴子料理」である。赤穂といえば穴子が名物とされており、とくに「あなご弁当」や「穴子重」として提供される一品が人気を集めている。
蒸し上げた穴子を軽く炙り、ふっくらとした食感を引き出してから、香ばしいタレとともにご飯に載せた構成で、弁当形式でも店内提供でも内容に大きな違いはない。地元の駅売店や定食店のほか、観光施設内の飲食コーナーでも広く取り扱われており、旅の合間に気軽に味わえる。旬は夏、なかでも8月がもっとも脂がのって美味とされる。また、赤穂の多くの飲食店は午後2時から5時の間に中休みを取るため、時間帯には注意したい。
冬の味覚としては、坂越産の真牡蠣を用いた「牡蠣料理」も見逃せない。焼き牡蠣や土手鍋、牡蠣フライなど、海の幸を活かした多彩な調理が人気を博している。
通年で楽しめる味としては「播州赤穂塩ラーメン」がある。赤穂産の塩を用いた澄んだスープに、鶏ガラや魚介の旨味を重ねたこの一杯は、あっさりとしながらも奥行きがあり、旅の締めくくりにもふさわしい。「赤穂らーめん 麺坊」または「天馬らぁめん赤穂総本店」で。
海と塩のまち、赤穂。その風土が育んだ味わいを、歴史ある城下町の空気とともに、じっくり味わいたい。
赤穂城のアクセス・所在地
所在地
住所:兵庫県赤穂市加里屋1278 赤穂城跡公園 [MAP] 県別一覧[兵庫県]
電話:0791‑43‑6962(赤穂市教育委員会文化財課)
電話:0791‑42‑2602(一般社団法人 赤穂観光協会)
- 赤穂城公式サイト国史跡 赤穂城跡(赤穂市)
アクセス
鉄道利用
JR赤穂線、播州赤穂駅下車、南へ徒歩13分(約1km)。駅前にレンタルサイクル有り。このあたり電車は上りが1時間に2本、下りは1時間に1本。帰りの時間のチェックも忘れずに。
マイカー利用
山陽自動車道、赤穂ICから、県道96号線経由、約4km。大石神社を目指す。
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
赤穂城に寄せて
これまでに届いた声:全6件

忠臣蔵で有名な播州赤穂城。本丸の整備が進んでいます。三の丸にある大石神社や大石内蔵助の屋敷跡には、団体客が溢れていますが、本丸まで訪れる観光客はまばら。復元されたばかりの櫓門、天守台から城跡全体が眺められる。本丸は「お城FAN」にとっては最高。
( 中西 徹)さんより
「近藤源八宅跡長屋門」の男子トイレは、江戸期のいわゆる男子トイレがあります。立ってするほうの。「近藤源八宅跡長屋門」は平成11年に整備されていますがこのトイレの屋根の軒瓦のみ当時のものだそうです。
( 半兵衛)さんより
本丸櫓門は、平成4年〜8年に6,700万円をかけ復元された門で2つの門からなる枡形虎口一式の復元です。樹齢600年の檜を使い復元したせいか、風格があり昔からある門に見えてしまいます。ちなみに虎口の二の門ですが多聞になってまして、その内部が公開されていました(2000年現在)。内部では主に本丸庭園の発掘の様子など展示されていました。
( 半兵衛)さんより
本丸門をくぐると昭和58年までは高校があったエリアに本丸御殿の間取りと庭園が再現されていて、その規模などが体感できます。なかなか狭い部屋なのね。2001年に2,000万円をかけ廐門を復元、その他、大手門内の虎口石垣も整備。2001年現在は門前の「大石頼母屋敷跡」が発掘調査中、今後5ヶ年計画で30億円の費用をかけ整備にかかるのだとか。
( 半兵衛)さんより
石垣は赤穂の石を使用。石に斑点があるのがその特徴で、その斑点があるために灯籠などに使えないらしい…。また、大手門内に2001年に復元された虎口の石垣には、コーナー部にカーブを用いる鎬積と呼ばれる全国でもここだけの珍しい工法とのこと。
( 半兵衛)さんより
赤穂城と龍野城は、姫路城の東を守る防衛ラインで支城的な役割といっていい。余談ながらここからJR在来線は、岡山までずいぶん田舎を走ることになるという印象で主だった都市が無い。経済圏の境目とも言ってよく、また、関西弁が話される西の境目ともいう。
( shirofan)さんより