赤穂城は、寛文元年(1661)に浅野長直が加里屋城跡を拡張して築いた海岸平城です。甲州流軍学を取り入れた独特の縄張りと、石垣や水堀、国名勝・旧赤穂城庭園などが見どころで、忠臣蔵ゆかりの城としても知られています。このページでは、赤穂城の歴史や特徴、現地に残る遺構や撮影の見どころを、美しい写真とともに紹介します。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
赤穂城の歴史・見どころ
赤穂城の歴史
赤穂城(あこうじょう)が築かれる以前、この地には関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600)、三河国吉田城から播磨国へ入封した池田輝政が築いた「掻上城(かきあげじょう)」があった。赤穂は備前国との国境に位置し、瀬戸内海に面した交通・軍事の要衝であったことから、池田氏は弟・長政を配置し、その後は忠継、政綱、輝興へと受け継がれた。また、上水道や町割の整備も進められ、後の赤穂城下町の基盤が築かれた。
正保2年(1645)、池田輝興が改易となると、常陸国笠間城から浅野長直が5万3,500石で入封した。入封当時の掻上城は近世大名の居城としては手狭で、藩政の中心を担うには十分ではなかったことから、長直は新たな城郭の築城を決断した。慶安元年(1648)に幕府へ築城願を提出して許可を得ると、甲州流軍学者・近藤三郎左衛門正純が縄張りを担当し、13年余りの歳月をかけて寛文元年(1661)に赤穂城を完成させた。
築城と並行して進められたのが塩田の開発であった。浅野氏は入封直後から東浜をはじめとする干拓事業を積極的に進め、塩業を藩の基幹産業へと育て上げた。その収益は築城や城下町整備の財源となり、職人町の移転や侍屋敷の整備、花岳寺門前の町づくりなど、計画的な都市整備が進められた。赤穂城は塩業によって支えられた城下町の中心として築かれ、城と城下町が一体となって発展していった。
赤穂城は近世城郭史上でも特異な存在として知られる。縄張りは甲州流軍学に基づき、本丸・二之丸を輪郭式、二之丸と三之丸を梯郭式とする変形輪郭式を採用した。築城途中には軍学者・山鹿素行が浅野家へ迎えられ、二之丸虎口の枡形を改変したとの伝承も残る。近年の発掘調査では、その伝承を裏付ける可能性のある遺構も確認されており、甲州流軍学と山鹿流軍学の思想が城郭へ反映された数少ない例として注目されている。
完成した赤穂城は、千種川河口のデルタ上に築かれた海岸平城で、本丸東南隅には天守台が築かれた。しかし、天守は最後まで築かれなかった。財政事情に加え、天下泰平の時代となって天守の軍事的役割が薄れていたことも、その背景の一つとされる。
浅野家は長直、長友、長矩の三代にわたり赤穂藩を治めた。この時代には塩業の発展とともに城下町も大きく繁栄し、元禄年間には最盛期を迎えた。しかし、元禄14年(1701)、三代藩主・浅野長矩が江戸城松之廊下で吉良義央に刃傷に及び、即日切腹となって浅野家は断絶した。同年4月には赤穂城が開城され、翌元禄15年(1702)の赤穂浪士による吉良邸討入りは、後に「忠臣蔵」として広く語り継がれることとなった。
その後は、下野国烏山城から永井直敬が3万3,000石で入封し、宝永3年(1706)には備中国西江原から森長直が2万石で入封した。森氏は明治維新まで12代にわたり赤穂藩を治め、塩業の発展を背景に藩政を維持した。西浜の新塩田開発や江戸・大坂への販路拡大によって赤穂の塩は全国へ広まり、藩の経済を支える重要な産業となった。
明治維新後、赤穂城は廃城となり、御殿や櫓、門などの建物は取り壊された。河川改修や学校建設によって一部の遺構も失われたが、昭和46年(1971)に国史跡へ指定されると、本格的な保存整備が進められた。現在は石垣や堀、旧赤穂城庭園などが良好な状態で保存され、近世中期の軍学理論を具現化した海岸平城として高く評価されている。忠臣蔵ゆかりの城としても広く知られ、今なお多くの人が訪れている。
赤穂城の特徴と構造
赤穂城は、千種川河口のデルタに築かれた変形輪郭式の海岸平城で、城域は約14.7haに及ぶ。縄張りは甲州流軍学者・近藤正純が担当し、本丸と二之丸を輪郭式、二之丸と三之丸を梯郭式とする独特の構成を採用した。さらに築城途中には山鹿素行が二之丸虎口周辺の縄張りを改めたと伝えられ、近年の発掘調査でもそれを示唆する遺構が確認されている。近世中期の軍学理論を具体化した城郭として高く評価される理由は、この縄張りにもある。
本丸には御殿や庭園が設けられ天守台が築かれたが、天守は最後まで建てられなかった。城内には10基の櫓と12の門が配置され、本丸・二之丸・三之丸を枡形虎口と石垣、水堀によって厳重に守る構造となっていた。一方で、城の外周に総堀を設けず、東側は千種川、西側は塩田内を流れる水尾(旧河道)を天然の外堀として利用した点も特徴である。また、二之丸南西側は満潮時には海水が石垣際まで達し、東側は千種川の水が流れ込むなど、水辺の地形を巧みに防御へ取り入れていた。
現在は天守台や石垣、堀が良好に残るほか、本丸櫓門や大手門、大手隅櫓などが復元され、往時の城郭景観を伝えている。また、本丸庭園・二之丸庭園は国名勝「旧赤穂城庭園」に指定されており、近世大名庭園としても高い価値を持つ。
三之丸大手隅櫓と櫓門
昭和30年(1955)に大手門(高麗門)とともに再建された二重櫓。東西4間半・南北3間半の基底部をもち、大手門と枡形への監視機能を担っていた。
大石邸長屋門
江戸時代の家老・大石家三代の屋敷に属した長屋門。元禄14年(1701)の刃傷事件の際には、江戸からの使者が到着を知らせた場所としても知られる。享保14年(1729)の大火では長屋門のみ焼失を免れ、以降数度の修理を経て、昭和52年(1977)に国の史跡として全面修理・復元された。
近藤源八宅跡長屋門
三之丸に所在した赤穂藩重臣・近藤源八の邸宅跡に残る長屋門で、現在も現地に保存されている。敷地内には、江戸時代の上水道施設である「汲出枡(くみだします)」が遺構として残されており、赤穂上水道の分水設備が屋敷単位で整備されていたことが確認できる。導水路から分岐した水が、門前の汲出枡を経て各家に給水されていた構造を今に伝える。
本丸門と本丸櫓門
枡形構造を備えた本丸の正門。外側に高麗門、内側に櫓門が置かれる形で、平成8年(1996)に絵図と発掘調査に基づいて復元された。より曲がりにくくするため、一ノ門の角度が二ノ門(櫓門)に対して平行ではなく、より通りにくく横矢がかけやすい角度に設置されている。
本丸跡 ― 御殿跡と大池泉跡
本丸には藩政の中心となる御殿が置かれていた。昭和後期から行われた発掘調査により、建物の間取りや礎石、庭園の池泉跡が確認され、整備が進められた。庭園部分は平成元年(1989)までに復元され、御殿跡全体については平成10年(1998)に礎石や間仕切跡の整備が完了した。現在は平面的に間取りが再現され、庭園跡とともに公開されている。
天守台跡
天守台は本丸の南東寄りに築かれており、規模は東西約14.5m、南北約16.4m、高さ約9.5mで、切石を用いた精緻な石垣で構成されている。江戸時代を通じて天守そのものは築かれなかったが、天守台は寛文年間の築城当初からとされる。
厩口門
本丸の東側に復元された門。もとは藩主の馬を出入りさせるための門で、「厩口門」と呼ばれ現存の門は平成13年(2001)に再建された。門の南側石垣は横矢枡形を形成し、曲線的な構造が珍しい。
刎橋跡
本丸の南側、堀を隔てて対岸とつながっていた木橋の跡。古絵図や発掘調査によって、かつて刎橋(はねばし)が架けられていた。戦時には橋を上げて通行を遮断できる構造で、防御上の工夫が見てとれる。現在は橋そのものは残っていないが、両岸の橋台部分が遺構として保存されており、往時の構造をうかがうことができる。
突堤跡
水濠に突き出す形で築かれた突堤が発掘調査により確認されており、防御・海からの荷揚げの機能を持つ構造と考えられている。
二之丸庭園
本丸庭園に続いて整備が進められた二之丸庭園は、平成14年(2002)に国の名勝に指定され、平成28年には一部が公開された。
水は城を支え、町を潤した ― 日本三大上水道のひとつ、赤穂の知恵
赤穂城の築かれた一帯は、千種川の河口に位置する低湿地で、井戸を掘っても塩分を含む水しか得られない土地だった。このため、生活用水を確保するには遠方からの導水が不可欠となり、導水工事は慶長19年(1614)から元和2年(1616)にかけて、代官・垂水半左衛門の指揮で始まった。当時の藩主は初代、池田政綱であり、この取り組みは後に浅野家にも受け継がれ、町屋までの給水網へと発展していった。
取水は、赤穂の北東約7kmに位置する千種川中流域から行われ、切山隧道を通して水を引き入れた。城の北側約600mに設けられた「こし場」と呼ばれる浄水施設では、炭などを用いた浄化が施され、その後木製の樋によって地中の配水管へと導かれ、城内や城下の各所へ分岐された。
この上水道は昭和19年(1944)12月まで使用され、現在も一部が農業用水として活用されている。遺構は市内各所に点在し、本丸跡には構造を伝える復元モニュメントも整備されている。
江戸の神田、広島の福山と並んで「日本三大上水道」の一つに数えられる赤穂の上水道は、水利に恵まれない土地に生きた人々の技術と知恵を今に伝えている。
赤穂城の整備状況
明治維新後、赤穂城は廃城となり、御殿や櫓、門などの建物は取り壊され、城地の多くは民有地となった。しかし、大正時代になると城郭保存の機運が高まり、大正元年(1912)には三之丸に大石神社、大正14年(1925)には二之丸に山鹿素行銅像が建立された。昭和3年(1928)には本丸内に赤穂中学校(後の赤穂高等学校)が建設されたものの、昭和15年(1940)の風致地区指定、昭和27年(1952)の都市公園計画決定を経て、昭和46年(1971)には赤穂城跡が国史跡に指定され、本格的な保存・整備が進められた。さらに平成14年(2002)には、本丸庭園・二之丸庭園からなる旧赤穂城庭園が国名勝に指定され、史跡と庭園を一体的に保存・活用する整備が継続して行われている。現在は大手門と大手隅櫓、本丸門、厩口門などが復元され、石垣や堀、庭園とともに往時の城郭構造を伝えている。
参考文献:
- 『日本城郭大系12』(新人物往来社)
- 国史跡 赤穂城跡公式Webサイト」(赤穂市教育委員会)
赤穂城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット
『赤穂城攻略本』(赤穂市教育委員会)が良い。内容は赤穂城の縄張りなど城についてと、赤穂義士について。中でも縄張りについては最近の発掘調査にかなり詳細に書かれていておすすめ。城下の地積図も。現地では、赤穂市立歴史博物館へどうぞ。赤穂といえば「赤穂城」「赤穂義士」「上水道」「塩」の4つ。それぞれ詳しく知るには良い。
赤穂城の撮影スポット・絶景ポイント
赤穂城には、東向きと西向きの城門がある。東向きに位置するのは、現在の正面玄関にあたる三之丸大手隅櫓と櫓門、厩口門、刎橋跡などで、午前中に光がよく回る。午後の撮影に適しているのは、本丸門とその櫓門、御殿跡、そして天守台となる。
なかでも、厩口門などの水堀越しの構図は、水面に建物を映し込むリフレクションが狙えるため、風のない早朝の時間帯がとくにおすすめだ。静けさのなかに映り込む城郭の姿は、印象的な一枚を導いてくれる。なお、真夏は、堀の水面が緑の植物で覆われてしまい、水堀と映らないため、絵的に難しい。
赤穂城の写真(城写真ARCHIVE)
城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、赤穂城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。
赤穂城周辺の観光スポット・史跡めぐり
赤穂城の石垣や堀を歩いたあとは、周辺に点在する歴史の舞台にも足を伸ばしたい。義士たちを今に伝える神社、そして城下を支えた塩づくりの記憶が、静かに息づいている。
赤穂大石神社 ― 義士を祀る、城下の精神的な中心地
赤穂大石神社は、大石内蔵助良雄と四十七義士を主祭神とし、明治33年(1900)に創建が許され、大正元年(1912)11月3日に三之丸の大石邸跡に社殿が建てられた。社殿は義士ゆかりの地に鎮座している。
祭神には、大石良雄以下の四十七義士に加え、討ち入り前に自刃した萱野三平も含まれている。また、浅野家三代と森家歴代七名も合祀され、赤穂藩ゆかりの人物が広く祀られている。
境内には義士宝物殿と義士木像奉安殿があり、宝物殿では遺品や書状、受領品などが展示され、木像奉安殿では昭和28年(1953)に奉納された、四十七義士と大石良雄、萱野三平を含む木像49体が展示されている。宝物殿の建物は昭和51年(1976)に湊川神社から移築されたものが使用されている。毎年12月14日の赤穂義士祭には義士の霊を慰める行事が行われ、現在も地域に根づいた歴史社として親しまれている。
日本一の塩を生んだまち ― 赤穂の塩田と「塩の国」
赤穂は、千種川の河口に広がる干潟と、瀬戸内海の穏やかな海況、年間を通じて日照が多い気候条件により、製塩に適した土地とされてきた。正保2年(1645)に入封した浅野長直のもと、入浜式塩田の大規模な開発が始まり、元禄期には東浜・西浜を合わせて約150haに達したとされている(幕末には最大400haまで拡大)。赤穂の塩は品質の高さから「赤穂塩日本第一也」と称された。
当時は塩納屋や関係役人による管理体制が整えられ、藩の財政を支える基幹産業として発展した。明治時代に入ると、赤穂には塩務局が設置され、引き続き国内製塩の拠点として位置づけられた。
現在では、赤穂市立海洋科学館に併設された「塩の国」において、揚浜式・入浜式・流下式の三方式の復元塩田を見ることができる。施設では釜焚きの実演や製塩用具の展示も行われ、江戸時代から近代にかけての技術や工程を学ぶことができる。
また、隣接する赤穂海浜公園の一角には、かつての塩田跡の地形がそのまま残されており、当時の景観をしのばせる場として整備されている。赤穂の塩づくりは、地域の歴史と文化を伝える産業遺産として、現在も多くの人々に親しまれている。
赤穂城周辺グルメ・名物料理
塩と海が育んだ味を堪能 ― 赤穂城下で味わう名物料理
赤穂城の散策を終えたなら、ぜひ味わいたいのが、瀬戸内の恵みを活かしたご当地料理。その代表格が「穴子料理」である。赤穂といえば穴子が名物とされており、とくに「あなご弁当」や「穴子重」として提供される一品が人気を集めている。
蒸し上げた穴子を軽く炙り、ふっくらとした食感を引き出してから、香ばしいタレとともにご飯に載せた構成で、弁当形式でも店内提供でも内容に大きな違いはない。地元の駅売店や定食店のほか、観光施設内の飲食コーナーでも広く取り扱われており、旅の合間に気軽に味わえる。旬は夏、なかでも8月がもっとも脂がのって美味とされる。また、赤穂の多くの飲食店は午後2時から5時の間に中休みを取るため、時間帯には注意したい。
冬の味覚としては、坂越産の真牡蠣を用いた「牡蠣料理」も見逃せない。焼き牡蠣や土手鍋、牡蠣フライなど、海の幸を活かした多彩な調理が人気を博している。
通年で楽しめる味としては「播州赤穂塩ラーメン」がある。赤穂産の塩を用いた澄んだスープに、鶏ガラや魚介の旨味を重ねたこの一杯は、あっさりとしながらも奥行きがあり、旅の締めくくりにもふさわしい。「赤穂らーめん 麺坊」または「天馬らぁめん赤穂総本店」で。
海と塩のまち、赤穂。その風土が育んだ味わいを、歴史ある城下町の空気とともに、じっくり味わいたい。
赤穂城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:兵庫県赤穂市加里屋1278 赤穂城跡公園 [地図を見る]
県別一覧:[兵庫県の城]
電話:0791‑43‑6962(赤穂市教育委員会文化財課)
電話:0791‑42‑2602(一般社団法人 赤穂観光協会)
- 赤穂城公式サイト国史跡 赤穂城跡(赤穂市)
アクセス
鉄道利用
JR赤穂線、播州赤穂駅下車、南へ徒歩13分(約1km)。駅前にレンタルサイクル有り。このあたり電車は上りが1時間に2本、下りは1時間に1本。帰りの時間のチェックも忘れずに。
マイカー利用
山陽自動車道、赤穂ICから、県道96号線経由、約4km。大石神社を目指す。
地図
掲載写真・記事は、現地調査・撮影・記録をもとに作成しています。
赤穂城:城ファンの知見と記録
赤穂城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全6件)。







赤穂城と龍野城は、姫路城の東を守る防衛ラインで支城的な役割といっていい。余談ながらここからJR在来線は、岡山までずいぶん田舎を走ることになるという印象で主だった都市が無い。経済圏の境目とも言ってよく、また、関西弁が話される西の境目ともいう。
記録:shirofan 2020
石垣は赤穂の石を使用。石に斑点があるのがその特徴で、その斑点があるために灯籠などに使えないらしい…。また、大手門内に2001年に復元された虎口の石垣には、コーナー部にカーブを用いる鎬積と呼ばれる全国でもここだけの珍しい工法とのこと。
記録:半兵衛 2001
本丸門をくぐると昭和58年までは高校があったエリアに本丸御殿の間取りと庭園が再現されていて、その規模などが体感できます。なかなか狭い部屋なのね。2001年に2,000万円をかけ廐門を復元、その他、大手門内の虎口石垣も整備。2001年現在は門前の「大石頼母屋敷跡」が発掘調査中、今後5ヶ年計画で30億円の費用をかけ整備にかかるのだとか。
記録:半兵衛 2001
本丸櫓門は、平成4年〜8年に6,700万円をかけ復元された門で2つの門からなる枡形虎口一式の復元です。樹齢600年の檜を使い復元したせいか、風格があり昔からある門に見えてしまいます。ちなみに虎口の二の門ですが多聞になってまして、その内部が公開されていました(2000年現在)。内部では主に本丸庭園の発掘の様子など展示されていました。
記録:半兵衛 2000
「近藤源八宅跡長屋門」の男子トイレは、江戸期のいわゆる男子トイレがあります。立ってするほうの。「近藤源八宅跡長屋門」は平成11年に整備されていますがこのトイレの屋根の軒瓦のみ当時のものだそうです。
記録:半兵衛 2000
忠臣蔵で有名な播州赤穂城。本丸の整備が進んでいます。三の丸にある大石神社や大石内蔵助の屋敷跡には、団体客が溢れていますが、本丸まで訪れる観光客はまばら。復元されたばかりの櫓門、天守台から城跡全体が眺められる。本丸は「お城FAN」にとっては最高。
記録:中西 徹 1997