新発田城は、新発田氏の居城を前身とし、慶長3年(1598)に溝口秀勝が築城を始めた平城。新発田川や低湿地を防御に生かし、三匹の鯱を掲げる三階櫓を特徴とする。現在は本丸表門と旧二の丸隅櫓が現存し、水堀越しの城景も美しい。このページでは歴史や構造、遺構、撮影スポット、周辺歴史スポット、アクセスを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
新発田城の歴史・見どころ
新発田城の歴史
新発田城(しばたじょう)は、鎌倉時代初期に加地庄へ入った佐々木加治氏の庶流・新発田氏が、新発田川中流の地を本拠として築いた城を前身とする。戦国期、新発田氏は阿賀野川以北で勢力を伸ばし、上杉謙信の代にはこれに服属した。新発田長敦は謙信の側近として内政・外交にも携わり、弟の重家も武将として活躍した。
天正6年(1578)、謙信が急逝すると、後継をめぐって景勝と景虎が争う御館の乱が起こった。新発田氏は景勝方につき、長敦は景虎救援のため越後へ軍を進めていた武田勝頼との和平交渉を成功させた。弟の重家もこの争いで武功を挙げ、その働きは景勝が自ら書状をしたためるほど高く評価された。しかし、乱後の論功行賞では新発田一族に恩賞が与えられなかった。天正7年(1579)に長敦が病死すると、名跡を継いだ重家は景勝に反旗を翻した。
重家は織田信長と結んで景勝と対立し、信長勢が景勝の居城、春日山城近くまで迫るなど、景勝を窮地に追い込んだ。しかし、天正10年(1582)の本能寺の変によって情勢は一変する。信長勢が越後から引き揚げると、景勝はその後、豊臣秀吉に臣従して越後平定を命じられた。
天正15年(1587)、景勝方は重家討伐を進め、9月に加地城、赤谷城、10月24日に五十公野城を攻略した。翌25日には重家の本拠・新発田城も落城し、重家は討たれ、新発田氏はここに滅亡した。
慶長3年(1598)、上杉景勝の会津移封に伴い、溝口秀勝が加賀大聖寺城から越後へ移され、6万石を与えられて新発田に入封した。秀勝は五十公野に館を置き、新発田重家時代の城跡を取り込んで新たな新発田城の築城を開始した。
新城は重家時代の城を取り込みながら、その数倍に及ぶ規模で築かれた。築城は秀勝の代だけでは終わらず、約50年をかけて三代宣直の時代に完成し、その後も大火や老朽化に伴って修復・再建が重ねられた。
幕末には戊辰戦争の戦火が越後にも及び、新発田藩はいったん奥羽列藩同盟に加盟したが、明治元年(1868)7月に新政府軍へ合流した。明治4年(1871)の廃藩置県、明治6年(1873)の城郭破却令を経て、新発田城は本丸の一部を残して破却され、本丸と二の丸の一部には歩兵第十六連隊が置かれた。
新発田城の特徴と構造
新発田城は、新発田川が形成した三角洲上の平城で、城域は東西約1000m、南北約600mに及んだ。新発田川の本流と支流を外堀に利用し、周囲の低湿地や沼沢地も防御に取り込んでいた。西端に不整五辺形の本丸を置き、その東・南・西側を二の丸が囲み、さらに東へ三の丸が延びる縄張りをとった。大手は東側に設けられ、二の丸中ノ門、本丸表門も東を向いていた。
主要な入口には枡形虎口を設け、防御上の弱点となる榎門の前面にも櫓を配置して守りを固めた。本丸の東から北側には細長い帯郭が鉤形に延び、その両端から二の丸へ通じていた。二の丸の「古丸」と呼ばれた一画は、新発田重家時代の本丸跡と推測されている。
本丸には四周に櫓が配され、西南隅には実質的な天守となる三階櫓が置かれた。この場所には築城当初、二層のいぬい櫓が建っていたが、のちに三階櫓へ再建された。三階櫓は屋根の棟が丁字形をなし、その棟先に三匹の鯱を掲げる独特の姿を特徴とした。現在の三階櫓は平成16年(2004)に復元された。
また、新発田城は石垣の印象が強いものの、石垣が用いられたのは本丸の一部で、二の丸・三の丸を含む大部分は土塁によって囲まれていた。現在は本丸表門と旧二の丸隅櫓が現存し、本丸東側・南側の石垣と堀、帯郭南側の土橋門付近には土塁が残る。





新発田城の整備状況
明治6年(1873)の城郭破却令を経て、新発田城は本丸の一部を残して破却され、本丸と二の丸の一部には歩兵第十六連隊が置かれた。現在も旧本丸跡は陸上自衛隊新発田駐屯地の敷地となっている。本丸表門と旧二の丸隅櫓は国指定重要文化財として現存する。
新発田市は平成11年度(1999)から城跡の調査・実施設計を進め、平成16年(2004)に三階櫓と辰巳櫓を復元した。さらに令和6年度(2024)には「新発田城土橋門復元整備基本計画」が策定され、土橋門の復元に向けた取り組みも進められている。
三階櫓は自衛隊敷地内にあるため通常は内部を見学できないが、三階櫓の資料は、辰巳櫓、表門内に展示されている。令和8年(2026)4月には新発田市内在住者を対象に、12年ぶりとなる内部の特別公開が行われた。また、新発田駐屯地のイベントに参加することで、通常とは異なる角度から三階櫓の外観を望むことができる。
参考文献:
- 『日本城郭大系7』(新人物往来社)
- 「新発田城の復元について」(新発田市)
- 「令和7年度第12回定例記者会見資料」(新発田市)
新発田城の撮影スポット・絶景ポイント
新発田城の本丸表門、旧二ノ丸隅櫓、辰巳櫓は本丸南側に並び、水堀越しに撮影できる。風のない日には、水面に櫓や門が映り込む姿を狙いたい。三階櫓は西向きのため、晴天なら午後の撮影がおすすめだ。桜、新緑、紅葉、雪と、四季を通じて美しい城景を楽しめる。
新発田城の写真(城写真ARCHIVE)
城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、新発田城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。
新発田城周辺の観光スポット・史跡めぐり
清水園
新発田藩主・溝口家の下屋敷として造営された武家屋敷で、近江八景を取り入れた池泉回遊式庭園が広がる。書院や庭園を通して、新発田藩の大名文化に触れられる国指定名勝。
足軽長屋
新発田藩の足軽が暮らした江戸時代の長屋で、茅葺屋根の建物が現存する。新発田城下における下級武士の暮らしを伝える貴重な遺構で、国の重要文化財に指定されている。
新発田城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:新潟県新発田市大手町6丁目 [地図を見る]
県別一覧:[新潟県の城]
電話:0254-22-9534(新発田市文化行政課)
- 新発田城(公式ページ)(新発田市)
開館情報
「本丸表門」「旧二ノ丸隅櫓」「辰巳櫓」の公開期間は4月~11月、9時~17時(11月は16時30分まで)。休館日なし(冬期閉鎖期間を除く)、入場料無料。
※12月~3月下旬は冬期閉鎖。冬期閉鎖期間中は閉門するため構内の見学不可、外観のみ観ることができる。積雪状況により3月下旬から公開を開始する場合有り。「三階櫓」は内部非公開。
アクセス
鉄道利用
JR羽越本線・白新線「新発田駅」下車、徒歩20分。
マイカー利用
日本海東北自動車道「聖籠新発田IC」から、約15分。新発田城址公園駐車場を利用する(無料10台)。
地図
掲載写真・記事は、現地調査・撮影・記録をもとに作成しています。
新発田城:城ファンの知見と記録
新発田城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全5件)。
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国の重要文化財に指定されている旧二の丸隅櫓では、令和8年(2026)7月24日から令和9年(2027)2月5日まで保存修理工事が行われている。南面の漆喰やなまこ壁、建具の補修、耐震補強などを行う。工事に伴い、令和8年(2026)7月24日から11月30日までは旧二の丸隅櫓へ入城できない。
記録:shirofan 2026
ここのボランティアガイドさんは、説明がうまく、聞きたい内容に的確に答えてくれる人ばかりで、レベル高いと感じました。赤穂四十七士のひとり、堀部安兵衛は、新発田の生まれだそうな。
記録:たたら 2006
本丸鉄砲櫓の位置に移築された「二の丸隅櫓」と「本丸表門」が現存し、本格木造復元の「辰巳櫓」と「三階櫓」がある。「三階櫓」は自衛隊の敷地にあるため非公開だが、その他は、毎年4月1日〜11月30日まで無料公開されている。見るべき4点セットなり。
記録:半兵衛 2006
平成16年7月本格復元がなった辰巳櫓と三階櫓。特に三階櫓に載る三匹の鯱は全国唯一です。国重文の表門・旧二の丸隅櫓の他全長350メートルの切込みはぎ布積みの石垣は見事です。
記録:諸橋 晃 2005
本丸はというと…門の中に一歩入るとアレッ!?敷地は縦7乃至8メートル横30乃至40メートルの長方形の範囲内のみ。残りの城郭跡地は陸上自衛隊新発田駐屯地、お城関連の本に載っている本丸表門は写真の通りだが、映画用の建物?明治維新時に旧物破却の風潮が全国を覆い、ここ新発田城も!嗚呼お前もか、の嘆かわしい気持ちになるけれど、その他櫓などもあり一見の価値有りです。
記録:青柳 光宏 2002