写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
平林城周辺の史跡を訪ねて
支城の上関城、本庄氏の居城だった村上城など。
[越後守 (2002.10.29)]
平林城のアクセス・所在地
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
平林城に寄せて
これまでに届いた声:全3件

写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
支城の上関城、本庄氏の居城だった村上城など。
[越後守 (2002.10.29)]
※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。
これまでに届いた声:全3件
詰の城(要害山)の裾野にある居館の土塁は、よく残っており、比高3mぐらいあり、感嘆せずにはいられない。国の史跡にも指定されているが、訪れる人も少ない。私が訪れたなかでは、土塁のすばらしさは、3本の指にはいる。要害山までは、居館から徒歩1時間。
( 田村靖典)さんより
南北朝期までは、小泉庄被官であった平林内蔵介の居城であったが、南朝・新田義貞方に着いた平林氏を秩父平氏系の本庄氏の一族である色部氏が攻め滅ぼしてその居館とした。要害部は「加護山城」と呼ばれ、戦国中期まで使われた。色部氏は揚北衆と呼ばれた国人領主の中でも実力者で、同族の本庄氏とともに揚北(阿賀野川北岸地域)の実力者にのし上がった。永正の大乱(永正4〜11、1507-1514)では、守護代の長尾為景と対立し、永正5(1508)年には平林城を攻められ落城、降伏して長尾氏に帰属した。色部勝長は川中島合戦等でも戦功を揚げ、謙信から「血染めの感状」を与えられている。その勝長は同族・本庄氏の謀叛鎮圧のため永禄11(1568)年、本庄城合戦で陣没した。慶長3(1598)年、上杉氏の会津移封により廃城。
( 越後守)さんより
「揚北衆」色部氏の代々の居城。居館、要害ともよく残っています。特に戦国期に館城として拡張された居館は枡形や土塁、折歪みのある土塁などがあり、根古屋式山城の様子を非常によくうかがうことができます。山登りがちょっとしんどい、という人でも、居館部分だけでも満足できるお城です。
( 越後守)さんより