音羽城は、応仁・文明年間(1467~1487)頃に蒲生貞秀が築いたとされる山城で、戦国時代前半には蒲生氏の本拠となった。日野川南岸の丘陵上に築かれ、千種越を経て東海道へ通じる道を見守った要衝でもある。現在は公園として整備される一方、堀切や土塁、井戸跡など中世山城の遺構が残る。本ページでは音羽城の歴史や見どころ、現地の様子を写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
音羽城の歴史・見どころ
音羽城の歴史
音羽城(おとわじょう)は、現在の日野町音羽に所在する中世山城で、戦国時代前半における蒲生氏の本拠として知られる。築城時期は明確ではないが、遺構の特徴などから、応仁・文明年間(1467~1487)に蒲生貞秀によって築かれたと考えられている。
蒲生氏は鎌倉時代以前から日野周辺に勢力を有した在地領主で、室町時代には近江守護六角氏の有力被官として成長した。貞秀は「知閑入道」とも呼ばれ、蒲生氏中興の祖として知られている。音羽城は日野川南岸の丘陵上に築かれ、千種越を経て東海道へ通じる交通路を押さえる重要な拠点となった。
音羽城は戦国初期の史料にも登場する。文亀2年(1502)、六角氏重臣の伊庭氏が主家に反旗を翻した際、六角高頼は蒲生氏を頼って音羽城へ避難した。翌文亀3年(1503)には伊庭方の赤沢朝経による攻撃を受けたが、城方は約4か月に及ぶ籠城戦を耐え抜き、落城を免れた。
その後、永正11年(1514)に蒲生貞秀が没すると、嫡流の秀紀と叔父の高郷との間で家督争いが発生した。これに六角定頼が介入し、大永2年(1522)7月から音羽城への本格的な攻撃が始まった。籠城戦は翌大永3年(1523)3月まで続いたが、城内では傷病者が続出し、ついに秀紀は降伏した。六角氏は音羽城を「名城」と惜しみながらも破却し、秀紀は鎌掛城へ退去したと伝わる。
この落城によって音羽城は歴史の表舞台から姿を消し、蒲生氏の本拠は中野城へ移ったとされる。しかし近年の調査では、伝本丸跡や帯曲輪から元亀・天正年間(1570~1592)のものとみられる瓦が出土している。また、大正時代の測量図には現在より良好な遺構の状況が記録されており、戦国時代後期に再利用、あるいは再建された可能性も指摘されている。
音羽城の特徴と構造
音羽城は、日野川南岸に張り出した低丘陵上に築かれた山城で、北は日野川、東西は深い谷によって守られていた。南側のみが尾根続きとなっており、天然の地形を巧みに利用した要害だった。標高は約285m、周辺との比高は約40~50mを測る。
城域は南北に延びる主尾根を中心として構成されていたとみられ、伝本丸・二ノ丸・南丸と呼ばれる主要曲輪のほか、帯曲輪や出曲輪が配置されていた。特に南へ延びる尾根上には複数の曲輪が連続し、その間を堀切や竪堀で遮断するなど、中世山城らしい防御構造が良好に残る。
また、北側の麓へ下る通路沿いには急峻な切岸や帯曲輪を確認できるほか、伝土屋敷跡や出曲輪跡も残る。これらは敵の侵入路を段階的に防御する構造を示しており、戦国前期の実戦的な山城の姿を今に伝えている。
中心部は後世の改変によって旧状が失われたものの、周辺部には良好な遺構が残されている。蒲生氏の本拠にふさわしい規模と防御力を備えていたことが、現在も残る堀切や曲輪群からうかがえる。






音羽城の整備状況
音羽城跡は現在、公園として整備されている。明治時代以降、公園造成や日渓溜の堰堤建設、さらに土砂搬出用トロッコ軌道の敷設などが行われたため、伝本丸・二ノ丸・南丸など中心部の曲輪は大きく改変された。
一方で、南側尾根に残る出曲輪群や堀切、竪堀、北側斜面の帯曲輪や切岸などは比較的良好な状態で保存されている。近年は日野町教育委員会による調査成果をもとに案内資料の整備も進められ、城跡の構造や歴史を理解しながら見学できる環境が整えられている。
参考文献:
- 『日野町城郭GUIDE① 音羽城跡』(日野町教育委員会2022)
- 『ふるさと日野の歴史』(日野町教育委員会2016)
- 『日本城郭大系』(新人物往来社)
音羽城周辺の観光スポット・史跡めぐり
中野城(日野城)
音羽城から北西へ約2kmの場所にある中野城(日野城)は、蒲生氏が本拠を移した城として知られる。大永3年(1523)に音羽城が落城した後、蒲生氏は中野城を新たな拠点とし、戦国大名への道を歩み始めた。城域は東西約800m、南北約600mに及び、後に蒲生氏郷を生む蒲生氏発展の舞台となった城でもある。現在は土塁や堀跡が残り、また、仁正寺陣屋跡もある。音羽城とあわせて訪ねれば、戦国前期から近世へと続く日野の歴史をより深く感じられる。
音羽城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:滋賀県蒲生郡日野町音羽 [地図を見る]
県別一覧:[滋賀県の城]
電話:0748-52-1211(日野町役場)
アクセス
鉄道利用
JR琵琶湖線、近江八幡駅下車、バス60分「上音羽」降車、南へ徒歩約10分。
マイカー利用
名神高速、八日市ICから約30分(23.6km)。または、新名神高速、甲賀土山ICから北へ21分(15.4km)、音羽城の北に無料駐車場(70台)有り。なお、県道182号線を南下すると、本丸へ続く舗装林道への分岐がある。ただし、本丸まで乗り入れてしまうとUターンに苦労する。
地図
音羽城:城ファンの知見と記録
音羽城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全3件)。
音羽城でのひとときを、そっと記録に残す







音羽城は本丸周辺は公園整備されている。南側へ足を延ばすと、まず伝南丸跡の庭園推定地とされる茂みの中に井戸跡がある。また、さらに土橋を経てさらに南に足を運ぶと、伝出曲輪が堀切とともにならぶ。各曲輪は日渓溜側に土塁が設けられている。また伝説の抜け穴は興味深く、戦国期の城らしい雰囲気を感じた。音羽城と合わせ、中野城(日野城)も、蒲生氏の城としてセットで訪れたい。
記録:光秀 2026
音羽城は駐車場や案内板が整備されており、初めて訪れる人でも見学しやすい城跡でした。ポストには散策マップがあり、曲輪を確認しながら歩けるのも嬉しいところ。本丸周辺は広大な公園となっています。城跡の風景というのは、どこかのどかで印象的。のんびり散策を楽しめました。
記録:夕凪ゆく 2023
音羽城は蒲生氏が中野城を築いて移るまでの蒲生氏累代の本城。現在は、本の丸・南の丸一帯が音羽山公園になっている。城の遺構は、公園の北側(公園への進入路の終点付近)に虎口を形成している土塁、南の丸と南側の郭と間の空堀等、草が茂りだした所をかき分けて歩き回ると結構遺構が残っている。
記録:中西 1999