勝瑞城の歴史・見どころ

勝瑞城の歴史

勝瑞城(しょうずいじょう)は、室町時代から戦国時代にかけて阿波の政治・経済・文化の中心として栄えた勝瑞に築かれた城だ。建武3年(1336)、細川和氏・頼春兄弟が阿波へ入り、和氏が阿波守護となると、守護所は秋月に置かれ、その後、勝瑞へ移された。移転の時期には諸説があるが、発掘調査報告書では15世紀初め頃が有力とされている。

16世紀に入ると、細川氏を支えた三好氏が勢力を伸ばし、永正年間(1520年頃)には勝瑞に居住するようになった。大永7年(1527)の三好元長寄進状には「井隈之内勝瑞」と記され、元長が勝瑞の土地を見性寺へ寄進したことが確認できる。元長の死後、阿波では次男の三好実休が勝瑞を拠点とし、天文22年(1553)には守護・細川持隆を自害に追い込み、実権を握った。実休の死後は長治、さらに十河存保へと阿波三好家の支配が受け継がれた。こうした細川・三好氏の守護館・居館に関わる遺構が、現在の勝瑞館跡にあたる。

やがて長宗我部氏の阿波侵攻が本格化すると、勝瑞は戦いの最前線となる。天正9年(1581)には羽柴秀吉が勝瑞の防備を固めるよう命じており、この頃、現在の見性寺境内に残る勝瑞城が築かれたと考えられている。発掘調査でも、築城時の盛土の下から天正8年(1580)頃を上限とする備前焼が出土し、現在の勝瑞城跡は天正10年(1582)の長宗我部氏侵攻を目前に築かれた砦と評価されている。

天正10年(1582)8月、中富川の戦いで十河存保は長宗我部元親の軍勢に大敗した。存保はその後、約1か月にわたって勝瑞城に籠城したものの、9月には城を明け渡して讃岐へ退いた。これにより三好氏による勝瑞支配は終わり、勝瑞城もその役割を終えた。その後、元親は阿波からさらに勢力を広げ、四国をほぼ平定した。

天正13年(1585)、元親に対して伊予・讃岐の返上を求めていた豊臣秀吉は、交渉が決裂すると大軍を四国へ派遣した。元親はこれに抗しきれず降伏し、土佐一国を安堵された。四国攻め後、阿波へ入った蜂須賀家政は徳島城を築き、城下町の整備を進めた。勝瑞にあった寺院も徳島へ移され、細川氏の守護所から三好氏の本拠へと受け継がれ、長く阿波の中心地として栄えた勝瑞は急速に衰退していった。

勝瑞城の特徴と構造

勝瑞城館跡は、吉野川下流域の低平な沖積平野に位置し、旧吉野川南岸の自然堤防帯東端に広がる。周辺の平均標高は約3mで、海に近い吉野川下流域にまとまった微高地が分布する限界付近にあたる。古流路が複雑に入り、「浜」「船戸」「渡り」などの地名も残ることから、河川交通を介して畿内と結びついた中世都市が形成されていたことがうかがえる。

現在の見性寺境内にあたる勝瑞城跡は、濠を含め東西約105m、南北約90m。北西部に張り出しを持つ不整方形を呈し、現在も周囲を上幅約13mの濠で区画され、一部には土塁が残る。発掘調査では築城時に約70cmの盛土が施されていたことが確認され、土塁は基底部幅約12.5m、高さ約2.5mに達する。土塁を持たない勝瑞館跡と比べて防御性が強く、長宗我部氏の侵攻に備えて築かれた砦と評価されている。

その南西約150mには、細川・三好氏の守護館・居館に関わる勝瑞館跡が広がる。発掘調査では大規模な濠によって区画された屋敷地のほか、礎石建物跡、16世紀前葉の池泉庭園、16世紀後半の枯山水庭園などが確認され、勝瑞城と一体となった城館の姿が明らかになっている。

勝瑞館跡 濠跡・礎石建物跡
勝瑞館跡で確認された礎石建物跡。濠や庭園とともに、かつての居館の構成を知る手がかりとなる。
勝瑞館跡 枯山水庭園
勝瑞館跡で発掘された16世紀後半の枯山水庭園。館に伴う礎石建物跡とともに確認され、三好氏の居館の姿を伝える重要な遺構。
勝瑞館跡 会所
復元された会所。庭園の北側からは庭園を眺めるための建物跡が見つかり会所と考えられている。
勝瑞館跡 濠跡
勝瑞館跡の濠跡と復元された橋。濠の法面から柱痕または杭跡と考えられる木質が検出され、橋が架けられていた可能性が指摘されている。
勝瑞館跡 濠跡半立体表示
発掘調査で確認された勝瑞館跡の濠を半立体で表示。地下に保存された遺構の位置や規模を現地で知ることができる。
勝瑞城 水堀と見性寺
勝瑞城の周囲を囲む水堀と見性寺。現在も幅のある堀が残り、土塁とともに天正10年(1582)の長宗我部氏侵攻直前に築かれた城の姿を伝える。
勝瑞城 土塁跡
勝瑞城に残る土塁跡。発掘調査では基底部幅12.5m、高さ2.5mの規模が確認され、長宗我部氏の侵攻に備えた城の防御性を伝える遺構。
勝瑞義冢碑
勝瑞城跡に立つ勝瑞義冢碑。天正10年(1582)の長宗我部氏との戦いに関わる戦没者を弔う碑。

勝瑞城の整備状況

勝瑞城跡は、かつて細川氏の守護館や三好氏の居館跡と考えられ、昭和31年(1956)2月7日に県史跡に指定された。平成6年度(1994)から平成10年度(1998)まで発掘調査が行われた結果、現在の勝瑞城跡は天正10年(1582)の長宗我部氏侵攻直前に築かれた砦と判明し、従来の見方が大きく改められた。これを受けて守護館の探索が進められ、勝瑞城跡の南西約150mで一辺100m以上に及ぶ東西に並ぶ2つの大規模な区画が確認された。その後の発掘調査によって、細川・三好氏の守護館・居館に関わる勝瑞館跡の姿が明らかになった。

勝瑞城跡と勝瑞館跡は一体として評価され、平成13年(2001)1月29日に「勝瑞城館跡」として国史跡に指定された。その後も史跡地の公有化や発掘調査が進められ、平成14年(2002)には「藍住町勝瑞城館跡調査整備検討委員会」が設置された。史跡整備に向けた内容確認調査も継続して行われている。

見性寺と三好家墓所

勝瑞城跡に建つ見性寺は三好氏の菩提寺で、境内には三好之長・元長・実休・長治のものと伝わる墓が並ぶ。水堀や土塁が残る城跡を巡る際には、勝瑞を拠点とした三好一族の歴史を伝える墓所もあわせて見ておきたい。

参考文献:

  • 『史跡 勝瑞城館跡Ⅰ―勝瑞館跡西半部の発掘調査―』(藍住町教育委員会2020)
  • 『日本城郭大系15』(新人物往来社)
  • 「長宗我部元親」(高知市)

勝瑞城のおすすめ散策コース(順路)

勝瑞城跡と勝瑞館跡をあわせて巡る

勝瑞城を訪れる際に知っておきたいのが、「勝瑞城跡」と「勝瑞館跡」は別の場所にあること。現在の見性寺境内が勝瑞城跡で、その南西約150mに勝瑞館跡が広がる。勝瑞城跡では水堀や土塁、勝瑞館跡では濠跡や礎石建物跡、庭園跡などを見ることができる。両者をあわせて巡ることで、戦いに備えた城と、細川・三好氏の守護館・居館に関わる館という、それぞれの違いが分かりやすい。
勝瑞城館跡周辺案内図
見性寺境内の勝瑞城跡と、その南西約150mに広がる勝瑞館跡の位置関係が分かる現地案内図(現地案内板より)。

勝瑞城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

史跡 勝瑞城館跡 展示室

史跡 勝瑞城館跡 展示室勝瑞城館跡の発掘調査成果を紹介する展示室。出土遺物や資料パネルなどを通して、細川・三好氏の拠点として栄えた勝瑞の歴史や、発掘調査によって明らかになった勝瑞城跡と勝瑞館跡の姿を学ぶことができる。城跡と館跡では性格が異なるため、現地を巡る前に立ち寄っておくと、それぞれの遺構を理解しやすい。

勝瑞城周辺の観光スポット・史跡めぐり

藍住町歴史館「藍の館」

阿波藍の栽培と藍染めで栄えた藍住町の歴史を伝える資料館。豪商・奥村家の屋敷跡を利用し、藍作や藍染めに関する資料を展示するほか、主屋や藍寝床(あいねどこ)など当時の暮らしと仕事を伝える建物群が残る。勝瑞城とは時代が異なるが、藍住の歩みをより深く知る場所として訪れたい。

犬伏家住宅

藍住町に残る近代和風住宅で、令和2年(2020)に国の重要文化財に指定された。藍商を営んだ犬伏家の屋敷として昭和初期に整えられ、主屋をはじめ書斎、離座敷、土蔵など往時の姿をとどめる建物群が残る。中世の勝瑞城とは異なる、近代における地域の繁栄を伝える貴重な建築。

勝瑞城周辺グルメ・名物料理

麺処 みのり

麺処 みのりは、勝瑞城から徒歩約3分(約190m)にある人気のうどん店。自家製麺にこだわり、季節によって麺の固さを調整している。なかでも甘辛く味付けした牛肉をのせた「肉ぶっかけ」が看板メニュー。勝瑞城を歩いたあとの昼食に立ち寄りやすい一軒。

徳島ラーメン奥屋 本店

徳島ラーメン奥屋 本店は、藍住町に本店を構える徳島ラーメン専門店。濃厚な豚骨醤油スープに中細麺を合わせ、甘辛い豚肉と生卵をのせた「徳島ラーメン肉玉入り」が代表的な一杯。勝瑞城から南西へ車で約8分(4.5km)。犬伏家住宅や藍の館へ向かう途中にあり、徳島ならではの味を楽しみたいときに立ち寄りたい。

勝瑞城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地 [地図を見る]

県別一覧:[徳島県の城]

電話:088-641-3466(藍住町教育委員会 社会教育課 勝瑞事務所)

開館情報

勝瑞城館跡展示室:9:00~17:00、休館日12月29日~1月3日、入館無料。

アクセス

鉄道利用

JR高徳線「勝瑞駅」下車、徒歩約15分。

マイカー利用

高松自動車道「板野IC」から約11分(約7.1km)、または徳島自動車道「藍住IC」から約10分(約5.5km)、勝瑞城館跡駐車場有り(無料)。

地図