写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン

野田城の歴史と見どころ

浪速の地名には、水とともに生きた町の記憶が宿る。野田もまた、かつては淀川の流れに抱かれた中洲であった。戦国末期、この低湿な地に突如として軍勢が集まり、砦を築いて敵を迎え撃ったという。城と呼ぶには簡素な塁と柵。しかしそこには、三好氏や織田信長の動きと深く連動した、戦の前線拠点としての重みがあった。恒常的な城郭は残らずとも、地名と碑が語る記憶は今も町に息づいている。福島区玉川を歩けば、極楽寺の一角に静かに佇む石碑や、討死した一向宗門徒を悼む慰霊碑が戦塵の余韻を伝えてくれる。城跡の面影は薄くとも、野田は確かに、戦国の記憶を抱いた地だ。

野田城の歴史

浪速という呼び名には、湿地と河川の中に生きた土地の記憶がこもる。野田の地もまた、かつては淀川・長柄川(中津川)の河口に浮かぶ中洲として発達した場所だった。江戸時代の絵図には「野田洲」と記されることがあり、そこが湿潤な低地に由来する地形であったことを物語っている。

その野田に軍事的な動きが見え始めるのは、戦国時代も後期のことだ。三好氏の内部抗争が続いていた天文21年(1552)頃、堺・天王寺・木津などで細川晴元と三好三人衆との対立が激化し、その戦線が野田・福島の地にまで及んだと伝えられる。

さらに元亀元年(1570)には、三好方が1万3千の兵を率い、天満に陣を敷いたのち、野田・福島にかけて防御施設を築いた。『細川両家記』によれば、塁を築き、柵を設けて8千人が立て籠もり敵の侵攻に備えたという。

野田・福島は、織田信長による石山本願寺包囲に先立つ拠点として、極めて重要な軍事的役割を果たしていた。同年10月、信長勢が野田から福島へと展開し、敵軍を圧倒したことで、この地の戦略的価値はいっそう明らかとなった。

一方で、野田城が恒常的な天守や曲輪を持つ「城郭」として整備されていたかは不明である。戦闘の都度、臨時に塁や柵が築かれた砦が濃厚といえる。戦国末期の大坂周辺はこうした前線拠点の形成を経て、やがて豊臣政権の本拠となる大坂城の築城へとつながっていく。

江戸時代に入ると、周辺は堤や町並みが整備され、地名としての「野田」だけが静かに残った。福島区玉川の地に、かつての戦塵の記憶が埋もれている。現在、極楽寺付近がその中心部と推定されている。

参考文献:

  • 大阪市Webサイト「野田城跡」
  • 『日本城郭大系 第12巻 大阪・兵庫』(1981新人物往来社)

野田城の特徴と構造

野田城は、戦国期における野戦築城の一例といえる。現在までに恒久的な天守や石垣、曲輪といった構造の痕跡は確認されておらず、防御施設としての実態は、塁や柵を中心とする臨時の陣城であったと考えられている。『細川両家記』に記されたように、元亀元年(1570)には三好方が塁を築き、柵を巡らせて約8千人が籠城したとされるが、これは恒常的な城郭設備ではなく、戦時対応の仮構造であった可能性が高い。

地形的には、当時の野田は淀川や長柄川の流路が複雑に交差する中洲地帯であり、水堀のような天然の障壁に囲まれていたと推測される。現在の大阪市福島区玉川周辺に位置し、比高差の少ない低湿地に築かれた点が特徴的である。土塁や堀などの明瞭な遺構は現存しないが、地元の極楽寺付近がその中心と見られ、周辺の地形と町割りにその面影をわずかに留めている。

極楽寺の野田城石碑

野田城址石碑(極楽寺)福島区玉川四丁目の極楽寺境内には「野田城址」と刻まれた石碑が建てられている。城の正確な位置は定かではないが、極楽寺付近が野田城の中心部と推定されており、この碑はその伝承を今に伝えている。

玉川駅前の野田城石碑

玉川駅前の野田城石碑大阪メトロ、玉川駅前の住宅街に、もうひとつの「野田城跡」石碑がある。現在はマンションとなっているが、筆者が若い頃はその昔は銀行のあった場所で自転車が大量に駐められており、石碑が埋もれた風景だったと記憶している。

二十一人討死之碑

二十一人討死之碑この石碑は、天文2年(1533)9月21日に野田の地で戦死した21名を弔うために建てられた慰霊碑。天文元年(1532)、一向宗寺院山科本願寺が、近江観音寺城の六角定頼に攻められ焼失、第10世の證如上人は石山本願寺に落ち延びた。翌年、石山本願寺が攻められ、野田・福島の門徒500人が背後より奇襲するも敗れ、證如上人を守護し野田から小舟で紀州へと落とした。この時、門徒21人が討死したという。この戦いから400年を経た昭和15年(1940)、西野田青年団によって慰霊碑が建立され、のちに昭和52年(1977)、下福島中学校の整備にともなって、現在の玉川コミュニティセンター敷地内へと移設された。

野田城周辺の史跡を訪ねて

野田城跡を訪ねるなら、周辺に残された歴史の痕跡にも目を向けたい。かつての城の余韻を今に伝える石、そしてこの地に咲き誇った藤の記憶が、静かに街の一角に息づいている。

野田の藤跡

野田藤発祥之地石碑野田の藤は、かつて吉野の桜と並び称された花の名所であったらしい。貞治3年(1364)には将軍・足利義詮が訪れて名声が高まり、文禄3年(1594)春には豊臣秀吉も曽呂利新左衛門を伴って見物に来たと伝わる。野田藤の原木は戦前まで残っていたが、惜しくも空襲で焼失した。

野田の藤(春日神社)宇和島城下に、宇和島藩7代藩主、伊達宗紀(だてむねただ)が隠居後に作庭した大名庭園「天赦園(てんしゃえん)」がある。ここに野田の藤が生きてる。今から約230年ほど前、伊予国宇和島藩5代藩主、伊達村侯(だてむらとき)が、野田から持ち帰った。天赦園では、藤の橋となり毎年美しい景観を創っている。平成12年(2000)、10本の苗木が野田に里帰りし、往時の藤が蘇った。毎年、4月中旬に見頃を迎える。

大坂城残念石

野田恵美須神社の残念石野田城の中心部とされる極楽寺から東へおよそ60m。野田恵美須神社の境内に、日露戦争の記念碑が安治川下流に埋没していた徳川大坂城の残念石で造られている(写真)。また、徒歩圏内ではないものの、野田は伝法港にも近く、伝法魚港の残念石や河村瑞賢紀功碑(残念石)を訪れても良い。

野田城のアクセス・所在地

所在地

住所:大阪府大阪市福島区玉川4丁目 [MAP] 県別一覧[大阪府]

電話:06‑6208‑9166(大阪市教育委員会文化財保護課)

アクセス

鉄道利用

JR大阪環状線、野田駅、または大阪メトロ千日前線、玉川駅下車、2番・5番出口から散策。

マイカー利用

阪神高速道路3号神戸線、海老江出口、または中之島西出口から、極楽寺を目指す。周辺コインパーキング利用。

※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。

野田城に寄せて

これまでに届いた声:全2件

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    野田城跡は、かつて本当に駅前、旧あさひ銀行の正面にありました。現在はマンションとなり、遺構らしいものは見当たりませんが、それでも城跡に立てたというだけで心は満たされました。街の喧騒の中であっても、その一角に宿る歴史に思いを馳せながら。

    ( 三好三人衆)さんより

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    野田城址を示す石碑は2か所に設けられています。ひとつは大阪メトロ玉川駅2番出口すぐのマンション前。もう一基は、そこからおよそ240m南東、徒歩3分の極楽寺の山門前にあります。往時の城域は、現在のマンション周辺から極楽寺、さらに東の野田恵美須神社付近まで広がっていたと伝わるそうです。

    ( 山ノ上)さんより

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