須知城の歴史・見どころ

須知城(しゅうちじょう)は、現在の京都府京丹波町須知に位置する山城で、須知川右岸の丘陵上に築かれている。築城年代は明確ではないが、南北朝時代にはすでに存在していたことが史料から確認できる。『中津川秀家軍忠状』によれば、観応3年(1352)5月、南朝方の中津川秀家らが「須知之城」を攻め落としたことが記されており、この頃には地域支配の拠点として機能していたことがわかる。

須知の地は、丹波国の内陸交通を押さえる要地であり、周辺には谷筋と丘陵が入り組む地形が広がっている。須知川沿いには後世の山陰道宿場町へとつながる集落が形成され、城の北側には短冊状地割をもつ「古市」の地名も残る。京都府教育委員会は、この一帯を城下町に関連する空間であった可能性があると指摘している。

戦国時代には、丹波国人層の動向の中で須知城の名が再び史料に現れる。『蔭涼軒日録』には、須知氏を中心とした国人一揆の拠点として用いられたことが記されており、地域勢力の軍事拠点として機能していたことがうかがえる。また『多聞院日記』には、永禄年間頃の丹波情勢として「ハタノ・シウチ・柳本・赤井方え寝返り一円敵に成り」と記され、三好勢力が丹波から後退していく中で、須知周辺が反三好勢力の一角を占めていたことが知られる。

江戸時代の地誌『丹波志』には、「桝谷村野間氏、先祖ハ同郡須知城主、須知出羽守ニ仕ヘ」とあり、野間氏との関係も伝えられている。また『丹波誌』では、「須知」を古くから「しうち」と読んできたことが記され、中世以来の地名として定着していた様子がわかる。

須知城の現在残る城郭遺構のうち、とくに注目されるのが主郭部の石垣だ。石垣は四つの面を鈍角に折りながら、南端の面から順番に積み上げる独特の構築法をとり、近世城郭に見られる整然とした隅角を持たない。こうした特徴から、石垣技術が全国的に定着する以前の古い段階を示す遺構として高く評価されている。

また、Ⅰ郭・Ⅱ郭周辺の石塁や食い違い虎口には、天正前半期頃の織豊系城郭に共通する特徴がみられる。京都府教育委員会では、これらの改修に明智光秀勢力が関与した可能性を指摘しており、丹波攻略が進められた時期に城の中心部が大きく改修されたと考えられている。須知城は、中世山城から織豊系城郭へ移り変わる過程を今に伝える貴重な存在といえる。

須知城の特徴と構造

須知城は、標高385m(比高185m)の丘陵頂部に築かれた山城で、須知川沿いの谷と山陰道を見下ろす位置にある。城域は痩せ尾根上に東西へ展開し、尾根鞍部を断ち切る堀切によって、西側曲輪群と東側曲輪群に大きく分かれている。主郭にあたるⅠ郭とⅡ郭は西側曲輪群に属し、石垣・石塁を用いた高度な防御構造を備える。

Ⅰ郭背後には削り残しの土塁が巡り、その外側には高さ約4mの変形のシノギ積み石垣が築かれている。この石垣は、鈍角に折れ曲がる四面構成をとり、隅角を整形しない古式の構築法を特徴とする。近世城郭の石垣とは異なる過渡的な技法であり、須知城最大の見どころとなっている。

Ⅰ郭西南隅には石塁を伴う食い違い虎口が設けられ、Ⅱ郭との間には約1mの段差が生じる。Ⅱ郭西南隅にも櫓台を伴うスロープ状の虎口があり、帯曲輪を経て城外へ通じていた。一方、東側曲輪群は土造りを主体とし、一部に低い石積みを伴う程度で、西側の改修部分とは性格を異にしている。中心部のみが石垣化されていることから、既存の中世城郭に対し、織豊勢力が限定的な改修を加えた構造と考えられている。

須知城の遠景
須知城遠景。山裾を須知川が流れる。
須知城の虎口
西の曲輪IIに見られるスロープ状の虎口。
須知城の石垣
須知城主郭を囲む高さ4mの石垣。
須知城の石垣
主郭部の石垣は四つの面を鈍角に折る。一部は算木積。
須知城の東の曲輪群
東の曲輪群Vに見られる土塁囲みの曲輪。

須知城の整備状況

須知城跡は京丹波町指定史跡となっており、京都府教育委員会による解説も整備されている。現在は登山道を通じて城跡へ向かうことができ、主郭部の石垣や堀切、石塁などを確認できる。とくに本丸東側の石垣は保存状態が良く、中世から近世初頭への過渡期を示す石積技術を現地で観察できる貴重な遺構となっている。

また、城跡周辺には「玉雲寺」や「琴滝」などの景勝地があり、須知川流域の地形とあわせて城の立地を体感できる。京都府教育委員会Webサイトでは、須知城について「明智光秀の関連が想定できる城館」と位置づけられており、石垣構築技法や虎口構造の重要性が紹介されている。近年は、こうした歴史的価値を伝える案内整備も進められており、丹波地域の戦国城郭を知るうえで重要な史跡の一つとなっている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系11』(新人物往来社)
  • 『近畿の城郭I』(戎光祥出版2014)
  • Webサイト「須知城跡」(京都府教育委員会)

須知城周辺の観光スポット・史跡めぐり

須知城と玉雲寺、琴滝に残る記憶

須知城は、須知川右岸にあり周囲には田園風景が広がっている。田の向こうに城山が迫り、北側の古市と呼ばれるエリアには数戸の集落が点在する。さらに1kmほど北には、山陰道の宿場町「須知宿」が残る。いずれも観光地化された場所ではなく、田園の中に昔からの暮らしが続いているような風景だった。

一方、須知川左岸の山肌には「玉雲寺」という寺がある。山門や本堂は立派で、境内もよく手入れされている。しかし周囲に集落があるわけでもなく、ぽつんと建っていることに違和感があった。しかも、須知城の麓にあったとされる居館は、反対側の北側に伝わっている。では、なぜこの場所に寺があるのか。改めて玉雲寺を訪ねた。

玉雲寺の前身は「琴滝」にあった。現在も石垣が残っている。ご住職のお話によれば、当時、明智光秀が母の弔いを頼んだことが寺に伝わっているそうだ(一説には乳母とも)。創建は約600年前。戦国時代には30人ほどの修行僧がいたという。

しかし、須知城を攻めた際、麓から火を放って城山を焼き、その火が寺にも燃え移った。そこで光秀は、現在地に住まいを用意したという。やがて光秀が没すると、まだ檀家制度のない時代だったため、寺は収入源を失う(檀家制度は江戸時代初期から)。それでも僧たちは、周囲の田畑から得る米で暮らしを繋いでいたそうだ。

玉雲寺の山門
玉雲寺は約450年前に琴滝で焼失した後、現在地に建てられた。山門二階には釈迦が収められている。
琴滝
「琴滝」落差約40mの1枚岩を流れ落ちる名瀑。かつてはこの滝周辺に玉雲寺の前身があった。
琴滝周辺の寺跡
玉雲寺の前身があったその石垣が残る。
玉雲寺の本堂
蟇股付近より当初の最も古い部材なのだという。その後すぐに拡張された。随所に「丸に十の字」があしらわれている。

当初の住まいは手狭だったため、現在の建物はそれを改築・拡張する形で造られた。そのため、古い部材の装飾が随所に残る一方、後から広げた部分には装飾がない。ただ、目につく場所には古材を巧みに用いており、自然にまとめられている。ご住職によれば、建物は約450年前のものだそうだ。

江戸時代には広大な寺領を持ち、城山から「琴滝」の奥まで、多くの土地を所有していたという。修行僧を養うには十分な規模だったそうだが、やがて廃仏毀釈で20丁ほどの田畑(東京ドーム約4個分)を失い、その後の農地改革で残った4丁の土地を失う。

収入源を失った寺は、須知城を含む山を売ってしのいだそうだ。当時は薪が燃料だったため、山林には需要があった。ただ、「琴滝」周辺は岩場が多く利用しづらかったため、その土地だけは残ったとのことだった。現在も琴滝は玉雲寺の寺域に含まれているという。「琴滝」に建つ碑文には、その後、はげ山に植林をし、自然を取り戻したことが記されている。

現在の玉雲寺は、周辺寺院も兼任する形で、ご住職が管理されており、檀家は100軒ほどあるそうだ。ご住職は60歳頃までは、須知城へ斜面を直登して山菜採りによく入っていたとも話してくださった。

余談だが、この寺の寺紋は島津家の「丸に十の字」だ。開祖が島津家の出身であることに由来するそうだ。また、ご住職は草花がお好きで、本堂左手に群生する桔梗も、あえて刈らずに残しているという。開花するであろう初夏にでも通ることがあれば寄ってみたい場所だ。

個人的には、坂本城跡の西にある西教寺が光秀の菩提寺であり、先日再訪したこと、また岐阜県恵那市にある明知城下の光秀の母「於牧の方墓所」の解説板に岡の写真を使っていただいていることもあり、その関連として見ておきたいと思った。

山陰道・須知宿を歩く

さて、その後は須知宿へ向かった。ここは資料も乏しく、観光地化もされていない山陰道の宿場町だ。現在は数軒がわずかに当時の面影を残す程度だが、その中で印象に残った二軒を紹介しておきたい。

まずは旅籠「大黒屋」だ。現在は住まわれていないが、奈良・大峰山へ向かう行者たちの指定宿だったそうだ。軒下を覗くと、その看板が今も残されている。

須知宿の旅籠「大黒屋」
うなぎの寝床なのでピンと来ないが、規模の大きい旅籠で、奥行きは、ほかは20〜30mなのに対し、50mほどあるらしい。
旅籠「大黒屋」の看板
旅籠「大黒屋」の軒下に見られる看板。その内容から、行者の指定宿であることが分かる。

町の方のお話では、かつてこの通りには飲み屋や女郎宿も並んでいたという。呼び込みはかなり激しかったらしく、「無事、須知を通りました」という内容の手紙も残されているそうだ。

また、造酒屋も二軒ほどあったという。そのうち一軒は改修されながらも、屋根に煙出し窓を載せ、往時の姿を今に残している。

須知宿の風景
山陰道須知宿の通り向こうに見える山は須知城(この景色は昔から見られた風景)。左手は須知宿の造酒屋だった。

宿場町からは、今も須知城の姿を望むことができる。また「須知」という名字が今も残っているのか尋ねると、京丹波町にはいくつか残っているのだそうだ。

玉雲寺と須知宿については、玉雲寺のご住職、そして郷土史を研究されているダンディな町の紳士に、さまざまなお話をご教示いただいた。記して御礼申し上げます。

須知城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:京都府船井郡京丹波町市森 [地図を見る]

県別一覧:[京都府の城]

電話0771-89-1717(京丹波町観光協会)

アクセス

須知城の登山口:玉雲寺からは北西に伸びる農道目指すは玉雲寺。そこから北西に伸びる農道を進むと右手に登山口の案内がある。主郭からは来た道を戻るより「琴滝」方面へ下ると良い。琴滝から舗装路を戻ると玉雲寺に至る。

鉄道利用

JR嵯峨野線、園部駅から中京交通バス園福線「琴滝道」降車、徒歩約18分で玉雲寺。

マイカー利用

京都縦貫自動車道、丹波ICから、約3分(1.4km)で玉雲寺。玉雲寺前の駐車スペース、またはキャンプ場に駐車可。

地図