写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン
要害山城の歴史と見どころ
要害山城は、永正17年(1520)、武田信虎によって築かれた。前年に麓の躑躅ヶ崎に居館が造営されており、居館と詰城を対にした典型的な戦国期の城郭構成であったことが『高白斎記』に明確に記されている。築城の翌年、大永元年(1521)には駿河今川氏の属将・福島正成の侵攻を受け、このとき懐妊中の信虎夫人が城内に避難し、嫡子・晴信(のちの信玄)を産んだと伝わる。実戦に使用された記録としては、この攻防が唯一のものである。
その後も要害山城は甲斐の本城として重要視され、長篠の戦い後の天正4年(1576)には、武田勝頼が村役人に人夫を催促し、修築を命じた朱印状が残る。戦局の緊迫化を受けて急ぎ防備を固めたもので、当時の緊張感を物語る史料である。さらに『鷲寒話』には、天正壬午の乱(1582)後、駒井右京・日向玄東斎らが番を務め、加藤遠江守光泰が修復したと伝わる。
要害山城は慶長5年(1600)頃に廃城となったが、約60年にわたり甲斐武田氏の中核拠点として、領国経営の要であった。信虎が地方権力から戦国大名へと成長する過程を象徴する城であり、甲府の歴史において極めて重要な位置を占めている。麓には「根小屋」の地名が残り、館と山城が一体であったことを今に伝えている。
要害山城の特徴と構造
要害山城は甲府市上積翠寺町の丸山(標高約780m、比高260m)に築かれ、躑躅ヶ崎館の北東約2.5kmに位置する。山腹から尾根にかけて郭を連ね、竪堀や堀切、帯郭を巧みに組み合わせた堅固な山城である。主郭は東西約73m・南北22mの細長い平坦面で、四周に土塁をめぐらし、北側に帯郭を配して防御性を高めた。
登城路には二重の虎口が設けられ、いずれも石積みや土塁で補強される。途中には湧水「諏訪水」があり、籠城時の生命線を担った。さらに南東尾根には「要害城南遺構」と呼ばれる防衛施設群が展開し、郭や堀切、土塁を連続配置する。主郭を中心に南方の防備を徹底した構造から、信虎の築城技術と戦略的眼差しを今に伝える。
参考文献:
- 『日本城郭大系8』(新人物往来社)
- 「要害山城跡」甲府市教育委員会Webサイト
要害山城の撮影スポット
要害山城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、要害山城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。要害山城の周辺史跡を訪ねて
要害山城観光のおすすめホテル
武田信玄ゆかりの隠し湯、積翠寺温泉「要害」など。
要害山城の観光情報・アクセス
所在地
住所:山梨県甲府市上積翠寺町 [MAP] 県別一覧[山梨県]
電話:055-237-5702(甲府市観光課)
- 公式サイト:「要害山城跡(甲府市文化財ページ)」(山梨県甲府市公式)
アクセス
鉄道利用
JR中央本線「甲府駅」北口からバスで「上積翠寺(かみせきすいじ)」降車、徒歩約15分、「要害」という温泉宿の横が登山口。
マイカー利用
甲府市上積翠寺町付近まで車でアクセス可能。登城口付近に駐車スペースがある。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年よりWebサイト「お城めぐりFAN」を運営し、日本の城郭をめぐる旅をライフワークとする。長年にわたる豊富な経験と、城郭写真家としての専門的な視点から、当サイトの記事を監修。その写真と知見は、数々の書籍やメディアでも高く評価されている。
要害山城:城ファンたちの記憶
実際に要害山城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全3件)。




積翠寺の上に「要害」という温泉宿がありその入口横に登山道。本丸まで徒歩30分。
( 左近)
躑躅ヶ先館の詰め城。門跡、虎口、石垣、土塁、郭、竪堀、土橋、井戸跡。小規模ながらよく残っている。搦め手の門跡のすぐ後ろの土橋の横の石垣が珍しい。門跡が確認できるだけでも8つある。
( 田村靖典)
武田信虎が躑躅が崎の館の詰めの城として築城。信玄生誕の城と言われる。
( 田村靖典)