大宰府は白村江の戦い後、北部九州防衛と統治の拠点として整えられた古代都市だ。大野城・基肄城・水城と連動する防衛都市で、条坊制市街と政庁を中心に広がった。現在は政庁跡の礎石や広大な遺構空間が残り、歴史景観を体感できる。このページではその歴史と特徴、遺構の見どころを豊富な写真とともに紹介する。

写真:岡 泰行(城郭カメラマン)

大宰府の歴史と見どころ

大宰府(だざいふ)の成立は、北部九州支配の確立と対外危機への備えという二つの流れの中で進んだ。前身として知られるのが、宣化天皇元年(536)に『日本書紀』に見える筑紫・那津の口の官家(みやけ)だ。ここは朝廷の直轄拠点として九州統治と外交の窓口を担った。さらに推古17年(609)には「筑紫大宰」の名が史料に現れ、中央から派遣された官人が九州全域を統轄する体制が整っていたことがうかがえる。

大きな転機となったのは、天智2年(663)の白村江の戦いだった。倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に敗れ、国家は外敵侵攻への強い危機感に包まれた。これを受けて天智3年(664)には水城、天智4年(665)には大野城基肄城が築かれ、北部九州には大規模な防衛網が構築される。その防衛線の内側に、博多湾岸の拠点を移して形成されたのが、大宰府政庁を中心とする都市だった。

制度としての大宰府は、大宝元年(701)の大宝律令によって確立する。ここは九州九国三島を管掌する政治・軍事・外交の拠点であり、「遠の朝廷」と呼ばれる国家最大級の地方機関だった。政庁の周囲には役所・倉庫・学校・外国使節を迎える客館などが整備され、南には二十四坊・二十二条の条坊制による都市空間が広がった。奈良時代には文化の中心地としても栄え、大伴旅人の梅花の宴に象徴されるように、都の宮廷文化がこの地にも根づいていく。

平安時代に入ると対外環境の変化により外国使節の来訪は減少したが、大宰府は交易と外交の拠点として重要な役割を担い続けた。天慶4年(941)には藤原純友の乱によって政庁が焼失するという大きな打撃を受けるが、発掘調査によってその後に再建されたことが確認されている。12世紀後半には平清盛が大宰大弐に就任するなど、平氏政権の経済的基盤としても機能したが、壇ノ浦の戦いを経て平氏は滅亡した。

鎌倉時代になると、源頼朝の命を受けた武藤資頼が大宰少弐に任じられ、九州支配の実権を握るようになる。武藤氏はのちに少弐氏と称し、この地を拠点として勢力を維持した。古代官衙としての機能は衰えつつあったが、大宰府はなお政治・軍事の要地であり、蒙古襲来の際には博多から水城方面へ退却したという記録も残る。南北朝期には大宰府は各勢力の争奪の地となり、各勢力の争奪の舞台となり、次第に政治や交易の中心は博多へ移り、その役割は後退していった。

戦国時代には大内氏・大友氏・毛利氏・島津氏らの抗争に巻き込まれ、寺社の焼失など荒廃が進んだ。天正14年(1586)の岩屋城の戦いはその象徴であり、この激戦ののち豊臣秀吉の九州平定によって争乱は終息へ向かった。こうして大宰府は、古代国家の防衛都市として生まれ、中世には武家権力の拠点となり、戦国の戦場を経て、その歴史的役割を大きく変えていった。

大宰府の特徴と構造

大宰府は現在の現在の太宰府市一帯の盆地に展開した古代都城である。都市域は東西約2.6km(二十四坊)、南北約2.3km(二十二条)におよぶ。北の大野城、南の基肄城、平野部を遮る水城と連動して築かれた防衛都市としての性格を持つ。条坊制による市街地が南側に広がり、その北寄りに政庁が据えられた構成は、政治と軍事の拠点を兼ね備えた国家的施設であったことを示している。

政庁は南門・中門・回廊・脇殿・正殿・後殿を一直線上に配した朝堂院形式で整えられていた。発掘調査によって、7世紀後半の掘立柱建物群(第1期)にはじまり、8世紀初頭以降の礎石建物群(第2期)、さらに平安時代の再建期(第3期)という三段階の変遷が確認されている。回廊に囲まれた広場は東西約110.7m、南北約117.3mの規模を持ち、儀礼や政務の場として用いられたと考えられる。正殿跡に残る巨大な礎石群は、地方官衙としては異例の威容を今に伝えている。

大宰府南門跡からの眺望
南門跡付近から四王寺山方面を望む。古代山城の大野城や戦国の岩屋城が位置する防衛ラインを実感できる。
大宰府南門礎石
南門の礎石。正面玄関にあたる重要施設でここから中門を経て正殿に至る。
大宰府政庁の堀跡
政庁域を区画した堀跡。都城空間の境界を示す遺構として往時の都市構造を物語る。
大宰府正殿跡に建つ3本の石碑
大宰府政庁の中枢部、正殿跡に建つ歴史を伝える石碑群。左から「太宰府址碑」「都督府古趾碑」「太宰府碑」。

大宰府の整備状況

大宰府政庁跡は大正10年(1921)に史跡指定を受け、昭和28年(1953)には特別史跡となった。さらに昭和45年(1970)には学校院跡や観世音寺境内などを含む範囲が追加指定され、保護の範囲は大きく拡張された。昭和43年(1968)以降には本格的な発掘調査が進められ、政庁の建物配置や変遷、焼失後の再建の実態などが明らかにされた。現在は広大な史跡公園として整備され、正殿跡の礎石や遺構空間を現地で体感できる。

近年は文化財情報の整理と公開が進められ、飛鳥・奈良時代から中世・近世、近現代にいたる歴史の流れを学べる環境が整えられている。大宰府政庁跡のみならず、水城や大野城を含めた広域的な歴史理解を促す取り組みも進められており、史跡保存と普及の両面で整備が続いている。

※古代の役所は「大宰府」、現在の地名は「太宰府」と表記。

  • 『日本城郭大系18』(新人物往来社)
  • Webサイト「文化財情報」(太宰府市)

大宰府の撮影スポットと絶景

大宰府の写真集

城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、大宰府の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。

大宰府とあわせて訪ねたい史跡

大宰府から広がる城めぐり

大宰府防衛網と戦国の城

白村江の敗戦後、大宰府を守るため四王寺山周辺に築かれた城と政庁と戦国の城。

大宰府の観光情報とアクセス

所在地

住所:福岡県太宰府市観世音寺4丁目6-1 [MAP] 県別一覧[福岡県]

電話092-922-7811(大宰府展示館)

開館情報

大宰府政庁跡は散策自由。大宰府展示館は9時〜16時30分まで、月曜休館。

アクセス

鉄道利用

西鉄天神大牟田線、都府楼前駅下車、徒歩約15分。または、太宰府市コミュニティバス「まほろば号」 大宰府政庁跡降車、徒歩すぐ。

マイカー利用

九州自動車道、太宰府ICから南へ7分(4km)、「大宰府政庁跡」を目指す。無料駐車場(40台)有り。

大宰府:城ファンの知見と記録

大宰府を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全2件)。

  • avatar

    大宰府政庁の道路跡に牛馬の足跡が出土したそうです。

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    大宰府政庁跡に立つと、岩屋城と大野城が遠望でき、また西方にはここからは見えませんが水城があり、この政庁の周囲を守っていたことが分かります。

城の情報

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