志岐城の歴史・見どころ

志岐城は、天草下島北部を支配した志岐氏の拠点として築かれた山城だ。元久2年(1205)、藤原光弘が志岐六ヶ浦の地頭職に補され、この地の支配が始まる。志岐氏は所領を北条得宗家に寄進し、その代官として勢力を広げた。地頭職を軸にした支配が、ここに形づくられていった。

鎌倉末から南北朝期にかけては、本砥の地頭職をめぐり天草氏と争いを続けた。志岐弘円(景弘)は幕府との関係を背景に惣領職の掌握を図るが、天草氏の抵抗は強く、支配は安定しなかった。室町期に入っても争いは続き、勢力は拮抗したまま推移した。土地をめぐる緊張が続いていた。

明応10年(1501)、志岐氏は天草諸氏を自領に集め、一揆をまとめて守護菊池能運に協力した。この時、志岐氏は天草衆の中核的存在であったといえる。その後、菊池氏が没落すると情勢は大きく動き、大友氏や相良氏の影響が及ぶ。天文元年(1532)には天草諸氏とともに上津浦を攻め、戦国の動乱に巻き込まれていった。天文7年(1538)には志岐氏内部での争いも生じている。

永禄2年(1559)には志岐氏・上津浦氏・天草氏らが連合し、栖本氏と対立した。さらに志岐鎮経(麟泉)の養子親重が有馬晴純の五男であるなど、肥前勢力との結びつきも強い。戦国末期には島津氏とも姻戚関係を結び(親重の妻が島津義虎の娘)、外部勢力との関係の中で家の存続を図った。複雑な同盟が重なり合っていた。また、志岐麟泉は天草で初めてキリスト教を導入したことでも知られる。

天正17年(1589)、志岐氏は宇土城普請への協力を拒み、小西行長・加藤清正の連合軍の攻撃を受けた(天正の天草合戦)。激しい攻防の末に降伏し、城を退去する。秀吉の指示により城は城番に引き渡され、志岐氏は小西氏の家臣団に編入された。ここに中世以来の支配は終わりを迎えた。

志岐城の特徴と構造

志岐城は標高約100mの丘陵上に築かれた山城だ。南は山地、西と北は海、東は深い谷と河川に囲まれ、自然地形そのものが防御線となる立地にある。

主郭は円形状の平坦地で、約25m×40mの規模を持つ。周囲は急峻な切岸で固められ、その直下には大きな郭が配置される。北西方向には帯状の曲輪が連なり、兵の展開や防御に使われた構造だ。主郭の南東側には高さ2.8mの「温泉公(おんぜんこう)」と呼ばれる土地があり、現在は拝殿が建っている。

南東のくびれ部には大規模な堀切が設けられている。長さ約26m、幅約13mで、内部は段差によって区分される。両端には野面積みの石塁が残り、防御強化の意図が明確に読み取れる。堀底に続く堀道は水の導入路としても利用されたと伝わる。自然地形と人工構造を組み合わせた中世山城の姿がよく残る。

志岐城の整備状況

志岐城は天正17年(1589)の落城後に廃城となり、その後は城郭としての機能を失った。近世以降は丘陵地として利用され、遺構は地形として残されることとなった。郭や堀切が、当時の姿を今に伝えている。

現在は志岐城跡公園として整備されている。主郭や堀切などの遺構を見学でき、簡単ではあるが案内板も設置されている。地域の憩いの場としても活用されている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系18』(新人物往来社)
  • Webサイト「志岐城跡」(熊本県)
  • Webサイト「志岐城跡」(天草れいほく観光協会)

志岐城周辺の観光スポット・史跡めぐり

同町の富岡城、または本渡城、本渡市までの広域農道上にある仏木坂古戦場跡など(林田公範 2002)。

志岐城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:熊本県天草郡苓北町志岐

県別一覧:[熊本県の城]

アクセス

鉄道利用

JR鹿児島本線、熊本駅下車、熊本交通センターからバス150分「本渡バスセンター」降車、本渡(または富岡から)産交バス「釜入口」降車、徒歩20分。また、本渡バスセンターまでは、島原、熊本、長崎からのフェリー利用、本渡港から徒歩15分で行くことができる。

マイカー利用

苓北町役場付近から県道44号線へ、運動公園を目印にするとよい。二の丸に無料駐車場(10台)有り。

地図