写真:岡 泰行

富岡城の関連史跡

仏木坂古戦場・木山弾正無念坂小西配下の軍勢と加藤清正らが戦った古戦場址に面白くも怖い仏木坂古戦場跡(本渡市までの広域農道上にある)。もっとも近い城では志岐城。また、富岡城の麓には、城の構造が見られる鎮道寺(勝海舟の落書きあり。落書きを見るには予約が必要)、鈴木重成像、富岡吉利支丹供養碑がある。
[林田公範 (1999.11.24)]

富岡城のアクセス・所在地

所在地

住所:熊本県天草郡苓北町富岡 [MAP] 県別一覧[熊本県]

鉄道利用

JR鹿児島本線、熊本駅下車の熊本交通センターからバス150分「本渡バスセンター」で産交バスに乗り換え、富岡港行バス約50分終点「富岡港」降車、徒歩20分。 本渡バスセンターまでは、島原、熊本、長崎からのフェリー利用、本渡港から徒歩15分で本渡バスセンター。本渡港へは熊本港からフェリーで1時間、長崎の茂木港からも出ている。または、島鉄フェリー鬼池港より車で15分。

マイカー利用

無料駐車場(50台)有り。ほぼ山頂まで車で上がることができる。 [林田公範 (1999.11.24)]

城ファンの気になるところ (8)

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    城跡の麓にあり、防御を高めるために造られた百間土手と呼ばれる付近から城山の頂きを見上げると立派な石垣が見受けられ壮観。この百間土手で仕切られている池が内堀にあたる。

    ( 林田公範)

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    肥後天草でありながら肥前唐津の寺沢氏の領地だったそうであるが、天草統治のために築いたこの富岡城は唐津城と周りの景観や縄張りが似ているように思えるのは気のせいか?

    ( 林田公範)

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    慶長6年2月に天草は肥前唐津城主寺沢広高の領地となり、天草統治の拠点として富岡の地に築城し代官を置き支配した。寛永14年(1637)10月25日、幕府を震憾させた天草島原の乱勃発し、乱の鎮圧にあたった富岡城番代の三宅籐兵衛は討死し、富岡城も一揆勢から攻撃を受けた。

    ( 林田公範)

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    高浜村の庄屋、上田家は、真田の根津氏が大阪の陣のあと、この地に流れ着き地元の上田を名字としたそうな。

    ( 右近)

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    天草では「島原の乱」と言わず「天草・島原の乱」と言うそうな。

    ( 右近)

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    天草各地には「千人塚」と呼ばれる乱の供養塔があるが「富岡吉利支丹供養碑」は、富岡城の麓にある。寛永14年(1637)の天草・島原の乱で討死した一揆軍の首三千余りが葬られ、正保4年(1647)に富岡の代官、鈴木重成の手によって供養碑が建てられ霊を慰めたそうな。余談だがその供養塔は、原城の供養塔と一対になっているとか。梵字で片方は「マン」もう一方は「タン」となっているそうな。

    ( 右近・夏)

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    本丸をはじめ二の丸など発掘調査の成果を踏まえての石垣、櫓の復元工事が行われており、2005年2月現在、ふもとから登城することができない。4月23・24日にオープニングイベントが予定されており、その後一般公開される予定。

    ( 半兵衛)

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    富岡城は歴史上、大きく分けて次のような顔を持っていたようです。

    • ①鎌倉時代初めから戦国時代末期までの約400年間、志岐氏の出城と海洋活動拠点
    • ②唐津藩主寺沢氏の天草統治拠点
    • ③島原・天草一揆での激しい攻防戦の舞台
    • ④一揆終結後、城として最も整備された山崎時代
    • ⑤天領天草の鈴木代官時代
    • ⑥戸田市の破城後、天領天草の代官所時代

    富岡城では2度戦いが行われ、最初は天正17年(1589)の加藤清正と小西行長の連合軍と、天草五人衆との「天正天草合戦」でした。

    2度目は、徳川3代将軍家光の時代に勃発した、島原・天草一揆でした。急峻な小高い丘の上にある富岡城の地理的条件が一揆勢の侵攻を阻み、その後の徳川幕府の安定につながりました。

    江戸時代を通じて約270年間、富岡は天草の行政、経済、文化の中心地となりましたが、明治維新後、行政の中心は本渡に移りました。

    現在の富岡城は、約10年間をかけて発掘調査が行われた後、平成17年4月に復元され、本丸跡は熊本県の富岡ビジターセンターとして活用されています。さらに平成27年7月には二の丸の角櫓、長屋等が復元され、長屋は苓北町歴史資料館として開館しています。

    ( 城好きの匿名希望)

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