富岡城は、慶長8年(1603)に寺沢広高によって築かれた天草支配の拠点だ。陸繋島の富岡半島に位置し、海と谷に守られた天然の要害として知られる。現在は復元された石垣や櫓とともに、袋湾を望む景観が魅力となっている。このページでは富岡城の歴史や構造、見どころを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
富岡城の歴史・見どころ
富岡城(とみおかじょう)は、熊本県天草郡苓北町の富岡半島に築かれた近世初頭の城だ。東シナ海の荒波と、巴湾(袋湾)の穏やかな水面に挟まれたこの地は、天然の要害として知られてきた場所でもある。
中世、この地は「袋」と呼ばれる漁村であり、天草は志岐氏・天草氏らによって分かれて支配されていた。志岐氏は南東の志岐城を本拠とし、天草において早くからキリスト教を受容するなど勢力を保っていたが、小西行長の侵攻によって天草はその支配下に入った。やがて慶長5年(1600)の関ヶ原の戦の後、天草は肥前唐津の寺沢広高の領有となる。
寺沢広高は、唐津に近く、かつ海と地形に守られた富岡に着目し、慶長7年(1602)から築城を開始した。城は袋湾を見下ろす高地に置かれ、背後は汐入りの谷で遮られた要害の構えをとる。慶長10年(1605)には大手門のほか戸止口・浜口などの門が整備され、外郭を含めた城の骨格が完成した。
その後も天草にはキリシタン信仰が根強く残り、領主側は取締りを強化していく。しかし寛永11年(1634)頃からの凶作や飢饉により、農民の生活は厳しさを増していった。
寛永14年(1637)、島原半島で起こった一揆は天草にも波及し、天草四郎を中心とする一揆勢が富岡城へと迫る。本渡での戦いでは富岡番代三宅藤兵衛が討死し、城側は富岡城に退いて籠城した。一揆勢は11月19日と22日の二度にわたり城を攻撃したが、城内からの火矢などにより撃退され、退却を余儀なくされた。天然の地形と城の構えが、その防御力を支えていたといえる。
乱の終結後、寺沢氏は失政の責任を問われて改易となり、寛永15年(1638)、天草は山崎家治に与えられる。家治は城郭の拡張と改修に着手し、入江を仕切って袋池を外堀として整備し、城域を広げた。寛永18年(1641)頃には修築が一応の完成をみたが、家治は間もなく讃岐丸亀へ転封となり、天草は天領となる。
以後、富岡は代官支配の拠点となり、鈴木重成が統治にあたった。重成は石高半減を幕府に訴えたことで知られ、正保4年(1647)にはキリシタン供養碑が建てられるなど、この地の統治と社会の再編が進められていく。
寛文4年(1664)、戸田忠昌が入封すると支配体制は再び変化する。忠昌は寛文10年(1670)、本丸と二の丸を破却した。いわゆる「戸田の破城」であり、城の維持による負担を軽減するための措置だった。その後は三の丸に代官所が置かれ、富岡は城郭ではなく行政の中心として機能していく。
やがて明治維新を迎えるまで、富岡は天草における政治・経済・文化の中心として続いていくことになる。
富岡城の特徴と構造
富岡城の最大の特徴は、陸繋島である富岡半島という地形そのものを防御に活かした点だ。東シナ海と巴湾(袋湾)に挟まれた半島は三方を海で囲まれ、陸続きの側もくびれた砂丘地形(冬切)となっており、少数の兵力でも大軍を阻む天然の要塞を形成していた。
寺沢期(前期)が海に直結した軍港城郭の色合いが強いのに対し、山崎・戸田期(後期)は大規模な土木工事で城域を内陸側へ拡張し、より完成度の高い近世城郭へと転換していった点に、この城の構造的変遷の特色がある。





富岡城の整備状況
富岡城跡は昭和47年(1972)8月に苓北町の文化財(富岡城址)に指定された。整備の機運が高まるのは1990年代に入ってからで、戸田期の城郭を描いた絵図「肥前甘艸富岡城図」の信憑性が発掘調査(1995〜1998年)によって裏付けられたことを受け、1999年から山崎・戸田期の姿を目標とした本格的な復元整備が開始された。
本丸石垣は電源三法交付金、二の丸石垣は農林水産省の中山間地域総合整備事業、出丸は熊本県の地域起こし事業と、複数の国・県補助事業を組み合わせながら整備が進められた。建物では2003〜04年に本丸多聞櫓が熊本県富岡ビジターセンターとして木造で建設され、本丸南東隅櫓・城門も整備された。さらに2005年度からはまちづくり交付金制度(現・都市再生整備計画事業)を活用し、二の丸隅櫓・築地塀・歴史資料館(2015年7月完成)・アダム荒川記念広場なども順次完成した。
現在、袋湾を背景に復元された石垣と木造の櫓が連なる富岡城跡は、苓北町を代表する歴史公園として来訪者を迎えている。本丸・二の丸からは袋湾と東シナ海を一望でき、島原の乱で一揆軍がこれほどの天険を前に二度撃退された情景を、眼下の海を見ながら実感することができる。また二の丸には島原・天草一揆時の戦闘痕跡とされる石垣が露出展示されており、幾重もの歴史の層が積み重なったこの地の奥深さを、足を止めてたどることができるだろう。
参考文献:
- 『日本城郭大系18』(新人物往来社)
- 『天草富岡城における復元整備の経緯と問題点』(浦上地理 2017)
- Webサイト「天草、富岡城物語」(熊本県)
富岡城の撮影スポット・絶景ポイント
富岡城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、富岡城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。
富岡城周辺の観光スポット・史跡めぐり
近郊の史跡
富岡城の麓には、城の構造が見られる鎮道寺がる。ここには勝海舟の落書きがある(落書きを見るには予約が必要)、鈴木重成像、富岡吉利支丹供養碑がある。そのほか、小西配下の軍勢と加藤清正らが戦った古戦場址に面白くも怖い仏木坂古戦場跡(本渡市までの広域農道上にある)(林田公範 1999)。
富岡城から広がる城めぐり
近郊の城
最も近い城では志岐城。
天草・島原の乱の城
天草・島原の乱の舞台となった原城と、幕府側の拠点となった島原城・富岡城をめぐり、戦いの構図をたどる。
熊本県の名城
熊本県に残る多彩な名城をめぐり歴史をたどる。
富岡城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:熊本県天草郡苓北町富岡
県別一覧:[熊本県の城]
アクセス
鉄道利用
JR鹿児島本線、熊本駅下車の熊本交通センターからバス150分「本渡バスセンター」で産交バスに乗り換え、富岡港行バス約50分終点「富岡港」降車、徒歩20分。 本渡バスセンターまでは、島原、熊本、長崎からのフェリー利用、本渡港から徒歩15分で本渡バスセンター。本渡港へは熊本港からフェリーで1時間、長崎の茂木港からも出ている。または、島鉄フェリー鬼池港より車で15分。
マイカー利用
無料駐車場(50台)有り。ほぼ山頂まで車で上がることができる。
地図
富岡城:城ファンの知見と記録
富岡城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全8件)。
富岡城でのひとときを、そっと記録に残す





富岡城は歴史上、大きく分けて次のような顔を持っていたようです。
富岡城では2度戦いが行われ、最初は天正17年(1589)の加藤清正と小西行長の連合軍と、天草五人衆との「天正天草合戦」でした。
2度目は、徳川3代将軍家光の時代に勃発した、島原・天草一揆でした。急峻な小高い丘の上にある富岡城の地理的条件が一揆勢の侵攻を阻み、その後の徳川幕府の安定につながりました。
江戸時代を通じて約270年間、富岡は天草の行政、経済、文化の中心地となりましたが、明治維新後、行政の中心は本渡に移りました。
現在の富岡城は、約10年間をかけて発掘調査が行われた後、平成17年4月に復元され、本丸跡は熊本県の富岡ビジターセンターとして活用されています。さらに平成27年7月には二の丸の角櫓、長屋等が復元され、長屋は苓北町歴史資料館として開館しています。
記録:城好きの匿名希望 2019
本丸をはじめ二の丸など発掘調査の成果を踏まえての石垣、櫓の復元工事が行われており、2005年2月現在、ふもとから登城することができない。4月23・24日にオープニングイベントが予定されており、その後一般公開される予定。
記録:半兵衛 2005
天草各地には「千人塚」と呼ばれる乱の供養塔があるが「富岡吉利支丹供養碑」は、富岡城の麓にある。寛永14年(1637)の天草・島原の乱で討死した一揆軍の首三千余りが葬られ、正保4年(1647)に富岡の代官、鈴木重成の手によって供養碑が建てられ霊を慰めたそうな。余談だがその供養塔は、原城の供養塔と一対になっているとか。梵字で片方は「マン」もう一方は「タン」となっているそうな。
記録:右近・夏 2002
天草では「島原の乱」と言わず「天草・島原の乱」と言うそうな。
記録:右近 2002
高浜村の庄屋、上田家は、真田の根津氏が大阪の陣のあと、この地に流れ着き地元の上田を名字としたそうな。
記録:右近 2002
慶長6年2月に天草は肥前唐津城主寺沢広高の領地となり、天草統治の拠点として富岡の地に築城し代官を置き支配した。寛永14年(1637)10月25日、幕府を震憾させた天草島原の乱勃発し、乱の鎮圧にあたった富岡城番代の三宅籐兵衛は討死し、富岡城も一揆勢から攻撃を受けた。
記録:林田公範 1999
肥後天草でありながら肥前唐津の寺沢氏の領地だったそうであるが、天草統治のために築いたこの富岡城は唐津城と周りの景観や縄張りが似ているように思えるのは気のせいか?
記録:林田公範 1999
城跡の麓にあり、防御を高めるために造られた百間土手と呼ばれる付近から城山の頂きを見上げると立派な石垣が見受けられ壮観。この百間土手で仕切られている池が内堀にあたる。
記録:林田公範 1999