写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
富岡城の撮影スポット・絶景ポイント
富岡城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、富岡城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。富岡城周辺の観光スポット・史跡めぐり
小西配下の軍勢と加藤清正らが戦った古戦場址に面白くも怖い仏木坂古戦場跡(本渡市までの広域農道上にある)。もっとも近い城では志岐城。また、富岡城の麓には、城の構造が見られる鎮道寺(勝海舟の落書きあり。落書きを見るには予約が必要)、鈴木重成像、富岡吉利支丹供養碑がある。
[林田公範 (1999.11.24)]
富岡城アクセス・駐車場・営業時間
富岡城:城ファンの知見と記録
富岡城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全8件)。
富岡城での発見を記録に残しませんか?
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年より日本各地の城郭を訪ね歩き、取材と撮影を続けている。「先人たちの知恵とおしゃれ心」をテーマに、四半世紀にわたり城のたたずまいと土地の風土を記録してきた。撮影を通して城郭に宿る美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に残る歴史の息づかいを伝えている。作品は書籍、テレビ、新聞など多くのメディアで紹介され、城の美しさと文化を広く発信している。







富岡城は歴史上、大きく分けて次のような顔を持っていたようです。
富岡城では2度戦いが行われ、最初は天正17年(1589)の加藤清正と小西行長の連合軍と、天草五人衆との「天正天草合戦」でした。
2度目は、徳川3代将軍家光の時代に勃発した、島原・天草一揆でした。急峻な小高い丘の上にある富岡城の地理的条件が一揆勢の侵攻を阻み、その後の徳川幕府の安定につながりました。
江戸時代を通じて約270年間、富岡は天草の行政、経済、文化の中心地となりましたが、明治維新後、行政の中心は本渡に移りました。
現在の富岡城は、約10年間をかけて発掘調査が行われた後、平成17年4月に復元され、本丸跡は熊本県の富岡ビジターセンターとして活用されています。さらに平成27年7月には二の丸の角櫓、長屋等が復元され、長屋は苓北町歴史資料館として開館しています。
本丸をはじめ二の丸など発掘調査の成果を踏まえての石垣、櫓の復元工事が行われており、2005年2月現在、ふもとから登城することができない。4月23・24日にオープニングイベントが予定されており、その後一般公開される予定。
天草各地には「千人塚」と呼ばれる乱の供養塔があるが「富岡吉利支丹供養碑」は、富岡城の麓にある。寛永14年(1637)の天草・島原の乱で討死した一揆軍の首三千余りが葬られ、正保4年(1647)に富岡の代官、鈴木重成の手によって供養碑が建てられ霊を慰めたそうな。余談だがその供養塔は、原城の供養塔と一対になっているとか。梵字で片方は「マン」もう一方は「タン」となっているそうな。
天草では「島原の乱」と言わず「天草・島原の乱」と言うそうな。
高浜村の庄屋、上田家は、真田の根津氏が大阪の陣のあと、この地に流れ着き地元の上田を名字としたそうな。
慶長6年2月に天草は肥前唐津城主寺沢広高の領地となり、天草統治の拠点として富岡の地に築城し代官を置き支配した。寛永14年(1637)10月25日、幕府を震憾させた天草島原の乱勃発し、乱の鎮圧にあたった富岡城番代の三宅籐兵衛は討死し、富岡城も一揆勢から攻撃を受けた。
肥後天草でありながら肥前唐津の寺沢氏の領地だったそうであるが、天草統治のために築いたこの富岡城は唐津城と周りの景観や縄張りが似ているように思えるのは気のせいか?
城跡の麓にあり、防御を高めるために造られた百間土手と呼ばれる付近から城山の頂きを見上げると立派な石垣が見受けられ壮観。この百間土手で仕切られている池が内堀にあたる。