写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン

九戸城の歴史と見どころ

九戸城(くのへじょう)は、馬淵川・白鳥川・猫淵川の三河川に囲まれた高台に築かれた平山城で、陸奥国北部を治めた九戸氏の本拠であった。『岩手県史』によると、明応年間(1492〜1501)頃に九戸光政が築いたとされ、その後、政実の代に全盛期を迎えた。九戸氏は久慈氏や浄法寺氏など近隣豪族と婚姻を重ねて勢力を拡大し、北上川流域にも進出していた。

天正8年(1580)頃、三戸南部氏の家督をめぐり、南部晴政の後継として信直が立てられると、政実はこれに反発し、両者の対立が深まった。天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻め後、奥州仕置が行われると、翌年、政実は再び挙兵して南部信直に叛旗を翻した。九戸勢は周辺諸城を攻め落とすも、秀吉の命を受けた蒲生氏郷・浅野長政ら三万余の大軍が出陣し、天正19年(1591)9月、九戸城を包囲した。およそ五千の籠城軍は奮戦したが、4日後、説得に応じて政実は降伏し、のちに処刑された。この戦いをもって奥州の動乱は収束し、豊臣政権による統一が完成した。

その後、南部信直は九戸城を修築して福岡城と改め、本拠を移したが、子の利直が盛岡城を築くと寛永13年(1636)に廃城となった。いまは国指定史跡として整備が進められている。

九戸城の特徴と構造

九戸城は比高約20mの台地上に築かれ、規模は東西約850m・南北約650mに及ぶ。白鳥川縁の段丘上に本丸・二の丸・三の丸・石沢館・若狭館が東西に連なり、南には深田堀と松の丸・在府小路があった。

本丸は南北約120m・東西約80mで、南面に折れのある石垣と櫓跡をもつ堅固な構えを示す。追手門は東面中央に枡形を備え、内部には井戸跡が残る。二の丸は本丸の倍の面積をもち、土塁と空堀で囲まれ、大手門・搦手門跡が確認される。

松の丸は南部信直の居館跡と伝えられ、自然の沢を堀として利用する巧みな縄張が特徴だ。現在は土塁・石垣・空堀などがよく保存され、戦国末期の城郭構造を今に伝えている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系2』(新人物往来社)
  • 「九戸城跡ガイド」二戸市Webサイト

九戸城の周辺史跡を訪ねて

九戸城の周辺には、戦国末期の九戸合戦を偲ばせる史跡がいくつも残る。城の北方に立つ九戸政実戦没者供養塔(薩夭和尚供養碑)は、降伏後に処刑された政実らを弔うため、九戸氏の菩提寺・長興寺の僧薩夭によって建てられたと伝わる。長興寺には九戸政実の供養塔や家臣殉節碑も残り、今も地元の人々が手を合わせる。

また、城の南に鎮座する福岡八幡宮は、南部信直が城下の守護神として再建したとされ、のちの福岡町(現・二戸市)の町並み形成を物語る。これらの史跡を巡れば、北奥の乱世を生きた武士たちの記憶が、静かな山河のなかに今も息づいていることを感じられる。

九戸城の観光情報・アクセス

所在地

住所:岩手県二戸市福岡城ノ内 [MAP] 県別一覧[岩手県]

電話0195-23-3111(二戸市観光課)

アクセス

鉄道利用

東北新幹線・IGRいわて銀河鉄道「二戸駅」から徒歩約35分。または、JRバス二戸病院・軽米病院行、または、岩手県北バス伊保内営業所行「呑香稲荷神社前」降車、徒歩5分。

マイカー利用

八戸自動車道「一戸IC」から国道4号を北上し約4.5km(約8分)。無料駐車場有り(10台)。

九戸城:城ファンたちの記憶

実際に九戸城を訪れた城ファンの皆さまが綴る、印象に残った景色、人との出会い、歴史メモ、旅のハプニングなど、心に残る旅の記憶を共有しています(全5件)。

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    九戸城は、近世的な本丸、二の丸と、中世の奥州の様式を引き継いだ独立した郭(館)の配置のミックスが面白いと思いました。石垣が草に隠れて見えにくいのが残念ですが、当時の威容を感じることはできます。

    yammy)

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    二戸の九戸城は、南部家の庶流で一族随一の武闘集団を率いる九戸政実が、秀吉の奥州仕置きに対抗して豊臣政権に対する最後の反乱を起こした拠点として有名です(九戸合戦はご存知と思います)。二戸市埋蔵文化財センターが今月の15日にリニューアルオープンしました。入館者第1号は私です。そこへ行かれると九戸合戦のビデオがあります。それを見てから九戸城を回るとまた一味ちがうと思います。

    kimura)

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    九戸城まずは「松の丸」へ。九戸政実の乱後、南部信直が入った場所と言われています。当時は四周を土塁で囲まれていたのでしょうか。東の「在府小路」と呼ばれる一帯とは深い堀で隔てられ、わずかに土橋でつながっているのみです(好感触!)本城との間の堀(現在道路)には資料を入れたポストが立っています。
    本城は天正19年(1591)の乱後に蒲生氏郷の手によって縄張りが改められたといわれ、石垣をベースにした計画性の高いほぼ方形の主郭を副郭が三方から覆っています。主郭の虎口は二つ(内枡形と橋虎口)あり、まさに中央権力による進出の象徴ともいえるでしょう(九戸氏時代の縄張りはどのようなものであったのかに関心あり)。旧態を残した若狭曲輪や意外と多い帯曲輪などを見終えてから、川向こうの市役所から城址を一望「もう一度来よう!」

    Toya Hodaka)

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    九戸城は三戸南部宗家の後継をめぐって南部信直を対立した九戸政実の居城です。天正18年(1590)政実は信直に叛逆しましたが、秀吉の送った奥州再仕置のための軍により落城しました。その後、信直は三戸城から九戸城に移り、修築を施して福岡城と称して本拠としましたが、その子利直の時に盛岡城に移り、寛永13年(1636)に廃城となりました。九戸城は二戸市街から少し東側に入った高台にありますが、各郭ごと、あるいは要所要所に説明板がありとても親切です。まずは二の丸搦手門跡の方に行くと、九戸合戦で亡くなった人たちの慰霊碑がありました。搦手門跡から降りると、その先は石沢館(外館)跡で二の丸との間にかなり大きな空堀がありました。
    ふたたび二の丸に戻り、そのあと本丸・二の丸周辺を探索しましたが、草がかなり隠れているものの各所に石垣が認められましたし、本丸・二の丸間の堀もかなり大きく、かつての偉容を想像できました。
    周辺の石沢館・若狭館などは不整形な郭で、いかにも中世の城跡という感じで浪岡城や後から行くことになる八戸根城などを連想させましたが、本丸・二の丸間の堀はきれいにまっすぐに掘られ、本丸はほぼ方形になっており近世城郭の雰囲気が漂っていました。たぶん本丸部分は蒲生氏郷による修築時に改造されたものなのでしょう。
    最後に大手口の少し手前に「堀跡」の標柱がありますが、その説明によるとこの堀跡は二の丸と松の丸を隔てる堀で幅が60mもあるそうです。ですから、広い堀跡の真ん中を道路が走っているということになります。これまた、九戸城の規模の大きさを感じさせました。

    窪田 剛)

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    奥州仕置きにより南部信直の家臣筋になった南部(九戸)政実が九戸の乱を起こした城。乱後、蒲生氏郷が改修し、南部信直が入城。福岡城と改名した。松の丸と二の丸、本丸の間の道路(昔のおお空掘)を上がり、左折すると大手口にあたる。ここに車を止め城内にはいる。2の丸から土橋あとを通り、本丸あとへ。石垣、天守台あともかなり迫るものがある。再び2の丸を経てからめでから三の丸に入る。本丸と同じ位の空き地がある。規模からすると盛岡城と同じくらいである。国の史跡になっており、よく整備されている。水洗トイレもあり、女性もok。日陰がないので、夏はかなり暑いです。

    田村靖典)

城の情報

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