帰雲城の歴史・見どころ

帰雲城(かえりくもじょう)は、現在の岐阜県大野郡白川村保木脇付近に築かれた山城で、白川郷を支配した内ヶ島氏の本拠として知られる。白川郷は庄川が南北に流れる山深い地域で、北は越中、西は加賀に接する交通の要地だった。

内ヶ島氏の祖とされる内ヶ島為氏は、寛正元年(1460)に信濃松代から白川郷へ進出し、まず牧戸城を築いて勢力を広げたと伝えられる。その後、寛正5年(1464)頃に保木脇の地へ進み、帰雲城を築いて居城を移したとされる。これ以降、内ヶ島氏は白川郷を中心に川上郷や郡上郡北部、越中の一部にまで勢力を伸ばした。

当時の白川郷では一向宗の勢力が強く、鳩谷道場を拠点とする門徒集団が存在していた。文明7年(1475)、為氏はこの勢力を抑えるため鳩谷道場へ兵を進めたが、門徒と三島将監教信の抵抗に遭い、一度は越中へ退いたという。その後、再び兵を集めて道場を攻撃し、教信は敗れて逃れ、寺主明教は自害したと伝えられる。

為氏の後、城主の座は四代にわたって受け継がれ、最後の城主となる氏理(うじよし)の時代に悲劇が訪れる。天正13年(1585)、羽柴秀吉の命を受けた金森長近が飛騨へ侵攻した際、氏理は越中の佐々成政を支援して出兵中だった。氏理は帰国後、金森長近に降伏して帰雲城へ戻ることを許された。しかし安堵もつかの間、わずか3か月後の同年11月29日、北陸一帯を襲った大地震によって帰雲山が大崩落を起こした。山崩れによる土砂と洪水によって城と城下は一瞬にして埋没し、内ヶ島氏一族や家臣をはじめ、城下の300余軒、推定500人余りから牛馬にいたるまでが犠牲になったと伝えられている。この未曾有の災害によって内ヶ島氏は滅亡し、帰雲城もまた歴史の中に深く埋もれることとなった。

帰雲城の特徴と構造

帰雲城は庄川右岸、帰雲山を背にした山腹一帯に築かれていたとみられる山城である。白川郷の中央付近に位置し、庄川流域を押さえる要地に立地していた。

しかし天正13年(1585)の大地震による山崩れで城地は完全に埋没したため、曲輪配置や堀切など具体的な縄張構造は現在まで明らかになっていない。城の標高や規模も判然とせず、当時の城郭遺構は残されていない。

現在、帰雲山周辺には大規模な崩壊地形が残り、これが当時の地震による山崩れの跡と考えられている。帰雲城は、城郭遺構がほとんど確認できないものの、天正地震によって城と城下町が一夜にして消滅した城として、戦国史の中でも特異な存在として知られている。

帰雲城の整備状況と伝承

帰雲城跡は現在も埋没したままとされ、城郭遺構は確認されていないが、帰雲山の崩壊地周辺は公園として整備されている。観音像や祠などが建立され、帰雲城と内ヶ島氏の霊を慰め、その歴史を伝える場所として訪れることができる。

また、白川村では帰雲城に関する伝承や歴史を紹介する案内板が設置されており、「幻の城」とも呼ばれる帰雲城の物語を今に伝えている。周囲には庄川の渓谷と山々の景観が広がり、かつて城と城下町が存在したとされる場所の地形を肌で感じることができる。

さらに、かつて金銀を産出した白川郷だけに、一夜にして埋没した帰雲城には**「内ヶ島氏が蓄えた莫大な黄金が眠っている」という埋蔵金伝説**も残されている。消えた城と黄金の物語は、今なお多くの人々のロマンを掻き立てている。

  • 『日本城郭大系9』(新人物往来社)
  • 白川村Webサイト「幻の帰雲城」

帰雲城周辺の観光スポット・史跡めぐり

白川郷合掌造り集落。城ではその集落の先、国道156線から360号線に入ったあたりにある萩町城跡。

帰雲城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:岐阜県大野郡白川村保木脇 [地図を見る]

県別一覧:[岐阜県の城]

電話5769-6-1311(白川村役場)

アクセス

鉄道利用

長良川鉄道越美南線、北濃駅下車、バス「保木脇」降車。

マイカー利用

東海北陸道荘川ICから国道156号を北上。

地図