諏訪原城は、永禄12年(1569)に武田信玄が遠江侵攻の前進拠点として築いた戦国期の城。牧之原台地北端に築かれ、本丸を中心に二の丸・三の丸が扇状に展開する縄張りと深い空堀、馬出し曲輪を備える武田流築城が特徴。現在も土塁や空堀などの遺構が良好に残り、台地の地形とともに城の規模を体感できる。このページでは諏訪原城の歴史や構造、見どころを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
諏訪原城の歴史と見どころ
諏訪原城(すわはらじょう)は、牧之原台地北端、旧東海道と大井川にはさまれた位置に築かれた戦国期の城である。永禄12年(1569)、武田信玄が遠江侵攻の前進拠点として築城し、馬場美濃守信房が初代城主となった。城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城となったという。城は大井川を背に西へ向けて構えられ、金谷の市街地からは比高148mを測る一方、広大な牧之原台地側からは平城のようにも見える特異な立地を持つ。
築城直後、徳川方は安倍の金掘りを用いて外郭から二の丸に至る坑道を掘り進め、これを攻略した。その後、天正元年(1573)、武田勝頼は高天神城奪取を目的として武田信豊・馬場信房に命じて城を再築し、今福丹波守顕倍を守将とした。天正3年(1575)6月、徳川家康は掛川城入城後、諏訪原城を包囲し、松平忠正が亀甲曲輪を攻略するなど戦況は緊迫する。同年8月24日、約二か月に及ぶ攻囲の末、武田方は夜陰に乗じて城を退去し、小山城へ撤退したのち家康が入城した。
家康は城名を牧野原城と改め、松平康親を城将に据える。以後、天正6年(1578)以降は松平家忠らにより修築が重ねられ、兵糧集積や防備の強化が進められた。しかし天正10年(1582)、康親が三枚橋城へ移ると諏訪原城は明き城となり、天正17年(1589)頃までに廃城となったと考えられる。高天神城への兵站中継と、遠江情勢を甲斐へ伝える連絡拠点として、諏訪原城は重要な役割を担っていた。
諏訪原城の特徴と構造
諏訪原城は台地先端部を利用した台城で、本丸を要に二の丸・三の丸を前面へ展開する扇状の縄張りを持ち、「扇城」とも呼ばれる。主要部だけで東西約450m、南北約420mに及び、外郭を含めると東西約1.4km、南北約0.6kmに達する大規模城郭である。
本丸は東西104m、南北88mの方形郭で、幅10〜15mの土塁が巡る。北東隅には物見櫓台とみられる張り出しがあり、背後には腰曲輪が付属する。二の丸は本丸西前面に位置し、三の丸はさらに南へ続き、複数の郭が土塁と空堀で厳密に区画されている。空堀は幅15m前後、深さ6〜8mに達し、要所には馬出し曲輪(三日月堀)を備える。深い空堀と曲輪の重なりが、武田流縄張りの特色を現在まで明瞭に伝えている。
諏訪原城の整備状況
諏訪原城跡は昭和50年(1975)に国指定史跡となり保存が図られてきた。本丸・二の丸・三の丸を中心に、土塁や空堀など主要な遺構が良好な状態で残され、城域を歩いて体感できる環境が保たれている。現地には解説板が設けられ、扇状縄張りや馬出しなどの構造を理解しやすい。大規模な復元整備は行われていないが、2017年に二の曲輪北馬出の薬医門が木造復元されている。地形と遺構を生かした史跡保存が重視され、武田氏の築城技術を伝える貴重な城跡として活用されている。
参考文献:
- 『日本城郭大系9』(新人物往来社)
- 「諏訪原城跡」島田市博物館Webサイト
諏訪原城の撮影スポットと絶景
諏訪原城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、諏訪原城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。諏訪原城とあわせて訪ねたい史跡
東海道五十三次の復元石畳
諏訪原城の南麓には、金谷宿を出て牧之原台地へ上る東海道の道筋を伝える復元石畳が点在する。この区間は大井川渡河後に続く長い上りとして知られ、旅人が牧之原を越えて間宿菊川方面へ向かった往時の行程を今に伝えている。
近郊の城
諏訪原城の周辺には、戦国期の遠江・駿河の情勢を理解するうえで欠かせない城跡が点在する。武田氏の遠江支配の中核であった高天神城は、諏訪原城が兵站・監視の拠点として支えた存在である。また、天正3年(1575)の落城時に諏訪原城の城兵が退去した小山城も、大井川下流域の防衛を考えるうえで重要な城跡といえる。
さらに、徳川方の前線拠点であった田中城、遠江支配の中心となった掛川城などをあわせて巡ることで、諏訪原城が置かれた軍事的・地理的な位置づけが、より立体的に浮かび上がる。
諏訪原城の観光情報とアクセス
所在地
TEL:0547-36-7967(島田市教育委員会文化課)
- 公式サイト「諏訪原城跡」(島田市博物館)
諏訪原城ビジターセンター 開館時間
諏訪原城は散策自由。「諏訪原城ビジターセンター」は、10時〜16時まで。月曜(月曜が祝日の場合翌火曜)・年末年始休館。入館無料。
アクセス
鉄道利用
JR東海道本線、金谷駅下車、西へ徒歩10分。
マイカー利用
新東名高速、島田金谷ICから、南へ約11分(5.8km)。または、東名高速道路、相良牧之原ICから、北へ約12分(8km)。「諏訪原城ビジターセンター」を目指す。無料駐車場有り。
諏訪原城:城ファンの知見と記録
諏訪原城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全6件)。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年より日本各地の城郭を訪ね歩き、取材と撮影を続けている。「先人たちの知恵とおしゃれ心」をテーマに、四半世紀にわたり城のたたずまいと土地の風土を記録してきた。撮影を通して城郭に宿る美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に残る歴史の息づかいを伝えている。作品は書籍、テレビ、新聞など多くのメディアで紹介され、城の美しさと文化を広く発信している。







2017年3月28日、諏訪原城にて二の曲輪北馬出の城門が木造復元された。復元された城門は、薬医門で高さ約3.5m、事業費は約2,100万円とのこと。
平成25年より史跡整備事業が始まりました。二の曲輪中馬出から外堀周辺の立ち木が伐採され丸馬出がとても見やすくなりました。武田氏から徳川氏にかけての見ごたえのある土の城です。平成27年秋からは、二の曲輪東馬出の発掘調査が始まります。平日に行くと発掘調査の様子が見られます。冬の晴れた日は、本曲輪から富士山がきれいに見れます。今後は発掘調査を元に二の曲輪北馬出の薬医門や土塁の復元計画があります。また、見学用の駐車場とトイレが整備されました。
5つの三日月掘りの内側に出丸が5つ確認できる。二の丸外の出丸の北側にさらに出丸があり、その外郭に並べられた石が多数ある。ここが、家臣の屋敷あとか。とにかく三日月掘りの深さに驚きました。私は、全てを見るのに3周し、2時間半かかりました。最初の三日月掘で、多数の蚊に歓迎されましたが、持参した殺虫剤が役にたちました。
東海道五十三次の復元石畳があります(疲れます)。石畳はJR金谷駅より徒歩5分。
設計(縄張り)は、馬場美濃守。元亀4年(1573)、高天神城の抑えとして築城され、天正2年(1574)、高天神城落城(徳川→武田)しかし、高天神城を最奪還するために、天正3年(1575)、徳川家康にて落城。ちなみに天正9年(1581)、高天神城落城(武田→徳川)。天正4年(1576)、新府城落城(新府城跡は、ほんと何もない。さすがにプロでもきつい)。
自称、城跡散策のプロであれば、1度は見るべき城跡です。山城で空掘りしか残っていないのですが、大小さまざまな三日月空堀が現存しており、十分堪能できます。しかし、天守閣は何も残っていませんので初心者には勧められません(小谷城見て感激した人でないとだめでしょう)。城跡のレベルですが「国指定」です。あと、城跡の中に茶畑あるので茶畑の中をあるきながら散策します。駐車場とか無いにひとしく、こんな所だからこそ、現存していたと思います。一回り30分ほど歩きます。