写真:岡 泰行
鳥取城の歴史と見どころ
鳥取城は、標高263mの久松山とその麓に築かれた戦国~江戸期の名城。秀吉の兵糧攻め、吉川経家の自刃など戦国の荒波を越えて近世の城郭へと姿を変えていく。江戸時代、池田家の居城として整備され、明治にはその役目を終えたが、令和の今、復元整備が進み、ふたたび歴史の舞台へと立ち現れている。鳥取城は、今もなお歴史の舞台として多くの遺構を残している。本ページでは鳥取城の歴史と見どころを紹介する。
鳥取城の歴史
鳥取城(とっとりじょう)は、標高263mの久松山(きゅうしょうざん)と、その山麓に築かれた城だ。秀吉の兵糧攻め以降、江戸時代を通じて近世城郭として変貌を遂げた。
天正8年(1580)、織田信長配下の羽柴秀吉が因幡侵攻を行った。時の城主、山名豊国(やまなとよくに)が降伏しようとしたため重臣たちにより追放、毛利家から吉川経家(きっかわつねいえ)を招いて徹底抗戦を行うこととなる。経家軍は、農民や町人を含みわずか4千、秀吉軍は12万の大軍だったといわれている。当時は久松山に城があり死角の無い完全な山城だったという。
鳥取城は二度にわたり攻められた。この二度目の城攻めの時、羽柴秀吉が3ヶ月以上、城を包囲する兵糧攻めを行い、多くの餓死者が出た。これを鳥取の「渇(かつ)え殺し」という。鳥取城主だった吉川経家は、城兵や民衆の命を助けることを条件に自刃し、城は開城した。
秀吉配下の宮部継潤が入る。この時、山上ノ丸を中心に石垣を用いた改修がなされた。時を経て、関ヶ原の戦いの後、姫路城の池田輝政の弟にあたる池田長吉が入封、大坂の役の後は、姫路城主池田光政が鳥取へ入封し、元和3年(1617)、二の丸、三の丸、天球丸を備えた近世城郭へと大改修を行った。寛永9年(1632)、池田光仲が入封して以降は池田家が代々藩主を務め明治を迎えている。
明治には、当初、陸軍が管轄するなどしたが、明治12年(1879)には建物を撤去される。三の丸など一部は学校用地となり、仁風閣(国の重要文化財)が建てられた。大正12年(1923)、旧藩主の鳥取池田家が久松公園を開設する。その後、昭和18年(1943)の鳥取大震災を機に鳥取市へと寄贈された。昭和32年(1957)には国の史跡に登録されている。
平成18年(2006)、鳥取市は鳥取城整備計画を策定、建物復元など長期的な整備が始まった。発掘調査の上、大手門にあたる「中ノ御門表門(なかのごもんおもてもん)」が、令和3年(2021)に復元された。歴史観光地として久松山、山麓の二の丸跡などの曲輪、秀吉が陣を構えた太閤ヶ平(たいこうがなる)(土塁や空掘が残る)を合わせた観光訴求がなされている。
2025年3月、鳥取城の大手門の復元が完了、4月27日に開門式があった。大手門は渡櫓門で享保5年(1720)の大火で焼失。その後、再建されるも明治を迎え解体された。表門は2021年3月、渡櫓門は2025年3月に復元され、中ノ御門が完成したかたちとなった。
参考文献:『国指定史跡 日本百名城 鳥取城跡』(鳥取市)、『探訪日本の城6 山陰の城』(小学館)
鳥取城の特徴と構造
鳥取城は、標高263mの久松山(きゅうしょうざん)山頂に築かれた「山上ノ丸(さんじょうのまる)」と山麓に築かれた「山下ノ丸(さんげのまる)」から成る。山下ノ丸の中心だった二の丸の建物は、池田光政の創建とされ、祖父、池田輝政が姫路城大天守を築いた約10年後に、同職人たちが関わったと想定されている。
中ノ御門
鳥取城の山下ノ丸、大手門にあたる「中ノ御門」の全域が発掘調査の上、2025年3月、復元された(4月26日開門)。擬宝珠橋から渡り、表門は高麗門(写真右)、渡櫓門は二階櫓門(写真左)となっており、門扉はすかし門となっている。
二ノ丸三階櫓跡
山頂の山上ノ丸には天守があったが落雷で焼失する。その後、山下ノ丸にある二ノ丸三階櫓が城の象徴的存在となった。山陰地方唯一の層塔型の櫓だった。明治維新後に取り壊され、現在は櫓台の石垣のみが残る。石垣には「お左近(鳥取城改築で活躍した女中)の手水鉢」という転用石が見られる。鳥取市は三階櫓の復元について、大手登城路の復元後は重機を入れにくいため、三階櫓の復元を急ぐ方針だ。
西坂下御門
西坂下御門は慶応3年(1867)に創建の門だが、昭和50年(1975)の台風で倒壊し、その後、復元された。中ノ御門が復元されるまで、鳥取城の顔だった。
久松山の「山上ノ丸」
久松山の山頂「山上ノ丸」は、秀吉配下の宮部継潤が石垣造りに改修した。天守、本丸、二ノ丸、三ノ丸、出丸で構成されていた。山上ノ丸にはこれらの曲輪跡が残る。山頂からは鳥取市街が一望できるほか、遠く鳥取砂丘や日本海が見られる。
天球丸
池田光政が改修を行った曲輪のひとつ「天球丸」。石垣の補強を目的に江戸時代に築かれた巻石垣は、球面の石垣で全国で鳥取城のみの珍しいものだ。
太閤ヶ平
因幡侵攻で秀吉が陣を構えた「太閤ヶ平(たいこうがなる)」。本陣山の山頂にあり、広大な削平地と土塁、防衛ラインである二重竪堀などが残る。
登山道について、鳥取市Webサイトにて解りやすいルートマップが用意されているので参照すると良い。麓の城跡を見て山上ノ丸である久松山まで登り、太閤ヶ平まで進むルートは、およそ3〜4時間のコースとなる。また、太閤ヶ平のみだと、栗溪神社脇の登山道が片道1時間ほどと最短距離で緩やかだ。なお、現地では熊も出没するため、その対策を忘れずに。
鳥取城の関連書籍
現地で無料でGETできる『国指定史跡 日本百名城 鳥取城跡』は、小さくまとまり歩きやすく創られている優れもの。無料パンフではそのほか、復元修復系では『中ノ御門 完成記念開門式』『よみがえった擬宝珠橋』『鳥取城跡の石垣修復』などがある。
より詳細な一冊としては『鳥取城のあゆみ』(2023鳥取市文化財団 鳥取市歴史博物館)が良い。戦国時代以前から、江戸時代、近世、現代まで鳥取城の歩みが解る。豊富な絵図と図面や写真を用い見どころをつぶさに解説している。この冊子に掲載されている挿絵写真は、どなたが撮影したか存じ上げないが、時間をかけ丁寧に撮影されている。ここまで造形を持った写真で構成される解説書は、他に見たことがない。
鳥取城の関連史跡
鳥取城の城下には、いわゆる重伝建に指定されるような、往時の城下町の風情を色濃く残す地区は見られない。これは、時代の変化に伴う取り壊しに加え、鳥取大火や鳥取地震といった天災の影響も重なったことが一因と考えられる。しかし、そのような中にあっても、城と深い関わりを持つ史跡は今なお各所に点在し、静かに往時の面影を伝えている。歩みを進めれば、かつての気配がふと香り立つ瞬間がある。
箕浦家武家門
上級武士の箕浦近江宅の武家長屋門で城に隣接していたが昭和11年(1936)に現在地に移築された。鳥取に現存する唯一の武家長屋門。鳥取市指定保護文化財に指定されている。
吉川経家公墓所
羽柴秀吉による因幡侵攻前に、それまで城主だった山名豊国が追放され、毛利家一族である吉川経家が鳥取城主となった。経家はこの戦いで自刃する。円護寺の飛び地に五輪塔の墓が残る。
赤松八幡宮跡
竹田城の赤松広英が鳥取城攻めで城下焼き討ちの度が過ぎたとして切腹しその霊が祀られている(享年39)。山麓に残る小さな八幡宮だ。
鳥取藩池田家墓所
鳥取市国府町奥谷に鳥取藩初代藩主、池田光仲から11代の墓がある。78基の墓碑と260基をこえる灯籠が立ち並び、広大な墓地から当時の威厳というものが伝わってくる。
鳥取東照宮
鳥取藩初代藩主池田光仲によって造営された。因幡東照宮ともいう。唐門や拝殿などは国の重要文化財に指定されている。神門は武家屋敷門の移築。
武家屋敷 鳥取藩士 岡崎可之邸
鳥取に残る武家屋敷。現在、調査がなされ、武家屋敷として貴重な遺構であることが分かっている。整備されている状態ではないため、改編された外観のみ観ることができる。以後の保存整備を期待したい。
鳥取市歴史博物館 やまびこ館
山陰の守護大名山名氏、秀吉の鳥取城攻め、豊臣政権下の因幡など、常設展のパネル展示で知ることができる。先の『鳥取城のあゆみ』(2023鳥取市文化財団 鳥取市歴史博物館)もこちらで販売されている。
近隣の主要な城
歴史香る鹿野城、気軽に車でアクセスできる河原城(丸山城跡)、国指定史跡の若狭鬼ヶ城など。
鳥取城のおすすめ旅グルメ
11月~3月は松葉がに(カニ料理)が良いけど高いかも。また「くみ割烹店」では鳥取和牛を「すすぎ鍋」と呼ばれるしゃぶしゃぶで。場所は鳥取市栄町。
鳥取城のめぐり最適ホテル
JR鳥取駅近郊にビジネルホテル多数あり。
鳥取城のアクセス・所在地
所在地
住所:鳥取県鳥取市東町2丁目 [MAP] 県別一覧[鳥取県]
電話:0857-26-0756(一般社団法人鳥取市観光コンベンション協会)
- 国指定史跡「史跡鳥取城跡附太閤ヶ平」(鳥取市教育委員会文化財課)
アクセス
鉄道利用
JR山陰本線、鳥取駅下車、バス砂丘、湖山、賀露行き10分「西町」降車、徒歩5分。
マイカー利用
中国横断自動車道、鳥取ICから約15分(6.4km)。無料駐車場有り。吉川経家公像前にある鳥取県庁北側駐車場が最も便利。
初めて鳥取城を訪れた20年前に、古い本に、久松山へのアクセスにロープウェイの記載があり、鳥取駅からタクシーに乗り「ロープウェイ乗り場まで」と言い、驚かれたことがあります。もうかなり前に無くなっていたそうで、昭和44年(1969)に開業し約5年で無くなったそうです。
( カンダタ)さんより
鳥取城とは関係無いが、羽衣石城址から南東へ車ですぐの所、21号線沿いにある「三徳山三佛寺」(ミトクサン・サンブツジ)には、西暦706年に役の行者(エンノギョウジャ)が断崖絶壁に建てたといわれる投入堂(ナゲイレドウ)という御堂があります。ロープや鎖を伝いながら400メートル以上ひたすらよじ登ると、この御堂が現れる。21号線上には、この御堂を見るための望遠鏡まで設置されています。とにかく必見です。修験道の開祖である役小角(エンノオヅヌ)が法力で岩屋へ投げ入れたという伝説があって、8世紀にどうやってあんな絶壁に建てたのか今もって謎だそうだ。私はここに登って体力を使い切ったせいで、羽衣石城には行けませんでした。
( じゅん)さんより
羽柴秀吉による兵糧攻めで有名。「播州三木の干殺し」や「鳥取の渇殺し」など有名だが、その鳥取城はここ。山頂の井戸がなにかを物語っているようにさえ見える。
( 半兵衛)さんより
鳥取駅から見える山、久松山(きゅうしょうざん)海抜260mがそれ。麓に屋敷跡と思われ遺構と山頂に天守台跡などの山城の遺構を合わせ持つ城。山城から平地の城への変貌期によく見られるお城の形態だ。また、山城が詰めの城として機能させる形態としても同様によく見られる。余談だが久松山の峰の一つに本陣山と呼ばれている山がある。これは秀吉が鳥取城を攻めたときの本陣跡で、別名太閣平とも呼ばれているらしい。
( 半兵衛)さんより
現在は公園化され、麓の石垣の整備がされている。とてつもなく新しい石で積み直しを行っているようで、あまり当時の面影をしのぶことはできない。20年前の本など開くと、昔は山頂つまり、本丸までロープウェイがあったようで、そこそこ観光客の姿も見られたが今はその面影もない。なんだか寂しい城跡だ。
( 半兵衛)さんより
丸の内に仁風閣や県立博物館、三の丸には鳥取西高校がある。石垣の上に建つ校舎がなんとも言えない。
( 半兵衛)さんより
山頂はあまり整備がされておらず見物だ。井戸、三の丸の石垣や多聞櫓跡、天守台礎石などが確認できる。建造物はなく、その跡のみ残る。地元で簡単なハイキングコースになっていて人が入れない山という訳ではない。お城ファンにとっては麓の石垣郡よりも山頂がおすすめかも。
( 半兵衛)さんより
麓の石垣郡などの縄張りは、秀吉の兵糧攻めの後、入封した池田長吉によるものが多い。長吉の内室の侍女おさごが築城の際、工事の音頭をとり、作業がはかどったといわれるが、侍女おさごが石材にと、寄進した手洗鉢が二の丸三階櫓台に埋められているらしい。
( 半兵衛)さんより
『鳥取城跡』さすが、外様大名では石高第9位(池田家32万石、当初9万石)の城だけあって、規模が大きい!城は久松山(標高263m)に築かれ、独立峰で四方断崖の堅固な城で、近世城郭の中では山城の遺構が残っている数少ない城跡ではないだろうか。何となく「萩城」に似ている。山上には天守(3重櫓)も存在していたが落雷で消失(1692年)したとのこと(残念)。総延長400mの現存する石垣軍は壮大なものだ。
「鳥取城」というと、秀吉の「飢え殺し」を思い浮かべる人が多いが、現在残っているのは江戸期の池田氏の遺構で、南の御門跡付近に勇ましい吉川経家公の像が建っており、わずかに当時の記憶がよみがえってくる(見た訳ではないが)。経家公はもともと石見国・福光城主の嫡男だったが、34歳の若さであっぱれなご最期であった。
清水宗治(備中高松城主)を始めとして、毛利家にはこのような義に厚い武将が数多くいるのは感心する(さすが毛利家)。周防国・岩国の吉香公園に行くと、民家の間に「吉川経家公忠魂碑」が建っており、岩国の吉川家とは別家だが、一門の誇り高き武将なのだ。
「三の丸」は鳥取西高校に占拠されほとんど遺構が無いが「二の丸」「天球丸」(初代城主池田長吉の姉・天球院に因む)の石垣はよく残る。「二の丸」は「本丸」として扱われ、特に「二の丸」御三階櫓跡から角櫓跡方向を望むのがお立ち台。鳥取城というとこの辺の石垣の写真が登場するが、これらは称して「山下の丸」と呼ばれる。
山頂(「山上の丸」)まで徒歩30分くらいかかり、かなりきつい。まるで「月山富田城」を思い出す。落城の原因は兵糧の欠乏に寄る所が大だが、兵糧があれば雪が積もり十分に持ちこたえられたようにも感じられるが(それであれば秀吉は別の手段を取っただろう)。
途中小さな郭が見られるが、山上には石垣が残り、3段の大きな郭が見られる。ここからの眺めは何とも素晴らしい。 鳥取市街地が広がり、北方には砂丘が見え、何とも爽快!昔は山の北西側にロープウェイがあったらしいが、あんまり登る人がいないので無くなったのでしょう。
( 毘・黒田)さんより
鳥取城ですが、中学時代はそのふもと近くの中学校へ通っておりました。部活のランニングコースがその久松山の往復だったりして。あれは大変でした。私の小学校のころから、鳥取西高校周辺の石垣整備やら、下の公園の整備やらをやっておりました。久松山の裏の方に誰かの大きなお墓があったのを記憶していますが、誰のだったでしょうかね? その時の自宅は鳥取砂丘(千代川河口の東側)あたり近くに住んでおり丸山、袋川沿いを通って、通っておりました。当時は天守のある城しか興味が無かったので、注意してみておりませんでしたが、今考えると面白い所にすんでいたのだなとつくづく思います。惜しい事をした。城跡に目覚めたのは近江、観音寺城址へ西国巡礼のついでにまわって以来ですかね。
( 因幡守)さんより
2006年現在、たった一つ木造の建築物が残る門。巨大な石垣群、秀吉の兵粮攻めという攻防のあった城。じっくりと散策し往時を思ってください。
( 篠崎)さんより
「箕浦家武家門」鳥取藩士屋敷の表門が県庁前に残る。その他、同じ鳥取県内では米子城が有名。とはいえほとんど島根との県境あたりに位置するので、有名城郭をセットでめぐるとすれば、鳥取城→米子城→松江城、それに月山富田城といったコースをとれば良いかも。
( カンダタ)さんより
鳥取城の戦いが起きたところ。秀吉が着陣した太閤ヶ平からは鳥取城の眺めがよく見える。石垣が丸くなっているところは、石垣の崩れ(風化)を防ぐため。ハイキングやジョギングが気持ちよくできそう。
( ぶたさん)さんより