芥川城(砦伝承地)は高槻市芥川町周辺にあったと伝わる小規模な砦で、江戸時代の絵図や古地誌に「城跡」や「城ノ上」と記されている。山中に築かれた戦国期の芥川城(芥川山城)とは別の存在とされ、地域防備や交通監視の施設だった可能性がある。現在は遺構は残らず、市街地の中に石碑が往時の記憶を伝えている。このページでは芥川城(砦伝承地)の伝承や史跡を豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
芥川城(砦伝承地)の歴史・見どころ
芥川町の砦伝承地「芥川城」
高槻市芥川町の一角には、江戸時代の絵図や古地誌に「芥川城」と記された砦跡が存在していたと伝わる。『芥川村絵図』や『高槻領分絵図』などには、市街地北西部に「城跡」や「城ノ上」といった表記が確認されており、芥川町周辺に小規模な防御施設が設けられていたことをうかがわせる。一説には芥川氏の居館跡とも伝わる。
ただし、これらは山中に遺構を残す戦国期の芥川城(芥川山城)とは明確に異なる存在であり、両者を混同しないよう注意が求められる。『芥川城 総合調査報告書』でも、同じ名称が別の場所に用いられている事例として整理されている。
この平地の砦については、これまで発掘調査が行われた記録はなく、遺構も確認されていない。そのため詳細は不明ながら、地域の防備や交通の見張りといった機能を担っていた可能性があるとされる。現在は市街地の中に埋もれ、往時の姿は失われているが、「芥川」の地名とその石碑が静かにその記憶をとどめている。
参考文献:
- 『芥川城 総合調査報告書』調査報告書(2015高槻市教育委員会)
芥川城(砦伝承地)周辺の観光スポット・史跡めぐり
芥川仇討ちの辻
西国街道の芥川宿に「芥川宿仇討ちの辻」がある。江戸時代初期の仇討ちの美談の舞台だ。賤ヶ岳の七本槍のひとり、加藤嘉明の曾孫、助三郎が親の仇討ちで早川八之丞を高槻城下で討ち取った。討たれた八之丞の懐中には書状があり、「自分は二人も殺した人間であるため、討たれて当然であり旦つ、討った方に咎はない」とあったという。
付近の城
知名度が高い城では、芥川城(芥川山城)、山崎城、高槻城、茨木城、勝竜寺城など。マイナーな城では今城(今城塚古墳)、開田城(土塁公園)など。
芥川城(砦伝承地)アクセス・駐車場・営業時間
芥川城(砦伝承地):城ファンの知見と記録
芥川城(砦伝承地)を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全3件)。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年より日本各地の城郭を訪ね歩き、取材と撮影を続けている。「先人たちの知恵とおしゃれ心」をテーマに、四半世紀にわたり城のたたずまいと土地の風土を記録してきた。撮影を通して城郭に宿る美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に残る歴史の息づかいを伝えている。作品は書籍、テレビ、新聞など多くのメディアで紹介され、城の美しさと文化を広く発信している。







この芥川城は、鎌倉時代後期からこの地を支配した御家人芥川氏の館と考えられています。芥川氏はどうやら西国街道の芥川宿を根拠とした武士でした。応仁の乱の時には、周辺の三宅氏、吹田氏、茨木氏らとともに東軍に属しましたが、応仁元年(1467年)に西軍の大内政弘の軍門に下ります。以後、この系統の芥川氏の動向は歴史から姿を消してしまいます。
延徳2年(1490年)管領細川政元によって芥川に配置されたのは能勢因幡守頼則でしたが、この能勢氏が築いた芥川城というのは、この芥川宿近くの旧芥川城ではなく、ここから約3km北北西方向、芥川上流摂津峡にある標高180mの三好山にある城跡(芥川山城)のことを指すようです。また、この後、天文2年(1533年)に細川晴元が入ったのもこの山城だと考えられています。 以後、歴史に出てくる「芥川城」は基本的にはこの山城のことを指すと考えてよいようです。元々の芥川城はその後の動向はわからず、歴史の中に姿を消してしまっています。
芥川仇討ちの辻は少し食い違いになっていますが、ここをさらに西に進むと右手に日本たばこ産業(JT)の研究所の広大な敷地が広がります。敷地が終わったところで右折し、今度は敷地沿いを少し北上すると左手に高槻スイミングスクールがありますのでその手前を左折します。ここを進むと次の角で右手に城門のような大きな門のある民家がありますので、その南側の生垣沿いを進むと生垣の一部が少し窪んで、そこに「芥川城址」の高さ1mほどの石碑があります。
「芥川城」と記載されていたものは、三好山にある芥川山城のことを指している場合もあるのだとか。