写真・監修:岡 泰行/城郭カメラマン

芥川城の歴史と見どころ

「芥川」とは古くからこの地に流れる清らかな川の名であり、万葉の時代より歌に詠まれた景勝の谷を指す。その流域を見下ろす山中に、戦国時代の山城・芥川城(あくたがわじょう)(芥川山城)が築かれた。標高182.69mの三好山を利用した芥川城は、芥川東岸の丘陵に築かれ、西国街道および淀川を見渡せる位置にあった。当時の山間と平野をつなぐ交通路や河川を監視できる地勢的に要衝の位置にあり、戦国期において重要な立地といえる。

芥川城の歴史

芥川城の名が史料に明確に登場するのは、永正13年(1516)のことである。芥川政頼という人物が、細川高国に従って細川澄元と戦った記録があり、この頃にはすでに芥川城が存在していたと考えられる。芥川氏はこの地にあって戦国初期における在地の領主的立場にあった。

その後、畿内では細川氏の家督争いが激化し、三好元長の子・三好長慶が頭角を現す。天文22年(1553)、長慶が芥川孫十郎を攻め、芥川城(芥川山城)を居城とした。

永禄3年(1560)、三好長慶は芥川城から飯盛山城へ本拠を移し、幕府に代わって政務を執る体制を築いた。永禄7年(1564)に43歳で没するまで、畿内の中心的な政治勢力として活動していた。

永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、摂津の三好氏の諸城にも影響が及んだ。信長の侵攻により三好方は各地の城を退き、芥川城は将軍義昭の重臣・和田惟政の支配下に置かれた。和田惟政は後に高槻城に本拠を移し、それに伴って芥川城は家臣の高山飛騨守・右近父子が預かることとなる。

芥川城の廃城時期は明確ではないが、『芥川城 総合調査報告書』によれば、天正末年までには城としての機能を失っていたとみられている。現在も山中には堀切や石垣、礎石建物跡などの遺構がよく残っており、往時の構えを静かに伝えている。

芥川城の特徴と構造

芥川城は、芥川東岸の断崖と谷地形を巧みに利用して築かれた山城である。主郭は標高約182.69mの尾根頂部に位置し、比高は南麓から約80mを測る。城域は東西約500m、南北約400mに及んだ。主郭の南斜面および東斜面には段状に帯曲輪が展開し、斜面を利用した郭配置が明瞭である。東屋敷群と東郭群の間は竪堀や土橋が確認されており、城の防御機能の一端を担っていた。

城全体は、尾根上およびその斜面に展開する郭群、建物跡、堀切、竪土塁など多様な遺構によって構成されており、戦国期における山城の実態を示す重要な遺構といえる。

主郭

芥川城(芥川山城)主郭芥川城の主郭は、尾根頂部に築かれている。周囲には帯曲輪が段状に展開し、防御と居住の両機能を備えていた。現況からは平坦面と切岸の構成が確認されている。

大手石垣

芥川城(芥川山城)大手石垣芥川城の大手には、通路を固めるための野面積み石垣が斜面に沿って構築されている。現在も高さ1〜2m程度の石垣列が残っており(中央部は欠損崩落)、下方から主郭方面へ向かう経路の要所を補強していたと考えられている。

東郭の石垣

芥川城(芥川山城)東郭の石垣東郭の郭のひとつに、その南側に石垣がある。比較的大きな石が使用されている。斜面の整地を目的として築かれたものとされている。

竪土塁

芥川城(芥川山城)竪土塁東屋敷群には、尾根の傾斜に沿って構築された竪土塁が見られる。長さは10m以上に及び、上方の郭との連携や斜面防御の役割を持っていたとみられる。切岸と組み合わせた構造で、山城の防御性を高めていた。

堀切と土橋

芥川城(芥川山城)堀切と土橋東屋敷群と東郭群の間や、主郭の北西部などに、尾根を遮断する堀切と土橋が設けられている。外部からの侵入を防ぐ役割を果たしていた。田の丸下の大土塁も見応えがある。

「芥川山城」なのか「芥川城」なのか

かつては、芥川町の砦伝承地と区別するため「芥川山城」とも呼ばれていたが、最新の調査により、戦国期の史料に見る「芥川城」はすべて三好山の山城を指すと確認された。このため、現在は国指定史跡「芥川城跡」として正式に呼称されている。

芥川町の砦伝承地「芥川城」

芥川町の砦伝承地「芥川城」高槻市芥川町の一角には、近世以前の地誌や絵図に「芥川城」と記された平地の砦跡が存在したとされている。戦国期の山城である芥川城とは別の存在であり、両者を区別する必要があると『芥川城 総合調査報告書』でも指摘されている。この平地の砦は、地域の防備や監視を目的とした小規模な施設であった可能性があるが、遺構は残っておらず、発掘調査も行われていない。現在は市街地の中でその記憶をとどめている。

参考文献:

  • 『史跡芥川城跡発掘調査報告書』発掘調査報告書(2020高槻市教育委員会)
  • 高槻市Webサイト「芥川城跡(高槻市指定史跡)」

芥川城の学びに役立つ本と資料

芥川城の関連書籍

書籍では、ずばり『芥川城 総合調査報告書』調査報告書(2015高槻市教育委員会)が良い。

縄張図を掲載した解説板

「塚脇ルート」「大手道」利用の場合は、バス停「塚脇」に縄張図を掲載した解説板がある。「上の口ルート」はその登山口に、大きく拡大された縄張図と解説がある。さらに詳しくは、高槻城近くの「高槻市立しろあと歴史館」へどうぞ。

三好長慶の石像

2021年6月、三好長慶の石像が摂津峡公園の桜広場に設定された。高槻の市民グループ三好芥川城の会の顕彰碑建立委員会が制作し、市に寄贈したもので、その姿は三好長慶の菩提寺の聚光院に伝わる重要文化財の肖像画から。高さは約2m。

芥川城の散策コース

芥川山城の登山ルート

登山ルートは「塚脇ルート」「上の口ルート」「大手道」の3ルートがある(上記Googleマップ参照・または「塚脇」バス停に登山ルート解説のイラスト参照)。

芥川山城の塚脇ルート登山口「塚脇」バス停からは、「塚脇ルート」で登るのが暖勾配で道も良い。大手道は急勾配で一部で道が悪い。塚脇ルートで登ると江戸時代の集落跡、猪鼻に至る。そこから西に折れてすぐ東曲輪群で城内だ。また、猪鼻からそのまま直進して下る道があるがこれが「上の口ルート」となる。

下山時の選択肢として、「上の口ルート」から下り、芥川沿いにぐるっと城山を西まわりで摂津峡を見ながら塚脇に戻る道がある。この道を歩くと、摂津峡は実に景観が良く、また、芥川山城の北側、西側、南側が川と断崖によって守れているのがよく解る。この場合、出丸と主郭の間に直結する大手道をわずかに下った大手石垣を下山前に見ておくと良い。

一方、「大手道」から下山すると、先のように大手石垣があり、一部、道が悪いところがある。また、縄張図片手に道無き道を行く強者であれば、主郭南側の出丸、田ノ丸(郭)から大土塁を経て大手道に至りそのまま下山するのも良い。

芥川城の撮影スポット

芥川山城から見る大阪城芥川山城は、近年、主郭部周辺の木々が伐採され、眺望が得られる城となった。眼下に広がるその視野は広く、高槻の中心部から大阪まで見渡せる。望遠レンズを持っていれば芥川山城から大阪城も見られるぞ(写真)。大阪は直線距離にして約22km、貴重な1枚をご覧あれ。余談ながらひときわ高いビルは、高層ビル日本一の高さを誇る「あべのハルカス」(丹波大納言さん撮影)。

芥川城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る芥川城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

芥川城周辺の史跡を訪ねて

摂津峡

摂津峡城山をぐるっと囲む芥川。この渓谷の景観は実に良く「摂津峡」と呼ばれている。摂津峡を歩けば、北・西・南の三方が芥川山城が芥川とその断崖によって守れているのがよく解る。正直なところ、戦国時代なら城を攻める際、上司にこっちから攻めてと言われたら拒否したい。

上宮天満宮と天神の馬場

上宮天満宮と天神の馬場JR高槻駅から北へ徒歩10分の「上宮天満宮」。三好討伐時の織田信長本陣跡だ。また、その参道は、山崎の戦いの時、秀吉が本陣を置いた「天神の馬場」だ。芥川山城や西国街道、山崎古戦場との位置関係を把握しておくと旅がより面白くなるぞ。

芥川仇討ちの辻

西国街道の芥川宿に「芥川宿仇討ちの辻」がある。江戸時代初期の仇討ちの美談の舞台だ。賤ヶ岳の七本槍のひとり、加藤嘉明の曾孫、助三郎が親の仇討ちで早川八之丞を高槻城下で討ち取った。討たれた八之丞の懐中には書状があり、「自分は二人も殺した人間であるため、討たれて当然であり旦つ、討った方に咎はない」とあったという。

周囲の城

知名度が高い城では、山崎城高槻城茨木城勝竜寺城など。マイナーな城では芥川山城東曲輪群のすぐ東にある帯仕山付城(遺構無し)、芥川城(石碑のみ)、今城(今城塚古墳)、開田城(土塁公園)など。

芥川城周辺のおすすめ名物料理

手打ち蕎麦 花の里 あら木摂津峡大通りを、下の口駐車場方面に西進すれば、「手打ち蕎麦 花の里 あら木」や「美人湯 祥風苑(食事もできる)」がある(上記Googleマップ参照)。

芥川城のアクセス・所在地

所在地

住所:大阪府高槻市大字大字原 [MAP] 県別一覧[大阪府]

電話:072‑694‑7562(高槻市立埋蔵文化財調査センター)

アクセス

鉄道利用

JR京都線、JR高槻駅から高槻市営バス約15分「塚脇」降車、塚脇ルート登山口まで750m(徒歩約10分)。登山口は「高槻黄金の里老人ホーム」の先にある。城域まで登山約20分。上記Googleマップ参照のこと。また、バスは循環バスなので帰りも「塚脇」から着たバスに乗ればJR高槻駅北に戻る。

マイカー利用

名神高速道路・新名神高速道路、高槻JCTから北西へ5.7km(約10分)。上の口駐車場(有料)有り。または、芥川山の南(大手道側)は、下の口駐車場(有料)を利用する。後者は登山口までの徒歩ルートに少し距離がある。

※本記事は城郭カメラマン岡 泰行(プロフィール)監修のもと編集部にて構成しました。

芥川城に寄せて

これまでに届いた声:全4件

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    ベッドタウンの裏山に、ひっそりと残る三好長慶居城、芥川山城。7年続いた芥川政権の中心地とは、にわかに信じられないような寂びれ様。ここを訪れたら、ついでに近くの今城塚古墳もおすすめです。比定を誤ったために、発掘が許可されている数少ない天皇陵。

    ( 岸本)さんより

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    バス停脇に芥川山城の説明板がある。ここから右手に見える山が芥川山城のある三好山である。住宅街の中を少し歩き、三好山の標識に従って登り始めること約20分ほどでいよいよ城域へ。芥川山城は東西二つの郭群に分かれているように見えるが、その中間当たりにある見事な「登り土塁」に出会う。ここからは郭の連続。更に土橋を渡って岩盤を堀抜いたクランク状の虎口を通り、西の郭群の中心部へ入る。ここに矢穴が三つある岩と城址碑があった。城址碑のある郭の下に見事な石垣がある。一見すると砂防ダムのような感じでそびえている。高さは3mくらいかな? 石も大きく、整形こそされていないが、裏込め石みたいな石もあった。石垣はあと数カ所に残っており、発掘で礎石建物も検出されているらしいし、城域も広くさすが三好長慶の本城だけあるなと思う。なにより高槻みたいな都市部にこんな山城がほぼ完存していることに感動する。

    ( 伊藤)さんより

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    芥川山城の竪土塁は緩斜面を4段ほどの曲輪で防御する形、それらの曲輪の東側を通しています。主郭の本丸下(南側)の曲輪、本丸から2段下がった曲輪、それ以外は下草が刈られ、とてもいい状態でした。3.5時間歩きとおして、山城の面白さを満喫しました。本丸、桜の古木が3本、満開です。欅の芽は未だでした。偶然、鶯の鳴き声。摂津峡の向こう側の山には霞みながらも山桜が咲いていました。

    ( 目黒の木村)さんより

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    三好山の南麓には江戸期から字城山という集落があり、乾田が亀岡方面へ抜ける間道にある猪鼻と呼ばれるあたりまで広がっていた。猪鼻に見られる石垣はその石垣で、芥川山城東郭群の土塁上に江戸期の墓石が数基あるがこれはその集落のものと考えて良いだろう。

    ( shirofan)さんより

城の情報

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