中野城の歴史・見どころ

中野城の歴史

中野城は現在の日野町西大路に築かれた蒲生氏の居城だ。地元では古くから「中野城」と呼ばれてきたが、歴史上は「日野城」とも呼ばれる。

中野城は、天文3年(1534)に六角氏の家臣であった蒲生定秀によって築かれたとされる。定秀はそれまでの本拠であった音羽城に代わる新たな居城として中野の地を選び、同時に城の西側に広がる原野へ町割りを行って城下町を整備した。これが現在の日野の町並みの基礎となったと考えられている。

築城当時の詳細を伝える史料は残されていないが、中野城は蒲生氏の政治・軍事の中心として機能した。弘治2年(1556)には後に戦国武将として名を馳せる蒲生氏郷がこの城で誕生したと伝えられる。また、永禄6年(1563)の観音寺騒動では、六角義治が蒲生氏を頼って「日野蒲生館(中野城)」へ退去したことが記録されており、当時の中野城が近江国内でも重要な拠点であったことがうかがえる。

定秀の跡を継いだ蒲生賢秀、さらにその子氏郷は織田信長の家臣として活躍した。天正10年(1582)の本能寺の変では、安土城にいた信長の妻子や一族を日野へ避難させ、中野城に迎え入れたうえで明智光秀への対抗を図ったと伝えられる。この出来事は氏郷の忠誠心を示す逸話として広く知られている。

天正12年(1584)、氏郷は豊臣秀吉の命により伊勢松ヶ島城へ移封された。これによって中野城は蒲生氏の本拠としての役割を終えることとなったが、城下町はその後も存続した。同年には羽柴秀吉が日野町中に対して掟書を発給しており、日野が引き続き商業・流通の拠点として重視されていたことがわかる。

氏郷移封後の中野城については詳細が不明な点も多いが、慶長9年(1604)には城内や武家屋敷の建物が取り壊されたと伝えられている。その後、元和6年(1620)に市橋長政が入封して仁正寺藩を立藩したが、陣屋は城の北東に設けられたため、中野城が再び城郭として利用されることはなかった。一方で、城跡の一部は陣屋の庭園などに利用され、蒲生氏時代の遺構は形を変えながら受け継がれていった。

こうして中野城は歴史の表舞台から姿を消したが、蒲生氏の本拠地として築かれた城と城下町は現在の日野の町並みの原型となっている。また、蒲生氏郷生誕の地としても知られ、戦国時代の近江を語るうえで重要な城跡といえる。

中野城の特徴と構造

中野城は旧日野川沿いの段丘上に築かれた平城だ。現在は耕地化や開発によって大きく姿を変えているが、大正6年(1917)の「中野城址図」や現存遺構から、その規模や構造を知ることができる。

城の中心部とされる伝本丸は約100m×120mの方形区画で、その周囲には高さ約5〜11mに及ぶ巨大な土塁が築かれ、さらに外側を幅約10〜20mの横堀が巡っていた。大手口にあたる北西には土塁を伴うL字型の堀が設けられ、防御性を高めていたと考えられている。

中野城址石碑
伝本丸内(道路上)に建つ中野城址石碑。

また、中野城最大の特徴は、城郭だけでなく家臣団居住地と城下町を一体的に整備していた点にある。伝本丸の北側には、武士の居住地が東西約870m、南北約640mの範囲に広がっていたと考えられており、その周囲を惣堀と土塁が取り囲んでいた。こうした構造は現存する地割や水路などからもうかがうことができる。中野城は、城・家臣居住地・城下町が一体となった戦国期の都市構造を伝える貴重な遺跡といえる。

伝・本丸土塁と横堀

伝本丸跡の北端に、高さ約5〜11mの土塁と横堀が残されている。土塁上には、後の仁正寺藩に関係する涼橋神社や稲荷神社が建つ。

中野城伝本丸土塁
伝本丸北東部に残る土塁。石垣は後世のもの。
中野城伝本丸の横堀
伝本丸の周囲を巡っていた横堀の一部が残る。
土塁上に建つ稲荷神社
中野城伝本丸土塁上に鎮座する稲荷神社。後の仁正寺陣屋の裏鬼門にあたる。

蒲生氏郷公産湯の井戸

蒲生氏郷公産湯の井戸
弘治2年(1556)に中野城で生まれた蒲生氏郷が産湯を使ったと伝わる井戸。伝・本丸跡にある。氏郷は後に織田信長、豊臣秀吉に重用され、伊勢松坂城会津若松城の城づくりを進めていく。

興敬寺土塁と堀切

興敬寺土塁と堀切
興敬寺境内東端には、蒲生氏あるいは市橋氏が構築した土塁と堀がある。ここが城の東端らしい。興敬寺の山門は、後の仁正寺藩、市橋家寄進。仁正寺陣屋完成まで本陣として使用された。

中野城の整備状況

中野城跡は江戸時代以降の耕地化によって大きく改変され、さらに昭和40年(1965)の日野川ダム建設に伴う工事によって土塁や堀の多くが失われた。しかし現在でも、伝本丸北東部には高さ約9mの土塁が残り、その周囲には堀跡や井戸跡などを確認することができる。また、興敬寺境内には東端にあたる土塁と堀の一部が残されており、往時の城郭構造を伝えている。

城跡には案内板や城址碑が設置され、日野町による調査成果を反映した解説整備が進められている。土塁に当時の名残を見ることができ、地名として残る「古城(ふるしろ)」も往時をしのばせる。現在は城下町日野の歴史とあわせて見学できる案内板が整えられており、戦国期から近世への移り変わりを伝える貴重な史跡となっている。

参考文献:

  • 『日野町城郭GUIDE② 中野城跡』(日野町教育委員会2022)
  • 『ふるさと日野の歴史』(日野町教育委員会2016)

中野城の撮影スポット・絶景ポイント

中野城の代表アングルたる「伝・本丸土塁」は、北側からの撮影となる。晴天・曇天に関わらず、少し暗めとなるため、ISO感度を上げて挑むと良い。

中野城周辺の観光スポット・史跡めぐり

法雲寺

法雲寺は中野城主蒲生氏ゆかりの寺院で、蒲生氏郷の父・蒲生賢秀の菩提寺として知られる。天正12年(1584)、賢秀が鎌掛城で没した後、その菩提を弔うため中野城内に庵が設けられ、茶人法雲が庵主となったことが始まりと伝わる。

法雲寺
その後、江戸初期に旧城内へ仁正寺藩の藩庁が設けられたため現在地へ移され、法雲寺として法灯を伝えてきた。境内には蒲生賢秀の墓がある。中野城と蒲生氏の歴史を今に伝えている。

蒲生賢秀の墓
法雲寺境内にある蒲生賢秀の墓(写真左)。右は初代藩主・市橋長政の外孫にあたる市橋利政の墓。

また、本堂には仁正寺藩の藩邸玄関にあった破風の一部が移築されたと伝わる。蒲生氏の時代だけでなく、江戸時代の仁正寺藩との関わりもうかがえる寺院だ。音羽城と中野城、仁正寺陣屋をあわせて訪ねれば、日野の歴史の移り変わりをより深く感じることができる。このほかにも点在する仁正寺陣屋の移築物も合わせてめぐりたい。

伝・若松の森跡

伝・若松の森跡
天正18年(1590)、蒲生氏郷が豊臣秀吉の命により会津黒川城に封じされたとき、故郷、日野にあった若松の森の名にちなんで、黒川を「若松」(会津若松城)と改めたと言われている。その後、城は若松城、城下町は会津若松として発展し、現在もその名が受け継がれている。氏郷が故郷へ寄せた思いを今に伝える場所だ。

馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社
馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)は、日野を治めた蒲生氏が庇護した古社だ。蒲生賢秀や蒲生氏郷による社殿修造の記録も残り、中世から蒲生氏との深い関わりを持つ。この神社、屋根の唐破風と千鳥破風が連続する様が面白い。

楠木正成公 桜井の別れ之像
余談ながら、神社境内には、移築された「楠木正成公 桜井の別れ之像」がある。案内板によると、もとは日野小学校にあったが、米軍の占領施策により忠義を重んじる精神教育が否定され、この地に移された。こうした像にも歴史が宿る。

大石町の町名由来の石

大石町の町名由来の石
音羽城廃城の後、日野城を築城の際、石を運搬していたが、突如として合戦が起こり、運搬していた男達は、石をこの地に放棄したまま合戦に馳せ参じていったと伝わる。その後も現在地に残る。盃状穴が複数見られた。

中野城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:滋賀県蒲生郡日野町西大路 [地図を見る]

県別一覧:[滋賀県の城]

電話0748-52-1211(日野町役場)

アクセス

鉄道利用

JR琵琶湖線、近江八幡駅下車、バス49分「日野川ダム口」降車、徒歩5分。

マイカー利用

名神高速八日市ICより約25分(20.5km)。日野城の南側に「日野川ダム駐車場」有り(無料10台)。

地図

中野城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

旧山中正吉邸

旧山中正吉邸静岡県富士宮市で酒造業を営んだ日野商人の本宅で広大な屋敷が残る「旧山中正吉邸」。屋敷の門の右側には、窓になる仕掛けがあり内側には祭りを見るための内舞台がある。この施設は観光案内も兼ねており『ふるさと日野の歴史』(滋賀県日野町2016)159ページ・A4フルカラー が芳名すると、無償でいただける。そのほか、町内の中世山城「中野城跡」「鎌掛城跡」「佐久良城跡」「鳥居平城跡」「音羽城跡」の詳細な縄張図が配布されている。