刻印の現在地を記録する
大阪城(大坂城)の石垣刻印を探索する際の一助となればと考え、絵的(視覚的)にも興味深い刻印を中心に紹介する。
大坂城の石垣の総延長は基底部で6,882間、距離にして約12.3kmに及ぶ。撮影は石垣に草が生えにくい冬期に限定し、ひとつの壁面あたり約1億万画素という高解像度で記録している。刻印は光の当たり方によって見え方が大きく変わるため、訪れる時間帯によっては判読が困難となる場合もある。そのため、本資料の調査にあたっては、時間帯を変えながら何度か足を運び、刻印が最も読み取りやすい条件を探りつつ撮影を行った。それでも見落としが残る可能性はある。
近年、風化や摩耗により判読が難しくなりつつある石垣刻印を、可能な限り高精細に捉え、写真を後世に残すことを目的としている。大坂城の石垣に用いられた石材は主に花崗岩であり、産地の違いによって微妙に異なる色合いが見られる。高解像度での撮影は、刻印そのものだけでなく、こうした石質や色調の差異を含めて記録する点にも意義がある。
この活動は「大阪城刻印調査会」と称し、史料を継ぎ、刻印の現在地をひらくことを目的としている。本資料が、刻印探察や調査の一助となれば幸いである。この記録と探索は、大阪市学芸員の森 毅さんの取り組みに触れたことを契機として、2019年に始めた。森 毅さんには、この場を借りて深く感謝を申し上げたい。あわせて、石丁場・残念石の調査に際し、これまで阪神間や小豆島をはじめ瀬戸内海の島々に点在する石丁場や大阪城にご同行いただいたZ氏、T氏、B氏、ご助言をくださったM氏、北村美穂氏、久松俊美氏に謝意を記しておく。
なお、大坂城の石垣壁面はすべてナンバリングされており、本ページでは村川行弘著『大坂城の謎』(学生社)に基づく石垣壁面番号を用いて紹介していく。
刻印探索のススメ
大坂城の石垣刻印を探すにあたり、まず意識しておきたいのは、刻印の位置と見え方が一様ではないという点だ。刻印は石垣の下部から上部まで広く見られ、壁面の角度や石の表情、風化の度合いによって、現地では判別が難しい場合も多い。
堀越に刻印を探る方法としては、大きく二つの手順がある。ひとつは、望遠レンズや双眼鏡、単眼鏡といった光学機器を用い、現地で刻印の存在を見極めたうえで撮影や記録につなげていく方法だ。この場合、35mm換算で400mm以上の望遠が有効となり、双眼鏡や単眼鏡であれば8倍程度が400mm相当の視野にあたる。
もうひとつは、石垣のひとつの壁面をあらかじめ10〜20ほどに区切り、高解像度のカメラで順に分割撮影しておき、後からモニタ上で精査する方法である。たとえば4,000万画素クラスの画像であれば、石ひとつを21インチモニタいっぱいに拡大表示することができ、現地では気づかなかった刻印が画像上で浮かび上がってくることがある。初見では見えていなかった刻印が、画像を何度か見直すうちに判別できるようになる例も少なくない。この点では、後者の方法は再検証が可能という強みを持つ。
筆者(岡)は、4,500万画素のカメラで、主に、100-500mmの望遠レンズを使用し、状況に応じてエクステンダーを装着、最大で1,000mm相当の焦点距離で刻印を撮影している。刻印は小さく、輪郭も曖昧になりがちなため、焦点距離と解像度の両立が探索精度を左右する。
加えて重要なのが光の条件である。太陽光が石垣に対して斜めから差し込む時間帯を意識すると、刻印の凹凸に陰影が生まれ、発見できる可能性は高まる。朝や夕方の低い角度の光は、とりわけ有効である。近年は、壁面に対する日射角を確認できるアプリもあり、撮影計画の補助として併用している。
本ページの刻印資料は、こうした装備と撮影方法、時間帯の工夫を重ねながら記録したものだ。必要な道具と視点を整えることで、刻印探索は一度きりの観察ではなく、何度も読み直す行為へと変わっていく。その過程を支える資料として、本ページを活用してもらえれば幸いである。
大阪城の石垣壁面番号図
本ページでは、全石垣壁面を網羅するものではなく、絵的に特徴のある刻印を中心に、石垣壁面番号を用いて紹介していく。実際に確認できた刻印を、壁面番号に基づいて写真とともに掲載しているので、位置関係や刻印の形状を確かめながら巡ってもらえれば幸いである。
以下に掲げるのは、大坂城の石垣壁面番号図である。

『大坂城の謎』村川行弘著(学生社 2002)より。
なお、本図には東外堀が描かれていないが、これは制作当時、同地がグラウンドとして埋め立てられていたためである。現在、東外堀は復元されている。
壁面番号で巡る大阪城の石垣刻印
東外堀から北外堀、本丸内掘、南外堀、西外堀へと巡るコース散策には約5km、5〜6時間を有する。
※順次、更新していきます。
東外堀
93号壁
93号壁は、長門萩藩の松平長門守秀就(毛利家)、土佐高知藩の松平土佐守忠義(山内家)、出雲松江藩の堀尾山城守忠晴の三家が担当した丁場だ。ここに、情報量が多い珍しい刻印がある(Googleマップ)。

93-1 毛利家「天下一」刻印
レア!

巽櫓台の石垣は、二の丸では最も高い石垣で毛利家が隅部から北へ4〜5mを担当している(以降、北側は山内家となる)。「天下一」と刻まれたことについて『大坂城の諸研究』では、毛利家の石垣の技術が他の大名より優秀であることを誇示したのではないかとしている。この刻印は2020年までは見えていたが、現在は手前の桜が成長してしまい、冬の落葉時期に枝の隙間から、見る刻印となっている。「天下一」の下に逆さになった毛利家を示す「一に星(○)」が見られる。
93-2 山内家「三ツ葉柏」「一ツ葉柏」「二十八人」家紋人数地名

土佐山内家の家紋「三ツ葉柏」の家紋刻印、その簡略化「一ツ葉柏」など土佐藩で使用されていた刻印が密集している。「二十八人」は、1チームの人数といわれ、ほとんどの場合、偶数人と言われている。こうした人数刻印は、土佐高知藩・肥後熊本藩の丁場でよく見られる。また「くさか(日下)」は産地を示す刻印と言われている(東大阪か)。
93-3 山内家と堀尾家
境界

山内家と堀尾家の境界には、左側に山内家刻印「三ツ葉柏」、右側に堀尾家刻印「分銅紋」などが並ぶ。刻線(縦のライン)が引かれ、その境目が示されている。石垣上部から水面付近まで、両家の刻印がずらりと並ぶ。
49・99号壁三家合同丁場
44号壁・99号壁は、京極忠高、京極髙知、一柳直盛の三家の合同丁場で、石垣隅部の算木積にずらりと刻印が並ぶ。視覚的に非常に面白いエリアだ(Googleマップ)。

この風景は刻印を記した様々な書籍で白黒写真を目にすることができる。当時は東外堀は埋め立てられグランドとなっており、近寄って見ることができた。グランドにはラグビーのゴールポストが建っていた記憶がある。余談だが、京極四ツ目紋がGIVENCHY(ジバンシー)のロゴマークに似ていることから、面白がって30年ほど前から奈良のN氏とともにユーモアを込めてそう例えている。
47号壁動物
47号壁は加賀金澤藩 松平筑前守利常(前田家)の丁場で、青屋門枡形の東側の壁面にあたり、東外堀に面している。この壁面に、非常に珍しい動物を刻んだ刻印石がある(Googleマップ)。

前田家丁場。この壁面に「猿」刻印がある。非常に珍しい動物の刻印で十二支の申年を表すと考えられている。第一期工事の元和6年(1620)が申年あることから「猿」の刻印だとされている。
47-1 前田家「猿」刻印動物

47-2 前田家「猿」刻印
動物

『大坂城の諸研究』岡本良一著 (名著出版1982)では、「猿」刻印は一石(47-1)としているが、東外堀復元前で、当時のグランド地表面下に、もう1石あったものと考えられる。過去の調査時は同書掲載99号壁の当時の写真から換算し、2025年の再調査時の水面上2石分が地中に隠れていた可能性がある(調査発見:T氏・B氏・E氏・岡 泰行)。
北外堀
41号壁人名人数
青屋門から北外堀の41号壁あたりまで、加賀金澤藩 松平筑前守利常(前田家)の丁場だ。その中で、肥後熊本藩 加藤肥後守忠広の刻印石が点在する(Googleマップ)。

41-1 前田家刻印

41号壁の石垣隅部(東側)には前田家の刻印が密集する。
41-2 加藤家「こん太夫」刻印人名人数

41号壁には、肥後熊本藩 加藤肥後守忠広 配下の谷崎権太夫(「ごん」または「こん」採石奉行・加藤家馬廻小姓組 565石)の刻印が多数刻まれている。「こん太夫」刻印は大坂城全域に点在しており、茶褐色の石材に多いのが特徴だ。
「こん太夫」「谷」「加肥○○」「加肥後内」といった加藤家を示すものと、作業場の1チームの人数を記した「二十人」「二十二人」「二十四人」「二十八人」「二十○人」などの人数刻印が見られる(多くは偶数人)。このほか、同壁面の西側でも「十八人」「こん」「加肥守内」「こん太夫」「二十人」などが散見される。
41-2 加藤家「谷さき」刻印
人名人数

谷崎権太夫による刻印は、ほとんどが「こん太夫」と記されているが、ここではその名字「谷さき」が刻まれた珍しい刻印石がある。
本丸内掘
146・147号壁
大阪城では、ボランティアガイドが姫門脇の「隠曲輪」に足を運び、刻印の説明をすることがある。目の高さで間近に刻印が見られるポイントだ。そこに「○に二八」の刻印を目にした人も多いだろう。園部藩の小出信濃守吉親の刻印だ。その小出家ではもうひとつ刻印がある。それが家紋を簡略化した「額縁紋」だ(Googleマップ)。
小出家「額縁紋」「○に二八紋」刻印家紋


本丸内堀の西側で、小出家は146号壁と147号壁の折れの部分を担当した。「額縁紋」が4つ、「○に二八紋」が2つ認められる。いずれも小出家の家紋に由来したものだ(額縁紋調査再発見:M氏・Z氏・久松俊美氏・岡 泰行 2025.08.30現在)。
小出家 家紋「額に二八紋」小出家の子孫に伝わる話では、敵の首を指揮官に献じる時に手頃な台が手もとになく、神社の扁額を利用したことから、家紋に額を取り入れたという。額の中の「二八」は、小出政重が初陣で敵の首を8つずつ2回挙げたことがその由来とされている(園部城本丸巽櫓内展示資料要約)。
135号壁
(準備中)
141号壁
(準備中)
123号壁
本丸西面123号壁には、家紋「有馬瓜」の刻印が見られる。この刻印は誰のものか。丁場割図では伊達家、伊藤家、片桐家、京極家などの名が見られるが、この家紋と折り合わない。その下に「○に左」も点在することから、日向延岡藩の有馬左衛門佐直純かと思われる。一方、本丸東面141号壁でも「有馬瓜」の左右セットが見られ、そちらは有馬家と明記されている。このことから「有馬瓜」と見て、ほぼ間違いはないだろう(調査再発見:M氏・岡 泰行)(Googleマップ)。
(準備中)
南外堀
56号壁
細川家と木下家の境界・鍋島家と織田家の境界・積石刻印
(準備中)
55・58・68号壁
この3壁面は大阪市の『豊臣石垣コラム』で(大阪城天守閣Webサイト)。大阪市学芸員 森 毅氏の記事だ。岡は写真を寄稿している。2020年に執筆された記事だが、題材が歴史だけに色あせないコンテンツとなっている。
大手口
大手枡形と大手土橋
『大坂城の諸研究』にて解説されている大手枡形内の刻印についても触れておきたい。枡形内にある刻印は、加藤家によるもので、いずれも間近に見ることができる(Googleマップ)。

Ot-1「新美 末田七番」刻印人名

「新美 末田七番」とは、加藤家組頭 2,736石余、普請奉行の一人、新美八左衛門の配下の七番組を指す。この刻印は上下逆さまになった状態で石垣に使われている。
Ot-2「二千内こん太夫」刻印人名

「こん太夫」というのは人名で、加藤家馬廻小姓組 565石、採石奉行、谷崎権太夫(「ごん」または「こん」)を指す。
Ot-3「見付」刻印

刻印「見付」下の地中に加藤家を示す「◎(蛇の目)」があると言われている。
Ot-4「後守内」刻印

大手枡形内、大門西側に高さ約4m、幅約2.2m〜2.8mの巨石がある。そのほぼ中央付近に「後守内」刻印がある。これは「加肥後守内」の一部で「加肥」が整形のため削り取られていると考えられている。
7-4 山内家「三ツ葉柏」刻印家紋

土佐山内家の家紋「三ツ葉柏」の家紋刻印が、土橋北側の雁木にある。これは大手門付近の土橋上から見られる。なお、土橋北面(7号壁)には、「一ツ葉柏」刻印など土佐山内家固有の刻印が数多く見られる。
西外堀
4・5号壁隅石人名
千貫櫓下の石垣には「九目」、水位が低い時に「七目」といった隅石刻印が確認できる。これは根石から段数で、水面下にさらにそれだけの石垣段数があることを示している。5号壁の「九目」は千貫櫓ページで拡大写真を掲載している(Googleマップ)。

上図では加藤家を示す「◎蛇の目」は4号壁のものを紹介しているが、まるで共通ルールのように、5号壁でも隅脇石に使用されている。なお「こん太夫」刻印は、5号壁に1つ、6号壁にも1つ、茶褐色の石材に確認できる。
2・3号壁隅石
豊前小倉藩 黒田筑前守長政による丁場で、水面付近に「八つ目」から17段分の石垣隅部に、その段数を示す隅石刻印がずらりと並ぶ。大阪城内では随所に見られる積石刻印。その中で隅部にあり上部まで刻まれている珍しい場所だ(Googleマップ)。
2-1 黒田家「隅石」刻印隅石

水面付近の石垣隅部アップ。「八つ目」「九つ目」と並ぶ様子。「九つ目」のみ右面にも刻まれている。こういったかたちで、次の図のように石垣上部までその段数が刻まれている。

20・21号壁地名
徳川期大坂城の石丁場(採石場)で知名度が高い芦屋。その地名を示す「あしや」の刻印が城内のいくつかの壁面で確認できる。そのうち、最も見やすい20・21号壁を紹介する。なお芦屋市の石丁場については「芦屋市の残念石の石丁場」で紹介しているが、現地では「あしや」の刻印は発見されていない(Googleマップ)。


20-1 細川家「あしや」刻印地名

20号壁は、豊前小倉藩 細川越中守忠興の丁場。乾櫓の北側壁面で細川家の家紋である九曜紋の略「九」、産地を示す「あしや」、「田」などの刻印が見られる。いずれも細川家の刻印だ。
20-2 細川家「あしや」刻印地名

20・21号壁に多数認められるとされる「あしや」刻印だが、実際に視認できるものは少ない。水面付近の石は汚れが堆積していないため、判読しやすい。
21-1 細川家「あしや」刻印地名

乾櫓の西側壁面で豊前小倉藩 細川越中守忠興の家紋である九曜紋の略「九」、採石場を示す地名「あしや」、「十」などの刻印が見られる。
21-2 松浦家と大村家境界

肥前大村藩 大村民部大輔純頭と肥前平戸藩 松浦肥前守隆信の境界に刻印が集中している。21号壁は、5家による丁場で、ほか豊後日出藩 木下右衛門太夫延俊・豊後森藩 久留島右衛門市道春が担当しているが、明瞭に境界が確認できるのは、この両家の境界だ。
余談ながら、松浦家は西宮市の東六甲石丁場が採石場で、現地では「亀石」と「甲子園浜海浜公園」の2箇所で同刻印を確認することができる。詳しくは「西宮市・尼崎市の残念石と石丁場」を参照されたし。
東仕切・二の丸北側

東仕切は二の丸北側の青屋口と極楽橋の間にある石垣で、もとは文字通り、二の丸を仕切っていたが、バスの通行のため現状へと改編されている(Googleマップ)。
東仕切は、若狭小浜藩京極忠高・丹後宮津藩京極髙知・伊勢神戸藩一柳直盛の三家によって築かれた(この三家の組み合わせは49・99号壁でも確認されている)。
刻印「是より東十三間 京極丹」は丹後宮津藩 京極髙知によるもので半分は地中に埋没している。一段上の刻印「是より西十三間三尺 京極若狭守」は若狭小浜藩 京極忠高によるものとされるが、一部を除き判読できない。寸法が刻まれていることに関して『大坂城の諸研究』岡本良一著 (名著出版1982)では、丁場割図から、もともとの東仕切石垣の長さを記したものとしている(調査再発見:M氏・A氏・岡 泰行)。
角脇石
角脇石とは、石垣の隅部、算木積の長方形の加工石のすぐ隣に配置される石のことで、大阪城にはその利用を想定した刻印がいくつかあるので紹介しておく。
太鼓櫓前角脇石

南仕切の太鼓櫓台前に、ひときわ大きな刻印石が置かれている。これは、太鼓櫓の石垣修復時にその中から出てきたものだ。これは当時の工事担当者の手記に残されている。刻印については詳細が明らかになっていない。「左わき十七」と読み取ることができる。意味するものは、角脇石に使用するために刻まれた可能性があると考えて良く、なぜここに使用されているのかは謎だ(Googleマップ)。
南外堀57号壁角脇石

南外堀57号壁の角脇石に「右わき る」という刻印がある。丁場割図から、肥前小倉藩 細川越中守忠興・忠利のものかと思われる。文字が逆さまの状態で積まれている。一説には、太鼓櫓のものが、この書体に似ていることから、細川家のものではないかとも言われているが、確かなことは分からない(Googleマップ)。
西外堀1号壁角脇石地名

西外堀1号壁の隅部には「小豆島角わき」と刻まれた角脇石がある。筑後久留米藩 田中筑後守忠政の丁場で、文字が逆さまの状態で積まれている。石の産地、構築する場所を併記した例だ(Googleマップ)。同壁面では刻印「田筑後守」も見られる。
大阪城の石垣刻印 探索の助けとなる資料
大坂城の石垣刻印を理解するうえで、以下の三点+α は基本文献と位置づけられる。いずれも刻印の把握にとどまらず、築城体制や石垣構造を読み解くための重要な手がかりを与えてくれる資料だ。これに加え、石垣刻印の調査報告書を挙げておく。
『大坂城の謎』村川行弘【著】(学生社)
刻印をはじめ、大坂城の築城過程や構造上の特徴を多角的に解説した一冊。専門的な内容を含みつつも一般向けにまとめられており、刻印研究の入門書として最適な書籍といえる。現在は古本市場での入手が中心となる。刻印から何号壁にあるかを逆引きするのに利用する。
日本城郭史研究叢書〈第8巻〉『大坂城の諸研究』岡本良一【編】(名著出版)
専門研究者による論考を集成した研究書で、石垣刻印に関する分析も収録されている。刻印の種類や分布、大名別の分類など、体系的に把握することができ、より踏み込んだ観察や検討を行う際に欠かせない資料である。こちらも古本市場で入手可能である。
『大坂築城丁場割図』(大阪城天守閣)
大坂城築城時の丁場割を示した絵図を活字化した資料で、大名ごとの石垣担当区画が城内のどこにあるかを具体的に確認することができる。刻印と丁場の関係、築城体制の実態を理解するうえで極めて重要な史料であり、大阪城天守閣、または同館の通信販売を通じて入手できる。
『大坂築石垣調査報告書(二)』(城郭史研究会)
城郭史研究会による平成2年(1990)から15年間の刻印調査を集成した刻印分布図。およそ26壁面が部分的に石垣と刻印をトレースした線画で収録されている。フィルム時代に膨大な撮影量から制作されたこの資料はすばらしく、わかりやすく伝える力がある。古本市場では滅多にお目にかかれない報告書となっている。筆者はとある方のご厚意で手にすることができた。
これらの資料を併せて参照することで、石垣刻印は単なる記号ではなく、築城の現場と人の動きを伝える痕跡として、より立体的に見えてくるはずである。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年より日本各地の城郭を訪ね歩いて取材・撮影を続けている。大阪城の石垣壁面・刻印の高解像度撮影は2019年から始めた。四半世紀にわたる現地経験をもとに、城のたたずまいと風土を記録、撮影を通して美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に宿る歴史の息づかいを伝えている。その作品は、書籍・テレビ・新聞など多くのメディアで紹介されている。
撮影記録済み石垣壁面(一覧)
現在の撮影済みの石垣壁面リストは以下の通り。なお、高解像度の壁面撮影データは一般公開していない。
東外堀
- 93号壁
- 95号壁
- 97号壁
- 98号壁
- 99号壁
- 49号壁
- 48号壁
- 47号壁
- 46号壁
北外堀
- 45号壁
- 44号壁
- 42号壁
- 41号壁
- 39号壁
- 38号壁
- 36号壁
- 34号壁
- 33号壁
- 32号壁
- 31号壁
- 29号壁
西外堀
- 1号壁
- 2号壁
- 3号壁
- 4号壁
- 5号壁
- 6号壁
- 7号壁
- 8号壁
- 9号壁
- 10号壁
- 11号壁
- 12号壁
- 13号壁
- 14号壁
- 15号壁
- 16号壁
- 17号壁
- 18号壁
- 19号壁
- 20号壁
- 21号壁
- 22号壁
- 23号壁
南外堀
- 50号壁
- 51号壁
- 52号壁
- 53号壁
- 54号壁
- 55号壁
- 56号壁
- 57号壁
- 58号壁
- 59号壁
- 62号壁
- 63号壁
- 65号壁
- 66号壁
- 67号壁
- 68号壁
- 69号壁
- 70号壁
- 71号壁
- 72号壁
- 74号壁
- 76号壁
- 78号壁
- 80号壁
- 82号壁
- 83号壁
- 84号壁
- 85号壁
- 86号壁
- 87号壁
- 88号壁
- 89号壁
本丸内掘・本丸
- 114号壁
- 115号壁
- 116号壁
- 117号壁
- 118号壁
- 119号壁
- 120号壁
- 121号壁
- 122号壁
- 123号壁
- 124号壁
- 125号壁
- 126号壁
- 127号壁
- 128号壁
- 129号壁
- 130号壁
- 131号壁
- 132号壁
- 133号壁
- 134号壁
- 135号壁
- 136号壁
- 137号壁
- 138号壁
- 139号壁
- 140号壁
- 141号壁
- 142号壁
- 143号壁
- 151号壁
- 152号壁
- 108号壁
- 107号壁
- 106号壁
- 105号壁
- 104号壁
- 204号壁
- 205号壁
- 207号壁
- 208号壁
- 209号壁
- 213号壁
- 214号壁
- 215号壁
- 216号壁
- 232号壁






