大阪城 豊臣石垣館の見どころ

豊臣秀吉が築いた大坂城は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家とともに滅びた。その後、徳川幕府が再築する際に盛り土で覆われ、豊臣期の遺構は地下に眠ることとなった。平成25年(2013)、大阪市は大坂の陣から四百年を経て「豊臣石垣公開プロジェクト」を始動。「太閤なにわの夢募金」により4億8千万円あまりの寄附を得て、発掘調査の上、令和7年(2025)4月、地中に降りて見学できる「大阪城 豊臣石垣館」が開館した。筆者(岡)もその間、プロジェクトのWebサイト企画制作や発掘調査・保存工程の撮影に携わる機会を得た。

大阪城 豊臣石垣館の外観
本丸金蔵の東に造られた「大阪城 豊臣石垣館」全景

豊臣大坂城の本丸は、「詰ノ丸」「中ノ段」「下ノ段」の三段となっていた。「大阪城 豊臣石垣館」で公開されているのは、昭和59年(1984)の発掘調査で発見された「詰ノ丸」の石垣で、豊臣秀吉やその家族が居住した空間を支える曲輪の石垣だ。石垣は自然石を積む野面積みを基本とし、隅角部に算木積みを用いるなど16世紀末の築城技術を伝える。裏込め石による排水機構、戦火の痕跡、古代寺院の礎石を転用した石材なども観察できる。

大阪城 豊臣石垣館の地下への階段
壁の色分けにより、地表から地下へ入ることを視覚的に示した階段

大阪城 豊臣石垣館の詰ノ丸石垣
「大阪城 豊臣石垣館」の詰ノ丸石垣

徳川大坂城の再築により約6mの盛り土で覆われ、地表から姿を消していたこの石垣は、豊臣期の大坂城を知る手がかりとなっている。館内では埋没の経緯も含めて展示解説が行われ、徳川大坂城との対比を通じて豊臣期の姿を学べる施設となっている。

豊臣石垣の見るべきポイント

見学できる「詰ノ丸」石垣を見てみよう。公開されている豊臣期の石垣は、自然石をそのまま積む野面積みを基本とし、隅角部には算木積みが取り入れられている。壁面の角度は約65度で反りはなく、一部には縦長の石が配され、初期的な算木積みの特徴が認められる。また、石垣南面は横目地をそろえて整然と見せるのに対し、東面は不揃いで、登城ルートから見える側を意識した意匠の差と考えられている。

公開された詰ノ丸石垣
豊臣期の本丸中心部「詰ノ丸」を支えた石垣

石垣の高さについても触れておきたい。詰ノ丸中ノ段の地表面の標高は24.1mといわれ、石垣の天端は標高29.8mなので、高さ約5.7mの石垣となる。「大阪城 豊臣石垣館」で公開されている石垣は、高さにおいて全体像ではなく、その下にはさらに約二段分の石垣がある。

石垣の築造の特徴として、出隅では石材が壁面より内側に入り込む傾向があり、石の面をきれいにそろえる美意識がまだ十分に確立していないことがうかがえる。これは豊臣期に築造された近江八幡山城などでも確認できる。

大坂夏の陣の戦火により石材が熱を受けて赤く変色したり、表面が剥離した痕跡が残る。さらに、隅角部の上部は、徳川期の破壊の跡と見られ、石材が抜き取られた痕跡もあり、後世の手が加わった様相が観察できる。抜き取られた石材は発掘範囲からは出土していない。地表の焼土層にも、廃材は出土していないことから、落城後に撤去されたと考えられている。

石材には古い矢穴列痕も見つかっている。石垣東面で1石、南面で2石が確認された。これらは現在、公開施設の壁の中に位置し、実際に見ることは叶わない。石垣内部の裏込めは約1〜約3mに達し、石臼や五輪塔などの転用石なども詰められていた。また、石垣には古墳時代の未完成品の石棺や古代寺院の礎石も転用され、豊臣期の石垣が多様な石材を組み合わせて築かれていた実態を今に伝えている。

大坂城豊臣石垣の転用石
隅角部に見られる古代寺院の礎石の転用石(円形に加工された柱座が見られる)石に取り付けられた計器はわずかな動きも感知する変位計

大坂城豊臣石垣の転用石「石臼」
石臼の転用石

大坂城豊臣石垣に見られる紀伊半島の緑色片岩
紀伊半島の緑色片岩

大坂城豊臣石垣上部に見られる裏込め石
石垣上部に見られる裏込め石

大坂城豊臣石垣で裏込め石に転用された一石五輪塔と石塔の台座
裏込め石に転用された一石五輪塔と石塔の台座(五輪塔には梵字が刻まれている)

この石垣の上にはどんな櫓が建っていたのだろうか。調査報告書によれば、中井家所蔵の「豊臣時代大坂城指図」には、この位置の石垣頂部に「御櫓」が描かれており、大阪城天守閣所蔵の「大坂夏の陣図屏風」にも多層の櫓が表されている。ただし、頂部の地表は大きく失われており、櫓の基礎構造までは確認されていない。

豊臣期の地表面が語るもの

地階見学フロアの床面は、豊臣期中ノ段の地表面のすぐ上に設けられている。この地表面は城の東側(城外に向けて)に傾斜しており、水捌けを意識した構造だったと考えられている。発掘調査では夏の陣による焼土層が確認され、金箔押瓦などが出土した。落城時に散乱した廃材はすでに撤去されており、豊臣期滅亡直後の整理の跡がうかがえる。徳川期の再築に際しては約6mの盛り土が行われ、石垣とともに地中に埋没した。その整地過程で石積や土嚢を用いた土留遺構も検出されているのが興味深い。盛り土の作業分担の境界を示すものなのか、なんらかの印と思われる石もあった。これらは掘り進む過程で明らかになった。

また、石垣東面から東へ延びる幅約0.3m、深さ約0.25mの排水溝も確認された。瓦を溝の側面に立て並べて水路を形成する工法で、その瓦は豊臣期以前、おそらくは石山本願寺のものと考えられる。公開された石垣は建物内に展示されているように見えるが、石垣は地球と繋がっている。調査時には石垣東面下から水が流れ出しており、当時からの水の通り道が明らかになった。現在、この排水溝は公開施設の建設に伴い埋め戻され、代わりに現代の排水設備が整えられている。遺構は閉ざされていても、石垣が自然環境と一体となって機能していたことを伝えている。

さらに、調査範囲の南側(現在の地階見学フロア南側)では礎石建物跡が見つかり、本丸図では空地であった場所に実際には建物が存在したことが明らかになった。夏の陣で焼失した豊臣期建物の実在を示す成果であり、発掘調査報告書で確認ができる。

徳川期の塀跡と石組み溝

今回の豊臣石垣公開施設整備に伴う発掘調査で金蔵の東側に出土した、徳川期の塀跡と石組み溝が整備されているので、合わせて見ておくと良い。かつては石列の上に塀が建っており、その控え柱が黒い部分に伸びていた。また、その雨落ち溝ともいうべき石組み溝は、北半分は復元されたものだ(写真奥)。南半分(写真手前)と比較すると石が新しく、敷かれた配列も、復元であることを後世に伝えるため、わざと異なるかたちに配置されている。

徳川大坂城の金蔵の東側に出土した塀跡
金蔵の東側で出土した徳川期の塀跡と石組み溝

金蔵の西側も芝生を敷くなど公園としての整備がなされ、その片隅に、『豊臣石垣コラム Vol.52』でも紹介されていた手水鉢と「本多日向○ 藤原助○」と刻まれた石材が新たに置かれている。その他、2016年2月再発掘時の様子はこちらで公開している。

豊臣石垣について、大阪市の歴代ご担当者様、大阪市学芸員の森 毅氏、大阪市文化財協会の清水和明氏、株式会社北陽様には大変お世話になりました。ここに記し御礼申し上げます。

(文・写真=岡 泰行)

参考文献:『大坂城跡21 豊臣石垣公開施設整備に伴う発掘調査』(2024 大阪市教育委員会・一般財団法人 大阪市文化財協会)

「大阪城 豊臣石垣館」基本情報

開館時間:9:00~18:00(入館は17:30まで)
休館日:年末年始(12月28日~1月1日)
入館料:大阪城天守閣の入館料に含む

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