佐敷城は南北朝後期に史料に見える城で、加藤清正の支配下で整備された。八代海を望む城山に築かれ、海上と内陸交通を押さえる要地に位置する。現在は石垣遺構や曲輪が残り、城山公園からの眺望も見どころとなっている。このページでは佐敷城の歴史や構造、見どころを豊富な写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
佐敷城の歴史・見どころ
佐敷城(さしきじょう)は、芦北七浦の一つ佐敷に位置し、球磨から八代海(不知火海)へ至る交通の要衝に築かれた。古くから軍事・交通の両面で重要視された地であり、南北朝後期、至徳2年(1385)の史料にみえる「佐敷之城」が初見とされる。今川了俊の九州支配において、芦北・天草方面を押さえる拠点として機能していたと見られている。
この地域では水俣氏の一族が佐敷に拠を置き、南北朝期以降は在地勢力の拠点として展開した。その後、相良氏が進出するが、北方の名和氏や島津氏との対立が続き、佐敷周辺でもたびたび戦闘が繰り返された。享禄2年(1529)には、相良氏の内紛に伴い、舟橋氏が義滋方についたことで佐敷城が落城したことが『八代日記』に記されている。
天正9年(1581)、島津氏が水俣を攻略して相良氏を降し、芦北を掌握すると、宮原景種が佐敷の地頭に任命され、佐敷城の城主となったとみられる。その後、豊臣秀吉の九州平定を経て、天正16年(1588)に加藤清正が肥後半国の領主となると、佐敷は加藤氏の支配に組み込まれた。清正は後に熊本城を築くが、佐敷城は芦北方面の拠点として位置づけられていた。天正17年(1589)に長尾安右衛門が城代となったのち、まもなく城代として加藤重次が置かれた。
この城で特筆されるのが、天正20年(1592)の梅北の乱である。朝鮮出兵により城代不在となった隙を突き、梅北国兼が佐敷城を占拠したが、留守居役らの働きにより短期間で鎮圧された。この一件は当時の軍事的緊張と地域支配の不安定さを象徴する出来事といえる。また、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には、島津軍の攻撃を受けている。
佐敷城は慶長18年(1613)に病死するまで加藤重次が城代を務め、周辺一帯の統轄拠点となったが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。寛永15年(1638)の天草・島原の乱の直後には、石垣が残っていることを理由に二度目の取り壊しが行われた。その後も細川氏の支配下で、佐敷御番所が置かれ、要地としての機能は維持された。また、正保4年(1647)の洪水時には、石垣を崩して堤防工事に利用された。
佐敷城の特徴と構造
佐敷城は標高87.5mの城山に築かれた山城で、八代海を望む立地にあり、海上交通と内陸交通を押さえる位置にある。城山は連山の北端にあたり、背後の山地と連続する地形を活かした防御性の高い構えとなっている。加藤清正により、薩摩の島津氏に対する「境目の城」として築かれた。
主郭(山頂部分)は17m×15mの長方形の平坦地で構成される。そこから南東へ延びる尾根上には、四段(四区画)ほどの曲輪が連続し、段階的な防御線を形成している。斜面には帯曲輪(幅5〜10m)が設けられ、その一部に高さ1.5〜2m、長さ約16mの石垣が確認されている。この石垣は、後の発掘調査により、近世初頭の総石垣造りの遺構であることが判明している。
また、城下にあたる本町一帯は南北約500m、東西約130mの範囲に広がり、城山を背後に、北と東を佐敷川が囲む地形となる。南側に開口部を持つ構造で、「溝口」「城戸口」といった地名が残ることから、出入口の存在がうかがえる。さらに北西麓には「射場」の地名も伝わり、軍事施設の痕跡をとどめている。



佐敷城の整備状況
佐敷城跡は、旧佐敷町を代表する遺跡として、昭和53年(1978)から三か年計画で公園化が進められた。現在は公園として整備されている。
昭和54年(1979)の発掘調査では石垣や瓦が出土し、その後も平成5年(1993)以降、本丸周辺の遺構確認や整備が進められた。平成10年(1998)には熊本県史跡に指定され、さらに平成20年(2008)には国史跡に指定されるなど、文化財としての価値が明確に位置づけられている。
近年では発掘成果をもとに石垣の整備や保存が進み、出土した「天下泰平國土安隠」銘の鬼瓦や、桐紋入鬼瓦などとともに、近世初頭の城郭遺跡として注目されている。城山公園としての景観整備も進められ、山頂からは八代海を望む眺望とともに、歴史と自然が重なり合う空間が広がっている。
参考文献:
- 『日本城郭大系18』城郭資料(新人物往来社)
- 『広報あしきた』(芦北町)
佐敷城の撮影スポット・絶景ポイント
佐敷城は、いわば「ミニ竹田城」を思わせる趣がある。山頂には石垣が重なり、曲輪の輪郭や連続する虎口に城郭としての構造美がよく表れている。細い通路が連なる構えも印象的で、城内はどこにレンズを向けても絵になる景色が広がる。晴れた日に訪れ、周囲の里や八代海と重なり合う風景を切り取ってみたい。レンズは広角から標準ズームがあれば十分だ。

佐敷城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、佐敷城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。佐敷城周辺の観光スポット・史跡めぐり
芦北町立武徳殿
佐敷城の東麓には「芦北町立武徳殿」が建つ。昭和12年(1937)築の建物で、芦北町の登録有形文化財に指定されており、落ち着いた佇まいが印象的だ。もとは剣道や柔道の武道場として建てられたものである。敷地の一角には、佐敷城代を務めた加藤重次ゆかりの墓石が2基残されており、あわせて見ておきたい。
薩摩街道佐敷宿
歴史旅情を楽しみたいなら、薩摩街道佐敷宿の町並みにも足を運びたい。佐敷城の麓を流れる佐敷川沿いには、かつて南部熊本の交易の要衝として栄えた薩摩街道佐敷宿の町並みが広がる。修景された町家や商家、寺社や祠が点在し、昭和初期の木造洋館も交じる風景は、往時の面影を色濃く残す。相逢橋からは宿場の広がりを一望でき、街道に斜めに並ぶ町屋や城と川を結ぶ路地が独特の景観をつくる。旧枡屋を活用した交流館も整備され、今に続く営みが感じられる。
佐敷城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:熊本県葦北郡芦北町佐敷44-6 [MAP] 県別一覧[熊本県]
電話:0966-87-1171(芦北町役場田浦基幹支所)
アクセス
鉄道利用
肥薩おれんじ鉄道、佐敷駅下車、登山口まで徒歩約20分。芦北町民総合センターのテニスコート裏に登山口有り。または、東麓の芦北町社会教育センター(御殿曲輪跡)南側に登山口有り。
マイカー利用
南九州西回り自動車道、芦北ICから西へ3分(1.6km)。山頂付近の三の丸下に無料駐車場有り。
佐敷城:城ファンの知見と記録
佐敷城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全4件)。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年より日本各地の城郭を訪ね歩き、取材と撮影を続けている。「先人たちの知恵とおしゃれ心」をテーマに、四半世紀にわたり城のたたずまいと土地の風土を記録してきた。撮影を通して城郭に宿る美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に残る歴史の息づかいを伝えている。作品は書籍、テレビ、新聞など多くのメディアで紹介され、城の美しさと文化を広く発信している。







佐敷城は葦北郡芦北町佐敷にあり、国道219号で八代方面へ北上した場合、「神瀬」の信号を左折し県道27号へ入ります。暫く(12kmくらいかな)道なりに進み、右手に「専妙寺」を越えたすぐを左折して佐敷川を渡ります。橋を渡ってすぐ道が2手に分かれますが、左手の道へ行き県道305号に入ります。ここから600m程行くと、右手に佐敷城の案内があるので右折します。
すると、車で上まであがれます。駐車場やトイレが完備されています。下から徒歩で登りたい場合は、途中に徒歩で登る散策路の案内が出ているのでそれに従えば行けます。現在、佐敷城跡城山公園となっており縄張図つきの説明もあります。
佐敷城、当たりは薄暗い、またタイムアウトか、と急ぐ。案内看板は後にしてとりあえず急いで天守部分へ。眼下にドーム、後ろは中学校であるが、ここに目をつぶって遠くを見渡すと海が一望でき、連なる山々。小雨混じりの天気でしたが、晴れていればきっとすごく綺麗な夕日であったろうと少し残念。石垣の構成度は但馬竹田城を思わせる、なかなかまとまった城でした。
佐敷城に着いたのが16時過ぎ、幸い夕日でしたが何とか山頂まで車で、写真は撮れました。富岡城と違って石の肌色が黒っぽいので、石垣の復元部分もあまり目立ち ません。刻印石もありました。眺望も素晴らしかったです。ライトアップの設備がありましたので、見たかったのですが、諦めて人吉温泉に一路向かいました。
佐敷城は整備されており、石垣にはかなり新しい石も入っているが、下部には当時のものと思われる石も見られた。2001現在は発掘調査が行われていて、一部は立ち入り禁止(見学にはさしたる影響はない)。ここでも、石垣に刻印(2つ)が確認できた。芦北町、気合入ってるなあ。