美濃金山城は天文6年(1537)に斎藤正義が築いた山城で、のちに森可成・森長可らが城主となり東美濃支配の拠点となった。木曽川を望む烏ヶ峰山頂に曲輪や石垣が連なる構えは戦国城郭の姿をよく伝える。現在は国史跡として整備が進み、山城歩きと撮影を楽しめる。本ページではその歴史と構造、見どころを紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
美濃金山城の歴史・見どころ
美濃金山城は木曽川左岸の烏ヶ峰(烏峰)山頂に築かれた山城で、天文6年(1537)春、斎藤正義が縄張りを始め、同年秋冬に竣工したと伝わる。正義は斎藤道三の信任を受け東美濃攻略の将となり、この城を与えられた。その後勢力は急速に伸び、遠山友政・岸信周・佐藤紀伊守・久々利悪五郎らを配下に収めたが、天文17年(1548)2月、久々利城で悪五郎に謀殺された。
その後、『新撰美濃志』には永禄8年(1565)に森可成が城主となるまで城主は不在であったと記される。可成は天文23年(1554)から織田信長に従い、戦功によって金山城を与えられた。元亀元年(1570)9月、近江宇佐山の戦いで討死し、城主の地位は子の森長可へと継がれた。
長可は織田信忠に従って各地を転戦し、天正5年(1577)には城下町の整備に着手した。金山湊の塩問屋を城下へ移し、塩や海魚の専売を行わせ、馬市・六斎市を許可したという。天正10年(1582)、長可は武田勝頼攻めに従い信濃・上野を転戦し、勝頼滅亡後の同年4月に信濃四郡を加増されて松代城(海津城)へ移った。これに伴い弟の成利(乱丸)が城主となったが、同年6月の本能寺の変で成利は討死した。
本能寺の変後、長可は金山城へ帰り、米田城・加治田城・大森城・上恵土城を攻略し、さらに高山城・妻木城の降伏、久々利城の攻略、小里城の勢力下入り、苗木城の落城などにより領内の支配を固めていった。その後、豊臣秀吉に属したが、天正12年(1584)の長久手の戦いで討死した。
長可の跡を継いだのは末弟の森忠政である。忠政は七万石を領し、慶長5年(1600)に川中島松代藩(松代城)へ再び移封された。その後、石川貞清(光吉)が城を支配し、慶長6年(1601)頃、犬山城主小笠原吉次によって金山城は破却された。この際、金山城の諸施設が木曽川下流の犬山城へ移築されたという「金山越」の伝承が残るが、昭和40年の犬山城天守解体修理の結果、移築説は否定されている。
美濃金山城の特徴と構造
美濃金山城は標高約263mの山頂に築かれた山城で、主郭部は東西約180m、南北約108mの規模を持つ。縄張りは西を大手、東を搦手とし、西側から出丸・三の丸・二の丸が連なり、東・西・南に腰曲輪を付属させて本丸防御の形態をなしている。
大手には東西12m・南北9mの枡形が構えられ、大手門は中央の大門扉の両側に潜門を設け、さらに両側に袖塀を付けて石塁につないでいた。大門を入ると、前方に高さ6mの石塁の上に二層櫓が位置していた。本丸は石垣で囲まれ、登り口には高さ約3m・幅約3mの石段が残る。南腰曲輪には高さ約2.3mの土塁が築かれ、東腰曲輪には野面積みの石積みが見られる。搦手の左近屋敷跡には石塁・土塁が二段に続き、その下に堀切が構築されている。
美濃金山城の整備状況
廃城後は城山一帯が尾張藩のお留山や国有林として管理され、近代まで大きな改変を受けず伝えられてきた。現在は国史跡「美濃金山城跡」として保存整備が進められている。
関ヶ原の合戦後に破城されたのちも、大きな改変を受けることなく約400年の歳月を経て今日に伝えられている。織豊期城郭の特徴を今に伝える遺構が良好な状態で残る例は、東海地方でも多くはない。可児市教育委員会による発掘調査では、本丸の礎石建物跡や石組排水施設、虎口構造などが確認された。平成25年(2013)に国史跡に指定され、主郭部を中心に遺構の保存と見学環境の整備が継続されている。
- 『日本城郭大系9』(新人物往来社)
- Webサイト「美濃金山城跡」(可児市)
美濃金山城の撮影スポット・絶景ポイント
美濃金山城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、美濃金山城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。美濃金山城周辺の観光スポット・史跡めぐり
伝移築城門
移築城門が二基ある。うち、大手枡形二の門(高麗門)は、愛知県犬山市の瑞泉寺に移築されていたもので、2025年3月、金山城跡の麓(戦国山城ミュージアム前)に再移築された。
- 裏城戸門・浄音寺山門(岐阜県可児市兼山698)斎藤正義の墓有り
- 大手枡形二の門・可児市戦国山城ミュージアム(岐阜県可児市兼山常盤町675-1)
戦国山城ミュージアム
岐阜県可児市にある可児市戦国山城ミュージアムは、美濃金山城跡のガイダンス施設として整備された歴史展示施設だ。森氏ゆかりの資料や発掘成果、山城の構造を示す模型やパネルなどを通じて、東美濃の戦国史と山城の魅力を学ぶことができる。城跡見学の前後に立ち寄れば、遺構理解が深まり、山城歩きがより充実したものとなる。
美濃金山城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
電話:0574-62-1111(可児市歴史資産課)
アクセス
鉄道利用
名鉄広見線、明智駅下車、YAOバス「元兼山町役場前」降車、約15分で搦手道登山口。山頂の城跡まで登山約30分。
マイカー利用
中央自動車道、土岐ICから北へ約23分(18.5km)。
第一駐車場、第二駐車場が麓にあるが、さらに車道を登り、出丸跡まで行くと良い。無料駐車スペース(14台)がある。
美濃金山城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット
現地では解説板が充実
城跡は散策自由。美濃金山城の出丸跡から主郭部へ至る登山口に資料BOXがあり縄張図などが掲載されたパンフレットをGETできる。城跡では、解説板が各所で設置されていて、目に見えるものを中心に理解を深めることができる。
また、可児市のWebサイトで、美濃金山城の発掘調査報告書が閲覧できる。
可児市戦国山城ミュージアム
明治18年創建の小学校を修復した資料館。可児市の山城についての展示がある(岐阜県可児市兼山675-1)。
美濃金山城:城ファンの知見と記録
美濃金山城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全2件)。
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年より日本各地の城郭を訪ね歩き、取材と撮影を続けている。「先人たちの知恵とおしゃれ心」をテーマに、四半世紀にわたり城のたたずまいと土地の風土を記録してきた。撮影を通して城郭に宿る美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に残る歴史の息づかいを伝えている。作品は書籍、テレビ、新聞など多くのメディアで紹介され、城の美しさと文化を広く発信している。







標高280mの古城山の山頂に築かれている。本能寺の変で信長ともともに討たれた森蘭丸が生まれた城。麓の大手道付近に(伝)蘭丸の産湯の井戸がある。美濃金山城には井戸はなく、汲み上げていたらしい。
美濃金山城は戦国期の石垣を多く残している。山頂部、天守があった本丸の石垣は天然の岩盤を利用して造られていて織豊系城郭らしさが素敵です。