松代城の歴史・見どころ

松代城の歴史

松代城(まつしろじょう)は、永禄3年(1560)、武田信玄が越後の上杉謙信との川中島の合戦に際して築いた海津城に始まる。犀川と千曲川に挟まれた川中島平は古くから豊かな穀倉地帯であり、海津城は上杉氏に備える武田氏の北辺防衛の最前線であると同時に、川中島を掌握するための重要拠点でもあった。

武田信玄が信濃で築いた城には既存の城を取り立てたものが多いなか、海津城は新たな場所を選んで築かれており、『日本城郭大系』は軍事面だけでなく民政も考慮した築城であったとみている。築城工事には香坂氏らが従事したとされ、城将には香坂弾正が置かれた。

天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると織田方の森長可が入城した。本能寺の変後は上杉景勝の支配下となり、村上景国が城を守った。その後、上条義春、須田満親が城将を務めた。

天正13年(1585)、上田城を本拠とする真田昌幸が徳川家康と対立し、上杉景勝に帰順した。第一次上田攻めに際して景勝は北信濃の男子を動員して須田満親の指揮に従わせるなど、北信四郡の軍政・民政は海津城将に委ねられた。上杉景勝の会津移封後は豊臣秀吉の蔵入地となり、田丸直昌が海津城から更級・埴科・高井三郡を支配した。

慶長5年(1600)、徳川家康は森忠政に川中島四郡十三万七千石余を与えた。この頃に「待城」と改称され、慶長8年(1603)には家康の六男松平忠輝の領地となり、「松城」と呼ばれるようになった。その後、松平忠昌、酒井忠勝と短期間に領主が交代した。

元和8年(1622)、真田信之が上田から移封され、以後、明治維新まで真田氏が代々城主を務めた。正徳元年(1711)、真田家3代幸道の時代には幕命によって「松代城」と改称された。

享保2年(1717)の火災では本丸・二の丸・三の丸を焼失し、江戸時代中頃からは本丸南西の花の丸御殿が藩主の政務と生活の場となった。また、千曲川に接する城はたびたび洪水に見舞われ、寛保2年(1742)の「戌の満水」では大きな被害を受け、幕府から一万両を借りて城の修復と千曲川の改修が行われた。

明治5年(1872)に廃城となると、城内の土地や建物は順次払い下げられ、建物も取り壊された。翌明治6年(1873)には花の丸御殿も焼失した。昭和56年(1981)、本丸を中心とする旧城郭域の一部と新御殿(真田邸)が国史跡に指定され、平成27年(2015)には二の丸南東部、三日月堀、丸馬出しなどを含む範囲が追加指定された。

松代城の特徴と構造

松代城は、川中島平南部の千曲川沿いに築かれた平城で、本丸外郭を含む城域は約2.49haを占める。北には千曲川が天然の堀のように流れ、東・南・西を山に囲まれ、関屋川や神田川なども外堀として利用した。南は地蔵峠を経て小県地方へ通じ、武田氏にとって北辺防衛と川中島の穀倉地帯を押さえる要地であった。

本丸は内法約72.4m四方で、周囲には高さ約3.72m、馬踏み約1.8mの石塁がめぐり、その外側を堀が囲んでいた。築城当初は石垣を持たず、土塁と堀を主体とした城構えであったとされ、長野市では、関ヶ原の戦い後に城主となった森忠政の時代に二の丸・三の丸が整備され、本丸土塁もこの頃に石垣へ築き直されたとみている。『日本城郭大系』では、北西隅の戌亥櫓台にあたる石垣について、天端内側の彎曲構造から慶長年間(1596~1615)以前の石積みとする見方を紹介している。石垣は直線的で野面積みを主体とする。

本丸南側を大手として内桝形を設け、北側の搦手は外桝形としたほか、東側には二の丸へ通じる櫓門、三隅には二層の隅櫓を配置した。二の丸は本丸の東・南・西を囲み、各方面に桝形と櫓門を設けた。東と南の虎口外側には丸馬出しがあり、これに伴う土塁や三日月堀は、武田氏による築城技術を伝える貴重な遺構である。

さらに三の丸東側には大桝形と大御門を置き、城内への正面入口とした。城下を含む外郭には総構えの土塁も築かれ、東西約1.2km、東辺の南北約1.0kmに及んだ。内部には侍屋敷や町屋敷、寺町などが配置され、本丸・二の丸・三の丸から城下へと広がる城郭を形成していた。

松城城太鼓門
本丸南側の正面入口にあたる太鼓門。発掘調査や絵図をもとに復元された。
松城城戌亥櫓台
本丸北西隅に残る戌亥櫓台の石垣。江戸時代には二層の隅櫓が建っていた。
松城城北不明門
本丸北側の搦手にあたる北不明門。櫓門と枡形門からなる門構えが復元されている。
松城城埋門
二の丸の土塁に設けられた埋門。土塁をくぐるように通路が設けられている。

松代城の整備状況

松代城跡では、平成7年度(1995)から平成16年度(2004)に第1期整備が行われた。享保2年(1717)の大火以前の史料が乏しいため、大火後の再建から廃城までの姿を基本とし、発掘調査や江戸時代の絵図をもとに太鼓門、北不明門、太鼓門前橋などを復元したほか、石垣の修復、土塁や内堀などの整備を実施し、江戸時代末期の城郭空間を再現している。

現在は、平成27年(2015)に国史跡へ追加指定された範囲を中心に第2期整備が進められている。丸馬出しや三日月堀を伴う二の丸虎口、外堀などの城郭景観の再現を進めるほか、老朽化した太鼓門前橋と二の丸引橋の架け替え、戌亥櫓台の階段・柵の改修も実施された。二の丸東側の石場門では、第1期整備で虎口石垣が保存修理され、第2期整備では櫓門の復元を目指して絵図や古写真などの史料収集が続けられている。

参考文献:

  • 『日本城郭大系8』(新人物往来社)
  • 「松代城」(長野市)

松代城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット

真田宝物館

松代藩主家に伝来した大名道具や古文書、美術工芸品などを収蔵・展示する博物館。武具や調度品をはじめとする貴重な資料を通して、江戸時代の藩政や大名家の暮らし、城下町の文化を学ぶことができる。

松代城の撮影スポット・絶景ポイント

松代城の写真(城写真ARCHIVE)

城郭カメラマン 岡 泰行が30年にわたり撮影・記録してきた「城写真ARCHIVE」では、松代城の魅力を写した写真を公開している。訪問前の見どころ探しや、旅の余韻を振り返る際にも役立つ。

松代城周辺の観光スポット・史跡めぐり

川中島古戦場跡

武田信玄と上杉謙信が北信濃の支配をめぐって争った川中島の戦いの舞台。なかでも永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いは激戦として知られ、現在の八幡原史跡公園一帯がその古戦場とされる。園内には武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの像や、武田軍が本陣を置いたと伝わる八幡社などがある。松代城の前身である海津城は上杉氏に備える武田氏の拠点として築かれており、松代城とあわせて訪ねることで、川中島をめぐる武田・上杉両氏の攻防をたどることができる。

松代城下に残る古建築

松代城下には、真田氏の城下町として栄えた時代を伝える古建築が各所に残っている。なかでも真田邸、旧横田家住宅、旧前島家住宅は内部を見学でき、藩主の御殿から武家屋敷まで、それぞれの建物や屋敷構えを間近に見ることができる。

城下を歩けば、倉澤家長屋門、馬場家長屋門、旧白井家表門など、武家屋敷の面影を伝える門も残る。小山田家や旧真田勘解由家住宅などの歴史的建築とあわせて巡れば、松代城を中心に武家地が広がっていた城下町の姿を、現在の町並みのなかにたどることができる。

松代象山地下壕

江戸戦国時代ではないが、松代を語るうえで欠かせない歴史遺構を紹介しておく。太平洋戦争末期、本土決戦に備えて政府中枢機能や大本営などを移すために掘削された地下壕。松代に残る近代戦争遺跡のひとつで、一部が公開されている。

松代城周辺グルメ・名物料理

日暮し庵

松代の歴史ある街並みに佇む人気の蕎麦処。風味豊かな挽きたて・打ちたての手打ち蕎麦を、出汁の効いたつゆとともに堪能できる。のど越しの良い細打ち蕎麦はもちろん、カラリと揚がった季節の天ぷらや郷土感あふれる一品料理も評判。松代散策の途中に立ち寄りたい名店と言っていい。

松代城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:長野県長野市松代町松代44

県別一覧:[長野県の城]

電話:026-278-2801(松代文化施設等管理事務所・真田宝物館)

アクセス

鉄道利用

JR「長野駅」下車、善光寺口からバスで約30分「松代駅」降車、徒歩約5分。

マイカー利用

上信越自動車道「長野IC」から約5分。無料駐車場有り(60台)。