苗木城は天文初年(1532頃)、遠山氏の本拠として木曽川北岸の高森山に築かれた山城だ。絶壁の地形と巨石を利用した石垣を生かした独特の縄張が特徴で、近世に至るまで山城の姿を保ち続けた。現在は天守跡から恵那峡を望む眺望が魅力で、このページでは歴史や構造、整備状況を写真とともに紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
苗木城の歴史・見どころ
苗木城は木曽川北岸の高森山に築かれた山城で、遠山氏の本拠として知られる。築城時期には諸説あるが、天文年間(1532〜1555)、岩村城主遠山景友の次子とされる遠山直廉が高森山に移り城を構えたことが創始と伝わる。応仁の乱後、美濃東部は小笠原氏の勢力下にあったが、小笠原家の衰退に伴い、天文初年頃に遠山氏が旧領回復を進める中で苗木城が拠点として整えられた。直廉は織田信長と姻戚関係を結び、信長の美濃進出後は中山道防衛の一翼を担った。
元亀元年(1570)に直廉が没すると、信長は飯羽間城主遠山友勝の子・友忠を城主に据え、武田氏に備える東美濃の重要拠点とした。元亀3年(1572)には武田信玄の侵攻により周辺諸城が落城するなか、苗木城は織田方として機能し続けた。しかし天正11年(1583)、本能寺の変後の混乱の中で友忠は森長可と争い城を去り、苗木城は森氏の支配下に入った。その後、川尻直次が城代となる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに際しては、徳川家康の命により遠山友政が苗木城を奪還した。西軍側の城代川尻直次が不在の隙を突いたものであった。戦後、友政は恵那・加茂両郡の一部を与えられて苗木藩を立てた。以後、遠山氏は明治維新までこの地を治め、山城でありながら廃されることなく近世を通じて存続した。明治4年(1871)の廃藩置県により城は廃され、建物は売却されるなどして姿を消した。
苗木城の特徴と構造
苗木城は標高約426mの高森山頂に築かれ、木曽川に面して断崖をなす天然の要害に立地する。比高は約126mで、城域は南北約315m・東西約130mに及ぶ。主要部は本丸・二の丸・三の丸から構成され、本丸は百余坪ほどの小規模な平場ながら、巨石の岩盤上に築かれた石垣と懸造りの建物群によって堅固な防御を備えていた。
天守は三層で、周囲には武器庫や勘定所、具足蔵などの諸施設が配置された。二の丸は帯曲輪状に本丸を囲み城主の居館が置かれ、さらに下方の三の丸には広い平場と大櫓が設けられていた。急峻な四十八曲坂を大手道とし、岩場と石垣を巧みに組み合わせた山城の典型的構成が見られる。
苗木城の整備状況
苗木城跡は国史跡に指定され、城山一帯が公園として整備されている。近年は石垣保存修理や見学路整備が進められ、天守跡には展望施設が設置された。木曽川や恵那峡を望む眺望は往時の立地条件を体感できる要素となっている。また案内板や解説施設の充実により、遠山氏の歴史や山城の構造を学びながら散策できる環境が整えられている。
- 『日本城郭大系9』(新人物往来社)
- Webサイト「苗木城の歴史と遠山氏」(国土交通省観光庁)
苗木城の撮影スポット・絶景ポイント
苗木城の二の丸や本丸を望むには西の足軽屋敷跡からが良い。近年、足軽屋敷跡が整備され、城山を綺麗に捉えることができる(冒頭の写真)。また、そのロケーションを撮影するには、木曽川にかかる橋から狙うと良い。特に玉蔵橋から城山&木曽川を狙うと良し。時間は夜明け〜午前9時頃あたり。晩秋の夜明けには、木曽川の霞と城山(または雪景色)と情緒があって良い。
苗木城の写真集
城郭カメラマンが撮影した「お城めぐりFAN LIBRARY」には、苗木城の魅力を映す写真が並ぶ。事前に目にしておけば現地での発見が鮮やかになり、旅の余韻もいっそう深まる。苗木城周辺の観光スポット・史跡めぐり
苗木藩遠山家の墓所
苗木城の西にあり、苗木藩の初代藩主、遠山友政の以下、苗木藩は明治に至るまで国替えがなく、同所に歴代藩主と一族の墓碑がある。苗木遠山資料館には『雲林寺過去帳』が遺り、すべての墓碑が確認できているのだとか。また、苗木遠山史料館から少し南下したところには、苗木藩士安田太左衛門殉死の跡があり、その石碑がある。
苗木城周辺グルメ・名物料理
「すや」和菓子店。中津川駅前通り200m角。「栗きんとん」など栗菓子をどうぞ(伊藤裕之 2000)。
苗木城アクセス・駐車場・営業時間
所在地
住所:岐阜県中津川市苗木2897番地の2 [MAP] 県別一覧[岐阜県]
電話:0573-66-8181(苗木遠山史料館)
開館時間
苗木城は散策自由。「苗木遠山史料館」は9:30〜17:00まで(入館は16:30まで)
アクセス
鉄道利用
JR中央本線、中津川駅下車、北恵那鉄道バス「苗木」下車、徒歩20分。
マイカー利用
中央自動車道、中津川ICから約10分。中津川ICからは、中津川市街方面下車、国道19号(旧道)「青木」交差点左折、北上後「城山大橋」(有料道路)先を右折。有料駐車場有り。
苗木城周辺ホテル・宿泊情報
「長多喜」古民家の離れに宿泊、地のきのこ懐石など(伊藤裕之 2000)。
苗木城をより深く学ぶ展示・資料館・学習スポット
苗木城の風吹門とジオラマ
苗木遠山資料館には、現存の風吹門(鏡柱・冠木・門扉)が館内に展示されており、また、苗木城のジオラマ模型があるので、登城前に見ておきたい。なお、風吹門と模型は撮影可。
苗木遠山資料館でGET
苗木城内散策には、簡単なイラストマップが記載された四つ折パンフ『苗木城』で充分だが、ほかに手に入れてほしいパンフがある。いずれも苗木遠山資料館でGETできる。
- 『苗木城 歴史と城山』(苗木城跡・苗木遠山資料館発行・A420ページ・フルカラー)500円
- 『苗木城跡』(中津川市発行・無料・A4・8ページ・フルカラー)無料
『苗木城 歴史と城山』は、当時の絵図はもちろん、各曲輪の解説が詳しく記載されており、遠山苗木氏の歴史や苗木藩の寺院と墓地などが紹介されている。
そのほか『新苗木物語』苗木城跡・苗木遠山資料館友の会発行、平成29年新刊、1,200円。中世苗木の歴史ガイドとその始まりが解る。
無償配布のパンフレットは、『東美濃の山城』東美濃歴史街道競技会「東美濃の山城」推進部会発行・A48ページ、カラー、無料。岩村城と岩村城下町、美濃金山城、苗木城跡の代表的な見どころと縄張図を掲載。それぞれのグルメや周辺情報を掲載している(shirofan 2019)。
中津川市苗木遠山史料館には『苗木城 城山と歴史』のほか、苗木城の模型や代々の藩主の資料や、武田家からの手紙などがあり小さな資料館ながら展示物が豊富で興味深い(たかぼん 2013)。
苗木城:城ファンの知見と記録
苗木城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全12件)。
苗木城での発見を記録に残しませんか?
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年より日本各地の城郭を訪ね歩き、取材と撮影を続けている。「先人たちの知恵とおしゃれ心」をテーマに、四半世紀にわたり城のたたずまいと土地の風土を記録してきた。撮影を通して城郭に宿る美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に残る歴史の息づかいを伝えている。作品は書籍、テレビ、新聞など多くのメディアで紹介され、城の美しさと文化を広く発信している。







地元の写真家を中心に「苗木城跡を世界に広める会」を立ち上げました!
ホームページにはたくさんの苗木城跡の魅力的な写真を公開しています。
2015年度は撮影マップを製作する予定です。
是非チェックしてみてください。
http://takaminecloud.mizunoinfo.com/4DCGI/NAEG
平成13年度〜15年度にかけて、本丸跡の石垣の整備工事が行われた。
平成26年1月8日(水)〜3月13日(木)まで、二之丸的場跡の石垣修復工事が行われています。期間中は立入禁止だそうです。
自然のままの大きな岩を豪快に石垣に組み入れた山城。その特異な雰囲気には息を飲む。眼下に広がる眺望も圧巻の一言。 遠山氏の代々の居城。小藩ながら幕末までこの地を治め続けた。財政難から壁を塗ることはできなかったがため、俗称「赤壁城」の名も持つ。
再現された櫓(展望台と呼んだ方が適切かもしれません)があります。中津川市内を一望できます。
本丸横の馬洗い岩は、籠城戦時、敵による井戸水抜きにもかかわらず、城内に豊富に水があるように見せかけるため、この岩に馬を乗せ、米で馬を洗い、遠目には水を使っているかのように見せ、敵の士気をくじいたとの伝説が残る。
となり町にある岩村城と並び、山城のなかの名城。眼下に木曽川が流れ天然要害で山は岩盤が露出しており、岩盤そのものを天守台にし天守が建っていたとされる。石垣も保存状態よく多く残っている。
東美濃・恵那郡内の遠山三人衆である苗木遠山氏の居城。三人衆は、他に岩村遠山氏、明智遠山氏。森長可に攻められ落城し、その後河尻直次などが守っていたが、関が原の戦い後は、遠山氏が奪取し続いた。
建武年間に遠山景村が築いたとも、天文年間に直廉が創築したとも云われる。岩村遠山氏の支城として遠山氏の支流が住んでいたが、本能寺の変後森長可に追われ、後には川尻直次が封じられた。関ヶ原合戦後、家康に身を寄せていた遠山友政が旧領復帰し、以後12代続いて維新を迎えた。
見所はずばり石垣。壮大な岩が巧妙に組まれている様は圧巻です。私が訪れたときは本丸跡は崖崩れのため、立ち入り禁止だったので見れませんでしたが、大櫓跡から仰いだ本丸も圧巻でした。山上にあるので景観もすばらしく、ぜひ一度行ってみてください。鉄道だと行きづらいので自動車で行くことをお勧めします。
1532年、遠山直廉によって築城された。その後(1583年)、一度は森氏に城を奪われるものの、関ヶ原の戦いの際城を奪還。遠山友政は、家康より一万五百余石を安堵された。十二代友禄のとき明治維新を迎える。その際、苗木藩の断行した徹底的な廃仏毀釈は全国にも類を見ないほどに厳しいものであったとして有名。
小藩の城ながら、戦国時代の山城の雄々しい特長(石塁など)を随所に残しているため、国の史跡に指定されている。地域柄、織田信長と武田信玄の勢力争いのただ中にあり、この苗木城の争奪合戦も展開された。