写真:岡 泰行

丸岡城の歴史と見どころ

1576(天正4)年、この地方の一向一揆が織田信長方に平定されると、信長は柴田勝家に越前を与えた。勝家はさっそく、北ノ庄城の築城に取りかかる。勝家の甥で養子となっていた勝豊は、一揆方の拠点があった豊原に配され、丸岡に北ノ庄城の支城となる城を構えた。これが丸岡城のはじまりとされる。

信長が本能寺の変で横死した後に開かれた、いわゆる「清洲会議」の結果、勝豊は近江長浜城に移ることとなった。その後は勝家家臣の安井家清、丹羽長秀と豊臣秀吉に仕えた青山宗勝・忠元父子が入封。関ヶ原の戦いで西軍についた青山氏が改易されると、福井藩主となった結城秀康の家臣、今村盛次が入城した。

1612(慶長17)年、秀康の後を継いだ松平忠直の附家老として新たに入城した本多成重は、忠直が不行状により隠居・謹慎に処せられると、大名として独立を果たす。本多氏4代の重益は、暗愚で資質に欠けているとされ改易。1695(元禄8)年、今度は糸魚川から、有馬清純が5万石で入封。以後、有馬氏が明治維新まで続く。

1871(明治4)年の廃藩置県後は、天守を除く建物などの設備は次々と破却された。天守も売却されかかるが、「最古の天守」という文献を元に丸岡町(当時)が1901(明治34)年に買い戻した。1942(昭和17)年には、改修工事が為されている。

戦後の1948(昭和23)年6月28日に発生した福井地震により、天守は倒壊してしまう。しかし、前述した改修工事時に作成された調査報告書を元に、倒壊以前の部材を70%以上使用した天守が1955(昭和30)年、完成した。この間、1950(昭和25)年には国の重要文化財に指定されている。

丸岡城の構造

福井平野の北部に位置する、標高17mの独立丘陵に築かれた丸岡城。本丸は、総石垣が施されている。本丸を取り囲むように二ノ丸が配され、そのまわりを最大幅91mの内堀が囲っていた。さらに外側には、三ノ丸と外堀がある。このうち内堀は埋め立てられたが、一部の外堀は今も水路(田島川など)として残っている。

現存12天守のひとつに数えられる天守は、2層3階の望楼型である。建物や石垣の形状が古いため、柴田勝豊時代の建造と言われ、「最古の天守」とされていたが、2019年に発表された地元坂井市教育委員会の学術調査により、寛永年間(1624〜1644年)に建造されたことが判明した。これは、本多成重時代にあたる。1階に2、3階の望楼部分を乗せた構造で、1階と望楼部に通し柱はない。

1階の部屋の外側には、一間幅(約1.8m)の武者走り(入側)があり、壁には格子の突き上げ窓や鉄砲や矢を放つ狭間、石落としが設けられた実戦的な造りとなっている。天守内には急階段があり、登る際に身体を支えるロープが備えられている。3階は四方に窓があり、外には回廊が巡らされ、日本海も遠望できる。

屋根は、この地方で産出する笏谷石(しゃくだにいし)で作った瓦が葺かれているが、現存12天守で瓦が石製なのは、丸岡城だけである。鯱も笏谷石製で、福井地震で落下したため現在は、天守入り口の階段横に展示されている。その代わりとして、木芯銅張りの鯱が乗せられている。

丸岡城天守の階段は日本一の傾斜角

天守の階段の上りにくさでいうと丸岡城は現存天守の中で1番だ。2階〜3階の階段が最も急で傾斜角約65度、一段あたりの段差がなんと27cm、踏面も最小で12.5cmしかない。そのほか1階〜2階階段は約60度、天守への石階段は約29度となっている。余談ながら姫路城天守の階段は、おおよそ44度〜51.5度の傾斜角。

昭和23年の福井地震

福井城には、昭和23年の福井地震で歪んだ石垣が見られるが、ここ丸岡城では、天守下に置かれた笏谷石の鯱がその傷跡を今に伝えている。震災当時の目撃談では、天守が一瞬浮いて崩れたらしい。福井地震の震源地だった丸岡では、直下型の揺れがあったのだろう。

丸岡城の移築城門は2基

移築城門は2基。不明門(あかずの門・東向き)が丸岡町野中山中の民家宅に移築され残っている。なお、この門は、その所有者のお話によると、もともと2層だったが福井震災により大きな被害を受けたため、一層に改修されたとか。とはいえ、その風格は堂々たるもので、笏谷石を用いた鬼瓦は左右、阿吽のかたちとなっている。また、もう一方のあわら市前谷の蓮成寺に残る移築城門は、丸岡城のものと伝承が残るが、どの門なのかなど詳細は定かでないらしい。

丸岡城の関連書籍

『越前丸岡城と歴代城主』(宮本久 著・丸岡観光ボランティアガイド協会)368ページ。丸岡城の構造について詳しく触れられている。

丸岡城の撮影方法

とにかく早朝に登城すべし

丸岡城天守の顔というべき方向は東向きで、そのため早朝の撮影が適している。また、ここで別名について触れておきたい。福井の空は晴れといっても薄い雲に覆われていることが多く、空気も少し霞んだ印象がある。丸岡城が別名を「霞ヶ城(かすみがじょう)」というのはそれに由来しているらしい。遠くから見ると春霞で城が見えないことがあるのだとか。もしこうしたシチュエーションに出会えれば遠景を1枚押さえておきたい。

丸岡城の写真集

城郭カメラマン撮影の写真で探る丸岡城の魅力と見どころ「お城めぐりFAN LIBRARY」はこちらから。

丸岡城の関連史跡

ここ丸岡では、本多家歴代墓所菩提寺である巽町の本光院、有馬家の菩提寺にある有馬家歴代墓所。車で丸岡城から15分の豊原三千坊(豊原城・丸岡城の前身)あたり。なお、城下に残る田島川は、当時の水堀。城の南西徒歩すぐにある「タブの木」のそばなどの石垣は当時のものらしい。移築城門なら、丸岡町野中山中の民家宅にある不明門、あわら市前谷に残る蓮成寺山門の2基。その他、同じ福井の有名城といえば、北ノ庄城福井城一乗谷城といったところをまとめて攻めてみて。

丸岡城のおすすめ旅グルメ

「四ツ屋」定食屋。室町散髪屋の横。または「にしきど」老舗のめし屋。町の中央 メインストーリから一歩入ったところあたりか。

丸岡城の史跡めぐりにこだわる最適なホテル

丸岡で宿泊できるところはごく少なく丸岡町の人は、福井の宿をすすめていた。有名城の中心に位置する福井で探すのが得策。JR福井駅から徒歩3分、お堀ばたにある「ホテルニューユアーズ」がリーズナブルでおすすめ。

丸岡城のアクセス・所在地

所在地

住所:福井県坂井市丸岡町霞町1-59 [MAP] 県別一覧[福井県]

電話:0776-66-0303(丸岡城管理事務所)

開館時間

8:30〜17:00(最終入場は16:30)
入城料・見学料 450円、年中無休。
ボランティアガイドあり。

アクセス

鉄道利用

JR北陸本線、丸岡駅下車、タクシー約15分。駅前にタクシー呼び出し用のTELがある。

バス

バスは2~3時間に1本程度のため、旅の自由度から考えるとあまりおすすめしない。

福井駅からバス

駅前バスターミナル1番乗り場から京福バス「県立病院丸岡線」または「大和田丸岡線」乗車。2番乗り場から「丸岡線・丸岡城行」乗車(朝・夕のみ運行)。約42分、バス停「丸岡城」降車。

丸岡駅からバス

京福バス「JR丸岡駅」バス停から「82系統 丸岡永平寺線 永平寺口駅前行」(1日6本)乗車13分、バス停「丸岡バスターミナル」下車、徒歩5分。

マイカー利用

北陸自動車道、丸岡ICから約4分(1.6km)。一筆啓上茶屋前駐車場(40台)、一筆啓上日本一短い手紙の館北駐車場(乗用車140台、バス4台)、いずれも、6:30〜20:00 無料。

城ファンの気になるところ (13)

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    現存する最古の天守閣(最古天守は犬山城松本城とかで競っているけど)に、なるほど納得する無骨なフインキに感激。角川映画『戦国自衛隊』で丸岡城天守が撮影に使われたのは有名な話。

    ( kinoshita)

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    今にも崩れそうな野面積の石垣、クレオソートを塗りたくなるような乾燥しきった下見板(部分的に新しいのは昭和の修理時のものか)。

    ( 城山神々)

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    丸岡城は城跡が整備されているため現存天守以外見るべきものが無い。現存する最古の「丸岡城図」に見られる内堀の外郭どおり道路がはしり、堀が埋め立てられ宅地化されてしまっている。縄張り、普請、作事が三位一体となったものを城郭と呼ぶそうだが、このうち二つが欠けていることが、この城のもの寂しい雰囲気をつくっているように思う。

    ( 城山神々)

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    丸岡城の天守を見ると、天守台と天守初層外壁の間に隙間があるため、雨水流入を防ぐための板庇を被せてあるのが独特と言えばそうなのかと思うが、なぜ、天守台と天守初層の外寸を一致させないのか、天守は移築なのかという疑問が残る。破風部分の石瓦が伏せ気味なのは降雪を滑り落とすためだろうか。

    ( 城山神々)

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    柴田勝豊が北ノ庄城の支城として丸岡の豊原寺跡に築城したが、山城の為、交通の便が悪く、丸のおかに移転した。これが、現在の丸岡城です。この城は対一向一揆の最前線基地であり、一揆勢が来襲したおり井戸から大蛇が出てきて城をまるごと霧で隠し守ったと言う事から、霞ヶ城ともよばれている。標高17mの平山城である。

    ( 浅井備前守)

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    毎年、春4月と秋10月には「丸岡祭り」。祭りは3日間あるが必ずどの日かは、雨がふる。マジに!この城はいろいろイワクつきだが人柱になったお静さんの涙と言われてる。全国に人柱伝説は多いが、ちなみにここは鎮魂の石碑がある。大蛇伝説も。コワ〜 あとお城の下の公園に資料館があります。

    ( 浅井備前守)

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    丸岡城の天守は回縁をめぐらせた望楼を、櫓の上に載せた形態で、前期望楼型の典型とされている。外から見ると2階立てに、見えるが、実は3階立て。階段はとても急で綱がひいてある。お年寄りにはキツイかも。

    ( 浅井備前守)

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    奇妙な太鼓の音で始まる登城案内のテープとは丸岡町民なら誰もが強制的に?覚えさせられた(振り付け、アクション等など小学生時に)トントンばやしといわれる踊りの音楽です。歌詞の内容は丸岡城や丸岡の自然のことを歌ってます。運動会やレクレーションなどでは必ずトントンばやしを躍らされた。もう17、8年前のことです。懐かしい。

    ( 浅井備前守)

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    天正4年(1576)、越前国守護柴田勝家の甥、柴田勝豊が築城した城、そのお城の公園に鯉が住んでいます。この鯉は、僕の友達の家の人がお城に送ったそうです。僕は昔ここの隣にある平章小学校に通っていました。毎年ある、写生大会では僕は必ず丸岡城を書いていました。だから、このお城の偉大さに気づきませんでした。このお城は、壮大さや、豪華さはないがいろいろな歴史がつまった質素なお城です。みんなに知られなくても、ファンの人だけに知ってもらいたいというのが本音です。

    ( yoshisada)

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    城入り口の右脇に石碑が建っている。碑には「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」と書かれており、本多門重次が陣中から妻に宛てて送った手紙だそうな。お仙とは、6代城主 本多成重のことなのだとか。これが最近有名になった日本一短い手紙の「一筆啓上」のもと。詳しくはこちらをチェック!

    ( 半兵衛)

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    丸岡城の独自の冊子等が見つからず、仕方無しに絵葉書を買った。開封部にはベッタリとセロテープが貼られているので剥がすときはゆっくりと。また、どこの城でも売ってるが、売店で『城番付のれん』を買った。単に石高順に序列してるだけだが、横綱不在、御三家を番外にしている点にセンスが感じられる。

    ( がぶっと)

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    平成27年の坂井市が、新たに見つかった戦前の修理報告書を調査。石瓦葺の下に「こけら葺」の一部があったとする内容を調査している。石瓦で有名な丸岡城だがもしかしたら、最初はそれが無かったのかもしれない。そのほか、鯱の一部に金箔が使われていたことや、懸魚が漆塗りだった可能性があるとしている。

    ( 丸岡城好きアラサー)

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    現存12天守のうち、丸岡城はその様式から最古の天守とこれまでいわれてきたが、福井市教育委員会が行った2019年の調査で、天守の木材が1620年代後半に伐採されたものが多いことが分かったらしい。となると最古ではなく寛永年間となる。一部の古材は2017年の調査で(天守地階の古材の調査)それより以前の伐採の木材も出ているが、占める木材のパーセンテージが寛永年間の方が多いのかもしれない。

    ( くんたきんて)

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