鎌刃城は戦国期、近江北部の境目に築かれた山城で、堀氏の居城として領地争いの最前線に置かれた歴史をもつ。標高384mの山頂に主郭を置き、尾根上に多数の曲輪や堀切、石積みを配した大規模な縄張りが特徴だ。現在も枡形虎口や石垣などの遺構が良好に残り、山城景観と撮影の魅力を伝えている。このページでは鎌刃城の歴史と見どころを紹介する。
写真:岡 泰行(城郭カメラマン)
鎌刃城の歴史と見どころ
鎌刃城(かまはじょう)は、滋賀県米原市番場の標高384mの山稜上に築かれた戦国期の山城だ。築城の起源は古く、番場の領主であった土肥氏の築城と伝えられてきたが、近年の発掘調査では、土肥氏の本拠は山麓の「殿屋敷遺跡」にあった可能性が高く、山頂の鎌刃城の成立はそれより後の時期と考えられている。
史料上の初見は『今井軍記』文明4年(1472)8月条で、京極氏方の被官今井秀遠が「堀の城」と呼ばれた鎌刃城を攻めた記事が見える。この頃には堀氏が城主として在城し、江北の守護京極氏や江南の六角氏の勢力が拮抗する境目にあって、地域支配の拠点となっていたとみられる。
天文4年(1535)以降、京極氏と六角氏の抗争が激化すると、鎌刃城は領地争いの最前線として城取り合戦に巻き込まれていく。やがて京極氏が衰退し、江北の実権が浅井氏へ移ると、堀氏は浅井氏に属するようになった。永禄10年(1567)、織田信長が浅井長政と同盟して翌永禄11年に上洛を果たすが、元亀元年(1570)に長政が離反すると、国境防衛の要地として再び戦国の最前線に置かれた。
同年、浅井方は国境防衛のため「たけくらべ(長比城)」と「かりやす(苅安城)」に要害を構え、鎌刃城主堀秀村と老臣樋口直房が守備にあたった。しかし信長軍の攻勢は早く、両城は短期間で攻略される。堀氏はやがて織田方に内応し、坂田郡六万石を与えられた。元亀2年(1571)5月、浅井井規を大将とする浅井勢が反攻したものの、鎌刃城が再び浅井方に戻ることはなかった。
その後、天正2年(1574)に堀氏は改易され、城内に備蓄されていた米穀二千俵が徳川家康に与えられた記録が残る。江北支配が羽柴秀吉のもとに移り、長浜城が築かれると、鎌刃城はその役割を終え廃城となったと考えられている。なお、廃城時には石垣を崩し虎口を埋めるなど、徹底した「破城(はじょう)」が行われたことが発掘調査で明らかになっている。
鎌刃城の特徴と構造
鎌刃城は東西約400m、南北約500mの広がりをもつ大規模な山城で、江北地方では小谷城に次ぐ規模とされる。標高384mの山頂に主郭を置き、北・南・西の三方に延びる尾根上に多数の曲輪を連続配置する縄張りが特徴だ。北尾根に7箇所、南尾根に2箇所、西尾根に8箇所の曲輪が確認されている。
主郭周辺の曲輪の一部は石灰岩の石積みにより普請され、虎口は折れを伴う枡形や直進する平虎口構造など、強い防御性を備えていた。尾根の先端は堀切で遮断され、西尾根には連続する竪堀群も築かれている。
発掘調査では、主郭や北方尾根の曲輪から礎石建物跡や総柱構造の大規模建物跡が検出され、鉄釘や陶磁器などの生活遺物も出土した。特に出土した陶磁器は16世紀中頃のものに位置づけられる。これらは城内で日常生活が営まれていたことを示し、鎌刃城が単なる境目の砦ではなく、城主の居住機能を備えた本格的な山城であったことを物語っている。
鎌刃城の整備状況
鎌刃城は長く山林に埋もれていたが、平成3年(1991)の殿屋敷遺跡の発掘を契機に再評価が進んだ。地元住民による「番場の明日を知り明日を考える会」などの保存活動や学習会が重ねられ、平成9年(1997)には米原町(当時)指定文化財となる。
平成10年(1998)からは調査整備委員会が設置され、発掘調査と整備事業が本格的に進められた。平成14年(2002)には滋賀県指定史跡となり、さらに平成17年(2005)には国史跡に指定されている。
近年は主郭虎口の整備や見学環境の改善が進められ、シンポジウムや見学会など地域ぐるみの取り組みが継続して行われている。地元有志や子どもたちが調査に参加する活動も行われ、文化財を守り伝える機運が高まっている。現在では県内外から多くの見学者が訪れる史跡となり、地域の歴史とまちづくりを支える存在として整備が進められている。
- 『国指定史跡鎌刃城跡 調査報告書』(滋賀県文化財保護協会)
- 文化遺産オンライン「鎌刃城跡」(文化庁)
鎌刃城とあわせて訪ねたい史跡
このあたりは、旧中山道の番場宿があった場所で、主要な道からほど近いところに、「土肥氏殿屋敷跡」「堀氏館跡」や鎌刃城の登山口がある。宿場町の風景は、近年の建築物の軒が連なるが、道筋には多少の風情が残る。
鎌刃城から広がる城めぐり
近江の戦国山城
尾根と谷を取り込み築かれた、近江を代表する戦国山城を歩く。
鎌刃城の観光情報とアクセス
所在地
電話:0749-53-5154(米原市役所教育委員会事務局)
アクセス
鉄道利用
JR東海道本線、新幹線、北陸本線、米原駅からバス「番場」降車、徒歩約45分。麓から登山約40分。
マイカー利用
北陸自動車道、米原ICから車で約5分。中山道番場宿西見付跡付近にある鎌刃城跡駐車場を利用する。麓から登山約40分で城跡。
なお、林道利用の場合は、米原IC付近から延びる「林道滝谷武奈線」を進む。鎌刃城駐車場の標識あり。徒歩約300mで城跡に至る。
鎌刃城:城ファンの知見と記録
鎌刃城を訪ねた人たちが残してきた記録です。現地での発見や知見が寄せられ、城歩きの文化の中で育まれてきた経験がここに蓄積されています(全3件)。
鎌刃城での発見を記録に残しませんか?
岡 泰行 | 城郭カメラマン [プロフィール]
1996年より日本各地の城郭を訪ね歩き、取材と撮影を続けている。「先人たちの知恵とおしゃれ心」をテーマに、四半世紀にわたり城のたたずまいと土地の風土を記録してきた。撮影を通して城郭に宿る美意識を見つめ、遺構や城下町の風景に残る歴史の息づかいを伝えている。作品は書籍、テレビ、新聞など多くのメディアで紹介され、城の美しさと文化を広く発信している。







鎌刃城の水の手についてでう。地元、番場町では来年の秋に、400m離れた水の手から本丸まで水を引く実験をされますが、2000年12月に青龍滝取水口からパイプを敷設する位置と高さを確認するための測量を実施するそうです。
なぜこんな山奥にこんな堅固な城が築かれたかのか、中井先生のお話ですが、中山道が通行できない時の抜け道が鎌刃城のすぐ横を通っており、この道の通行を固める為に築かれたのではないかとおっしゃておられました。
城郭によく見られる内升形虎口が、室町時代後期の城跡、鎌刃城跡から発見された。虎口に石垣を使ったのは、安土城がはじめての例ではないかというのが、今までの見方ですが、これよりも先に使われていたということになります。観音寺城、小谷城に次ぐ規模だそうで、今後、3年発掘を続け、城の規模を明らかにするとのこと。