三雲城の歴史・見どころ

三雲城は、近江国守護佐々木六角氏に仕えた三雲氏の居城であり、甲賀の地における重要な拠点であった。野洲川南岸の要地に築かれ、六角氏の軍事行動を支える拠点として機能している。

長享元年(1487)、室町幕府将軍足利義尚が六角氏討伐を命じた際、六角氏は本拠、観音寺城の危機を察知し、三雲城を臨時の本城として用いた。以後も観音寺城が脅かされるたびに甲賀へ退き、再起を図る戦術がとられており、三雲城はその中核を担った。こうした性格から、本城を失った際の拠点、いわゆる「六角氏の逃げ城」といえる。

天文6年(1537)には六角承禎(義賢)が、さらに永禄11年(1568)には六角承禎(義賢)・義弼がこの城に退いており、観音寺城の奥城と呼ぶべき性格を持っていたことがうかがえる。城内の巨石に六角氏の家紋である「四目結」が刻まれている点も、その関係を示すものとされる。

三雲氏は六角氏の重臣として長く活動し、明国貿易にも関与するなど勢力を保ったが、元亀元年(1570)の野洲川の戦いで織田信長に敗れた。六角氏が信長と和睦したのちも、三雲氏はこれに従わず浪人となる。その後は織田信雄や蒲生氏郷に仕え、さらに徳川政権下では一千石の旗本として存続した。『淡海温故録』には、三雲一族が一人も信長に降参せず信義を重んじ、主を変えても家を絶やさなかったことが記されている。

その後、三雲城は戦国期の抗争の終息とともに破城されたと考えられている。廃城後には、水口岡山城の築城に際して三雲城の資材が運び出されたと伝えられている。

三雲城の特徴と構造

三雲城は標高334mの山上に築かれた山城で、城域は約300m×200mの規模をもつ。主郭を中心に郭が連なり、土塁や井戸が残るほか、一部に石垣が確認されている。

とくに主郭枡形虎口周辺の巨石を用いた石垣は注目される。これらは織田信長の安土城に先行する石垣技術の一例とされ、近江における城郭発展の過程を示す遺構だ。

一方で主郭は最高所に置かれておらず、背後の尾根にさらに高所の小規模な郭が連なる構造を持つ。このような地形利用は、防御と地勢の双方を意識した縄張といえる。現在見られる遺構は、戦国期の抗争後に破城された状態を伝えている。

三雲城の主郭枡形虎口
巨石で用い造られた堅牢な主郭枡形虎口。矢穴列痕が残る石も確認できる。
三雲城の主郭石垣
主郭石垣。この城の中枢部であることを物語る堅牢さが宿る。
三雲城の井戸
約6mの深さの井戸。内部の石積は穴太済みとされる。
三雲城の見張り台(八丈岩)
三雲城の見張り台とされ、八丈岩と呼ばれる磐座。
三雲城の六角氏家紋の刻印岩
見張り台の巨石群には六角氏の「隅立て四つ目結」の刻印がある。

三雲城の整備状況

三雲城は現在、山林の中に遺構が残る形で見学可能だ。主郭や石垣、虎口などを現地で確認することができる。特に主郭周辺に残る石垣は見どころで、巨石を用いた構造がよく分かる。城内には案内表示も整備されている。

また、主郭東側に位置する「八条岩」と呼ばれる磐座(いわくら)は、城内でも特異な存在で訪れる人の関心を集めている。周辺には東海道に関係する史跡が点在し、歴史的景観とあわせて散策を楽しめる環境にある。

  • 『日本城郭大系11』(新人物往来社)
  • Webサイト「新近江名所圖会 三雲城と八条岩」(滋賀県文化財保護協会)

三雲城アクセス・駐車場・営業時間

所在地

住所:滋賀県湖南市吉永 [地図を見る]

県別一覧:[滋賀県の城]

電話0748-71-2157(湖南市観光協会)

アクセス

鉄道利用

JR草津線、三雲駅下車、徒歩約52分(3.4km)で登山口。

マイカー利用

東名高速道路、栗東湖南ICから20分(10.2km)、麓に「三雲城址・八丈岩 駐車場」があるが、さらに車道を登り、登山口近くの三雲城の歴史解説板の前に数台の駐車スペースがある。

地図